(サディズム/マゾヒズムの実践者は)身体をエロス化する érotisant ce corps ことにより、身体の馴染みのない部位 parties bizarres de leur corps を以て、快の新しい可能性を発明している inventent de nouvelles possibilités de plaisir 。……私はこれを「快の脱性化 désexualisation du plaisir 」と呼ぶ。身体的快 plaisir physique は常に性的快 plaisir sexuel から来るという考え方、そして性的快は我々のあらゆる可能な快の根だという考え方ーーこれは全く間違っているc’est vraiment quelque chose de fauxと私は思う。(フーコー M. Foucault, « Une interview : sexe, pouvoir et la politique de l’identité »、1984)
ーー《身体的快は常に性的快から来るという考え方、そして性的快は我々の可能なあらゆる快の根だという考え方ーーこれは全く間違っていると私は思う》という立場を私は取らないが、とはいえ、いかにもフーコーらしくとても魅惑的な表現で溢れかえっている、「身体をエロス化する」、「身体の馴染みのない部位」、「快の脱性化」⋯⋯⋯。
なぜフーコーの考え方を取らないかと言えば、フロイトの「性的」の定義を取るからだ。フロイトの定義は、1905年の性欲論の段階では、「欲動に関係する」、あるいは「駆り立てられる」(Triebの原義)である。
もっと分かりやすい定義もある。フロイトは「性的」という語の定義を、死の枕元にあったとされる草稿で箇条書きしている。
a) 性的生 Sexualleben は、思春期からのみ始まるのではなく、出生後ただちに性的生の明瞭な顕れがある。
b) 「性的sexuell」概念と「性器的genital」概念とのあいだに注意深い区別をする必要がある。前者はより広い概念であり、性器 Genitalien とは全く関係がない多くの活動を含んでいる。
c) 性的生Sexuallebenは、身体諸領域 Körperzonen からの「快の獲得Lustgewinnung」機能によって構成されている。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
フーコーのいう身体的快は、このフロイトの「性的」の定義から外れるとは思えない。フロイトは引き続いてこうも記している。
いま「快の獲得 Lustgewinn」という用語が出現したが、この語についてラカンはこう言っている。
この「快の獲得」は、現代ラカン派において「享楽欠如の享楽(jouir du manque à jouir)」とも呼ばれる(参照)。これはマルクスの「自動的フェティッシュ」と論理的には等価とされる。
ラカンはこの自動的フェティッシュに相当するだろうものを「黒いフェティッシュ」とも呼んでいる。
ーー黒いフェティッシュ=純粋対象とは、形式としての対象であり、ドゥルーズの表現なら永遠回帰(自動的反復強迫)としての「純粋差異 pure différence」(内的差異 différence interne)に相当する。
ラカンによる内的差異の最も簡潔な図式はこうである(参照)。
ラカンには他に、「非性的-対象a性的[ (a)sexuée]」あるいは「対象a-解剖学的[ (a)-natomie]」という表現があるが、これこそ欲動-剰余享楽的ということである。
あるいはこうもある。
「不快 déplaisir」は、フーコーの表現「快の脱性化 désexualisation du plaisir」に応じて、「脱快 déplaisir」と訳してもよいかもしれない。
これは、快原理の彼岸にある快であり、フロイトの《苦痛のなかの快 Schmerzlust》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)であり、既にソクラテスがとっくに昔に言っていることでもある。
………
フーコーと親しかったレオ・ベルサーニ Leo Bersaniは、フーコーが耽溺したサンフランシスコのSM bathhouse での「鞭打ち、フィストファック、罵り、乳首焦がし whipped, fist-fucked, verbally abused, and singed the nipples of the other」等の行為は、一晩にうちに役割交代がありえたことを指摘している(『FOUEAULT, FREUD, FANTASY, AND POWER 』1995年、pdf)。
晩年のフロイトの思考においては「原初にマゾヒズムありき」である。 サディズムとはそこから派生した二次的なものにすぎない(参照)。
晩年のフロイトはこのように考えたとはいえ、次のようなことは言いうるかもしれない。
というのは最晩年(1937年)においてさえ受動的立場の拒否が人間の精神活動の根だと言っているのだから。
今、純粋に理論的憶測としてのみ、こう記していることを強調して置かねばならない。そしてドゥルーズの制度的サド/契約的マゾッホの議論を知らないわけではないが、いったんそれを脇にやってこう記している。あの議論におけるサディズムとは、父の法内部の世界の話であり、マゾヒズムは父の法の彼岸、母の法の世界の話である。
ラカン派の議論においては、リビドー固着とは、母の法の世界にかかわるのである(母による身体の上への刻印=固着)。そして享楽とは、なによりもまず固着とその効果である。
そして、くり返せば、享楽の本質はマゾヒズムなのである。
まずはじめに口が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは「性的 sexuell」と名づけることができるし、またそうすべきものである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
いま「快の獲得 Lustgewinn」という用語が出現したが、この語についてラカンはこう言っている。
フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)
この「快の獲得」は、現代ラカン派において「享楽欠如の享楽(jouir du manque à jouir)」とも呼ばれる(参照)。これはマルクスの「自動的フェティッシュ」と論理的には等価とされる。
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(マルクス『資本論』第三巻)
ラカンはこの自動的フェティッシュに相当するだろうものを「黒いフェティッシュ」とも呼んでいる。
享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir となる。(ラカン、E773、Kant avec Sade 1963年)
純粋対象、黒いフェティッシュpur objet, fétiche noir. (S10, 16 janvier 1963)
ーー黒いフェティッシュ=純粋対象とは、形式としての対象であり、ドゥルーズの表現なら永遠回帰(自動的反復強迫)としての「純粋差異 pure différence」(内的差異 différence interne)に相当する。
ラカンによる内的差異の最も簡潔な図式はこうである(参照)。
ラカンには他に、「非性的-対象a性的[ (a)sexuée]」あるいは「対象a-解剖学的[ (a)-natomie]」という表現があるが、これこそ欲動-剰余享楽的ということである。
あるいはこうもある。
不快とは、享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. (Lacan, S17, 11 Février 1970)
「不快 déplaisir」は、フーコーの表現「快の脱性化 désexualisation du plaisir」に応じて、「脱快 déplaisir」と訳してもよいかもしれない。
これは、快原理の彼岸にある快であり、フロイトの《苦痛のなかの快 Schmerzlust》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)であり、既にソクラテスがとっくに昔に言っていることでもある。
ソクラテス) 諸君、ひとびとがふつう快(ἡδύ)と呼んでいるものは、なんとも奇妙なものらしい。それは、まさに反対物と思われているもの、つまり、苦痛(λυπηρόν)と、じつに不思議な具合につながっているのではないか。(プラトン『パイドン』60B)
………
フーコーと親しかったレオ・ベルサーニ Leo Bersaniは、フーコーが耽溺したサンフランシスコのSM bathhouse での「鞭打ち、フィストファック、罵り、乳首焦がし whipped, fist-fucked, verbally abused, and singed the nipples of the other」等の行為は、一晩にうちに役割交代がありえたことを指摘している(『FOUEAULT, FREUD, FANTASY, AND POWER 』1995年、pdf)。
(フーコー、バークレー、1983年) |
フーコーの死後、その自室から性具・猿ぐつわ等のSM性癖関係の拘束具が数多く出てきたことが伝えられている(ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』訳者佐宗鈴夫「あとがき」より)
晩年のフロイトの思考においては「原初にマゾヒズムありき」である。 サディズムとはそこから派生した二次的なものにすぎない(参照)。
晩年のフロイトはこのように考えたとはいえ、次のようなことは言いうるかもしれない。
フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼岸には、受動的ポジションへの欲望がある。他の人物、他のモノに服従する欲望である。そのなかに消滅する欲望……。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、 1998年)
というのは最晩年(1937年)においてさえ受動的立場の拒否が人間の精神活動の根だと言っているのだから。
人には、受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある…私は、この「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
⋯⋯⋯⋯
ベルサーニのいう「鞭打ち、フィストファック、罵り、乳首焦がし」とは、すべてラカンの対象aにかかわる。
最後に記されている「無」とは、原初に喪失した対象(ラメラ≒羊膜)としてまずは捉えうるが、これ以外に代表的表現として「穴」、さらに「骨象」と表現される対象aがあり、実質的にはこれも無に近似する。
「骨象」とは、身体に突き刺さった骨、身体の上への刻印、フロイトのリビドー固着Libidofixierungen、異物 Fremdkörper のことである。
この無に近似した穴の廻りを循環運動するのが、究極の対象aの意味であり、真の対象aとは実は対象ではない。
※より詳しくは「モノと対象a」を見よ。
以下の語彙群はすべてほぼ同じ意味合いをもっている。
ところで、フロイトは「脱性化」という語を次のように使っている。
ここにある「ナルシシズム的リビドー」とは、自体性愛のことである。
そしてこれこそ上の図に示した「自ら享楽する身体」であり、ラカンにおける享楽という語の核心的意味のひとつである。
ようするにフロイトの「脱性化」とは、ラカン的には、ファルス享楽の彼岸にある身体の享楽であり、これこそ自体性愛的-原ナルシシズム的な「リビドー固着の反復強迫(=サントームの享楽)」なのである、ーー《ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、…身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。》(Miller, L'être et l'un、2011)
フロイトはこうも書いている。
ベルサーニのいうように、フーコーが耽ったサンフランシスコのSMバスハウスで役割交代がありえたなら、本源的にはサディズム志向ではなく、原ナルシシズムとしてのマゾヒズム中心的傾向をフーコーは愛したのではないだろうか。
まさにフロイト的図式のように。
ベルサーニのいう「鞭打ち、フィストファック、罵り、乳首焦がし」とは、すべてラカンの対象aにかかわる。
(対象aの形象化として)、乳首[mamelon]、糞便 [scybale]、ファルス(想像的対象)[phallus (objet imaginaire=想像的ファルス])、小便[尿流 flot urinaire]、ーーこれらに付け加えて、音素[le phonème]、眼差し[le regard]、声[la voix]、そして無[ le rien]がある。(ラカン、E817、1960年)
最後に記されている「無」とは、原初に喪失した対象(ラメラ≒羊膜)としてまずは捉えうるが、これ以外に代表的表現として「穴」、さらに「骨象」と表現される対象aがあり、実質的にはこれも無に近似する。
対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
身体は穴である。corps…C'est un trou(ラカン、ニース会議、1974)
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
「骨象」とは、身体に突き刺さった骨、身体の上への刻印、フロイトのリビドー固着Libidofixierungen、異物 Fremdkörper のことである。
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(=異物)(ラカン、S23、11 Mai 1976)
この無に近似した穴の廻りを循環運動するのが、究極の対象aの意味であり、真の対象aとは実は対象ではない。
我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
※より詳しくは「モノと対象a」を見よ。
以下の語彙群はすべてほぼ同じ意味合いをもっている。
フロイト・ラカン「固着」語彙群 |
ところで、フロイトは「脱性化」という語を次のように使っている。
対象リビドーObjektlibido が、ナルシシズム的リビドーnarzißtische Libidoに変わることは、明らかに性的目標の放棄(止揚)Aufgeben der Sexualzieleをもたらし脱性化 Desexualisierung、すなわち一種の昇華 Sublimierung をもたらす。(フロイト『自我とエス』1923年)
ここにある「ナルシシズム的リビドー」とは、自体性愛のことである。
自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
そしてこれこそ上の図に示した「自ら享楽する身体」であり、ラカンにおける享楽という語の核心的意味のひとつである。
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。
…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
ようするにフロイトの「脱性化」とは、ラカン的には、ファルス享楽の彼岸にある身体の享楽であり、これこそ自体性愛的-原ナルシシズム的な「リビドー固着の反復強迫(=サントームの享楽)」なのである、ーー《ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、…身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。》(Miller, L'être et l'un、2011)
フロイトはこうも書いている。
・同性愛の対象選択 homosexuelle Objektwahl は本源的に、異性愛の対象選択に比べナルシシズムに接近している。
・われわれは、ナルシシズム的型対象選択への強いリビドー固着 starke Libidofixierung を、同性愛が現れる素因のなかに包含する。 (フロイト『精神分析入門』第26章 「Die Libidotheorie und der Narzißmus」1916年)
ベルサーニのいうように、フーコーが耽ったサンフランシスコのSMバスハウスで役割交代がありえたなら、本源的にはサディズム志向ではなく、原ナルシシズムとしてのマゾヒズム中心的傾向をフーコーは愛したのではないだろうか。
まさにフロイト的図式のように。
今、純粋に理論的憶測としてのみ、こう記していることを強調して置かねばならない。そしてドゥルーズの制度的サド/契約的マゾッホの議論を知らないわけではないが、いったんそれを脇にやってこう記している。あの議論におけるサディズムとは、父の法内部の世界の話であり、マゾヒズムは父の法の彼岸、母の法の世界の話である。
マゾヒズムの場合、法のすべては母へ投入される。そして母は象徴的空間から父を排除してしまう。Dans le cas du masochisme, toute la loi est reportée sur la mère : la mère expulse le père de la sphère symbolique. (ドゥルーズ 『マゾッホとサド』)
ラカン派の議論においては、リビドー固着とは、母の法の世界にかかわるのである(母による身体の上への刻印=固着)。そして享楽とは、なによりもまず固着とその効果である。
分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)
そして、くり返せば、享楽の本質はマゾヒズムなのである。
享楽はその根源においてマゾヒスム的である。(ラカン、S16, 15 Janvier 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)