このブログを検索

2019年3月3日日曜日

窮ソ猫ヲハム

オットー・ランク(1913年)はちかごろ、神経症的な復讐行為が不当に別の人にむけられたみごとな症例を示した。この無意識の態度については、次の滑稽な挿話を思い出さずにはいられない。それは、村に一人しかいない鍛冶屋が死刑に値する犯罪をひきおこしたために、その村にいた三人の仕立屋のうちの一人が処刑されたという話である。刑罰は、たとえ罪人に加えられるのではなくとも、かならず実行されなければならない、というのだ。(フロイト『自我とエス』1923年)

たとえば、恐妻家は妻に対して怒りを抱いていても
その怒りに伴う攻撃性は妻自身には直接向かわず子供に向かう
ーーだな。直接文句いうと、おっかねえからな

怒りとその怒りにしばしば伴う攻撃性は、ほとんど常に不能感と無力感の表出である。(バーハウ、1998)

もっと一般的に言えば、
人が内的不快から逃れる唯一の方法は、
外部の世界にその不快を「投射」すること。
標的探してね。
安倍なんかはリベラル左翼にとって
恰好の標的であり続けているんだろうがね。

でも安倍は安倍だよ。
日本人はあいつを選び続けてんだから
安倍に攻撃欲動むけてもどうしようもないさ。
ほんとは日本人が不快なんじゃないかい、
〈あなた〉のなかの日本人が。


中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。他山の石はチェコ、アイスランド、オランダ、せいぜい英国であり、決して中国や米国、ロシアではない。(中井久夫「日本人がダメなのは成功のときである」1994年『精神科医がものを書くとき』所収)
日本という国は地震の巣窟だということ。大水、噴火、飢餓なども、年譜を見ればのべつ幕なしでしょう。この列島に住み、これだけの文明社会を構築してしまったという問題があります。(古井由吉「新潮45」2012 年1 月号)


そもそも地震大国日本ではヴィジョンある政治ってのはムリなんだよ
あっちへうろうろ
こっちへうろうろ
それしかないね
坂道ころげおちる速度をゆるめてくれよ、ってぐらいだろうな


雨ニモ負ケテ
風ニモ負ケテ
アチラニ気兼ネシ
コチラニ気兼ネシ
(……)
アッチヘウロウロ
コッチヘウロウロ
ソノウチ進退谷マッテ
窮ソ猫ヲハム勢イデトビダシテユキ
オヒゲニサワッテ気ヲ失ウ
ソウイウモノニワタシハナリソウダ

ーーー堀田善衛『広場の孤独』より


窮ソ猫ヲハムだけはおまえやめとけよ、
あの総理大臣に文句をいうのならその程度さ

そもそもじいさんばあさんがかぎりなくおおくなって
こどもがすくなくなっちまった国の借金地獄対策ってのは
もはやだれがやったってムリさ
デフォルトしかないな対応策は