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2018年10月26日金曜日

人生の親戚としてのコンスタンティン・ブランクーシ

いやあボクは主に「無意識」をめぐっているわけでね、「アタシはそうは思わない」なんて言われてもさ、当たり前だよ、そんなこと。

もっとも無意識にも「抑圧された無意識 Verdrängten Unbewußt」と「抑圧されていない無意識 nicht verdrängtes Ubw 」(フロイト『自我とエス』)があって、だいたいの人は前者しか把握していないから厄介なんだけど、ボクが主に記述しているのは「抑圧されていない」身体の無意識。

私は私の身体で話している。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973)

つまり次の図の右側が「身体による無意識」(抑圧されていない無意識)だよ(左が「言語による無意識」(抑圧された無意識)。





ようするに冥界機械の話さ。

女の身体は冥界機械 chthonian machine である。その機械は、身体に住んでいる魂とは無関係だ。(Camille Paglia “Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism”, 2018)
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
魂とは肉体のなかにある何ものかの名にすぎない。Seele ist nur ein Wort für ein Etwas am Leibe.

わたしの兄弟よ、君の思想と感受性の背後に、一個の強力な支配者、知られていない賢者がいる。ーーその名が「本来のおのれ」である。君の肉体のなかに、かれが住んでいる。君の肉体がかれである。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「肉体の軽侮者」)

女性の場合はことさら、冥界機械をなだめないとダメなんじゃないだろうか? ボクは男だから実感としてはよくわからないけど、たとえば子宮とオチンチンでは冥界度に格段の差がある気がするな。

古来からこう言われているわけだし。

性交の喜びを10とすれば、男と女との快楽比は1:9である。(ティレシアス)
性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier(ラテン語格言、ギリシャ人医師兼哲学者Galen)
われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは…かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝(ティトゥス・イリウス・プロクルス)とある皇后(クラディウス帝の妃メッサリナ)自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。……以上のことを信じ、かつ、説きながらも、われわれ男性は、純潔を女性にだけ特有な本分として課し、これを犯せば極刑に処すると言うのである。(モンテーニュ『エセー』)

ようするに現代の「過激派フェミニスト」カミール・パーリアの言ってる通りだと思っているね。もちろん例外はあるんだろうけどさ。

⋯⋯⋯⋯

幸枝さんがあらためて私に話したのは、もうみんなが知ってることです。私たちは、それを糾弾しもしたわけですが、幸枝さんの側からの念入りな話を聞いて思ったのは、こんなふうだったならば、事態があれだけ険悪化する前に、手のうちようもあったんじゃないか、ということ。その気持が、私の主題、「性欲の処理」になったわけです。

幸枝さんが、「集会所」に引き起こした厄介事。それは彼女がテューター・小父さんに感情的な傾斜を深めたことです。ついには寝室に忍び込むようになった、というのがクライマックスでした。ことを荒だてたくなかったから、なだめようとして関係したと、テューター・小父さんは弁明したのでしたが、かれが幾度も幸枝さんの要求に応えたことから、問題はさらに厄介となったのです。幸枝さんはテューター・小父さんの配偶者になるといいだし、「集会所」での権力を確保しようとしました。……

幸枝さんの、電車のなかでの打ち明け話…幸枝さんは、「集会所」に来る前、ボーイ・フレンドと肉体関係がありました。両方の家族に干渉され、関係が行きづまったこともあって、「集会所」に来ることになったそうです。そしテューター・小父さんの「説教」に救われ、正式に会員となったわけですから、彼女がテューター・小父さんを敬愛していたことは確かなのです。

けれども、はじめから肉体関係を結ぼうという気持があったのではなかった。むしろ男性としては魅力のない、ずっと年上の小父さんという感じだった。…ところが「集会所」では、若い男性とのつきあいがないわけですね。…

そのようにして日をすごすうちに、幸枝さんは、頭のなかの考えというより、腰の奥の力に押しまくられることになりました。とうとうある晩、---もうだめだ、これ以上ガマンできない!と思ったそうです。そしてテューター・小父さんの寝室へしのび込んだのでした。いったん関係が生じてみると、テューター・小父さんにこれまでとちがう魅かれ方をするようになった。仲間がテューター・小父さんに親しげにふるまいをすると、美代ちゃんに対してすら、嫉妬して邪慳なことをいってしまう。それは私たちが周りで見て来た通りね。

私は幸枝さんの話に、大切なことがふくまれていると思いました。私たちにも起こりかねないことですから。つまり頭のなかの考えより、腰の奥の力に押しまくられる、ということね。その結果、暴発して、誰かが新たにテューター・小父さんの寝室に押しかけないともかぎりません。さらにテューター・小父さんの方で、その気になるということがあるかも知れないわけです(笑)。

そこでどうすればいいか? はじめにいったとおり、身も蓋もない話ですが、腰の奥の力を圧力抜きしなければなりません。そのためには、マスターベイションが手軽です。圧力抜きというのは、ニューヨークのハイスクールで使われていた言葉の訳ですけれど…… マスターベイションについて、倫理的な反感をいだくよう私たちは教育されていますが、聖書で批判的に描かれているのは、男性の場合です。子孫繁栄のための精子を、地面に洩らしたということが、批判の眼目なのであって、女性の私たちにはあてはまりません。
こうした考えに立って、ということですが、私がことごとしく「性欲の処理」というような「説教」をするのは、「集会所」の生活の仕方を考えてのことです。個室にひとりで眠るというのじゃなく、二段ベッドの暮しですから、腰の奥の力を圧力抜きするとして、他の人たちの耳を気にかけるのは不健康だと思うからです。「集会所」の活動、とくに「瞑想」によく集中できるように、ムダな神経を使わないことにしたい。周囲を気にかけないで、必要なら自由にマスターベーションをすることをすすめたい。腰の奥の力に押しまくられて、---もうだめだ、これ以上はガマンできない! と自分にいいながら、ベッドから這い出すようなことはないようにしたい。

なんとも心が苦しい時、いくらかでもそれをまぎらすためにマスターベーションをするならば、それはアルコール飲料に走るよりも健全だと思います。マスターベーション依存症という話はきいたことがありません。動物園の猿の話は聞いたように思うけど、すくなくとも人間でいうかぎり…… 圧力抜きをすれば、また圧力が増してくるまでは、しばらくなりと「瞑想」に集中できるでしょう。(大江健三郎『人生の親戚』)


最近は発展して コンスタンティン・ブランクーシ並の美をもった「腰の奥の力の圧力抜き」装置があるみたいだから、女性の常備品にすべきじゃないでしょうか。すくなくともいったんクセがついたあとにはさ。飾っとくだけでも美しいよ。