ニーチェってのは「酔歌」に決まってるだろ。ツァラトゥストラ第4部グランフィナーレのあれしかない、ニーチェの核心は。
美としては第2部の「夜の歌」「墓の歌」「最も静かな時」、第4部中盤の「正午」等のほうがいいかもな、でも思想的には「酔歌」しかない。
ああ41歳のニーチェの酔歌!
享楽が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.
…すべての享楽は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」1885年)
これを外してニーチェなんてものはない。「力への意志」だってすでにここにある。
・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。
・しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)
ーー酔歌がワカッタという「錯覚に閉じこもりうる」までには、初めて読んでから40年ほどかかったがね。
ラカンの「享楽回帰」は「酔歌」ーー《享楽 lust が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ》ーーのパクリだ。
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…
フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
ラカンのサントームとは、永遠回帰のパクリだ。
症状(サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)
ラカンのサントームは、フロイトの「トラウマへの固着」(リビドー 固着)のパクリだ。
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
フロイトの「不変の個性刻印」とは、『善悪の彼岸』70番のパクリだ。
もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
フロイトの「トラウマへの固着」とは「墓の歌」のパクリだ。
・わたしの所有している最も傷つきやすいものを目がけて、人々は矢を射かけた。つまり、おまえたちを目がけて。おまえたちの膚はうぶ毛に似ていた。それ以上に微笑に似ていた、ひとにちらと見られるともう死んでゆく微笑に。
・そうだ、傷つけることのできないもの、葬ることのできないもの、岩をも砕くものが、わたしにはそなわっている。その名はわたしの意志 Wille だ。それは黙々として、屈することなく歳月のなかを歩んでゆく。(『ツァラトゥストラ』第二部「墓の歌」1884年)
『道徳の系譜』第二論文のパクリと言ってもよい。
「烙きつけるのは記憶に残すためである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。(ニーチェ『道徳の系譜』第二論文、1887年)
フロイトの反復強迫とは、永遠回帰のパクリだ。
同一の体験の反復の中に現れる不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
フロイトの「不気味なもの」とはニーチェの愛人サロメのパクリだ。
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。(フロイト『不気味なもの』1919年)
私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。(ルー・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)
ま、でもこういったことはワカラナイでいいのさ、ツァラトゥストラ4部だって引き受ける出版社がなくて、私家版40部だか50部刷って知り合いに配っただけなんだから。
いまだって似たようなもんさ、世界には(蚊居肢子以外には?)、ワカッテル人物を数えるのは片手で十分さ。日本ではゼロであるのは間違いないね、もっとも小林秀雄の「ニイチェ雑感」はいいセンいってたが、それ以後、日本思想界はひたすら退行の道を歩んでるからな。
力への意志Wille zur Machtが原始的な情動 Affekte 形式であり、その他の情動 Affekte は単にその発現形態であること、――(……)「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)
そもそも永井均だと? ありゃたんなるゴマスリ学者だよ、一行掠め読むだけで鳥肌立つな。ああいったオベンチャラ系蛆虫に依拠してナンタラ言ってくるな。
作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」『ガンジュ侯爵夫人』)