これほど完璧に近い卵型はほかには見当たらない。
何世紀ものあいだにすぐれた様式化をなされていったキクラデス諸島彫刻のなかでも、奇跡である。
これらの彫刻群は基本的には死体といっしょに埋葬される「永遠の女神」である。
顧客に手に入れらるのは、死の以前であることも多く、おそらく家のなかに飾られていた(ときには目や首飾りなどの描画がなされたり赤などの着色がなされたりして)。これは、20世紀前後に一部の芸術家(ブランクーシ、ピカソ、モディリアーニ)等だけにほそぼそと愛されたキクラデス彫刻を、1980年前後から初めて系統的分析をしたパット・ゲッツ・ジェントル Pat Getz-Gentle 女史の見解だが、現在に至るまで覆される様子はない。
彼女の1990年時点の論文によれば、そのときまで男性像は5パーセント程度しか発掘されておらず、制作意図の基本は、おそらく「永遠の生」(ゾーエー)としての女神の象徴化である。
大理石の質感としては、陳列棚の右隅にある頭部像がいっそう好ましいが、彼は(つまり蚊居肢子は)この左隅の像をどうしても取る。軀部分などまったくいらない、この女の頭だけでいい。
形態的には墓のなかに横にして安置される彫像なので、いささか尖った卵にならざるをえないのだろうが、その様式化に対する微妙な離反としてのこの形である。
実に蚊居肢子の所有する亀頭的美をもっている。いっしょに埋められたのはきっと麗しき美女だったことだろう・・・
この作品制作職人にさいわいあれ!
ここで挿入的に記せば、もちろん蚊居肢子は我が江戸文化鼈甲芸術の無名制作者にも敬意をうしなう者ではまったくない(そもそもキクラデス彫刻の小ぶりのものは、あの時代の張型だった可能性があるのでは、と蚊居肢子は密かに考えているが、この見解は世界中でまだ誰も公けにしておらず、今後の究明がひどくまたれる)。
話を戻せば、あの作品のイミテーションが、ルーブルの土産物ショップに売っていて手に入れたが、35年のあいだこの卵に至高の愛を捧げている。
彼の所有している卵は使用過多でいささか黄ばんでしまったが。
上のようにゴダールのパートナー、アンヌ=マリー・ミエヴィルも我が神代辰巳も卵に究極の愛を捧げている。卵以外のほかのイマージュなどすべてまがいものである。
ただしくりかえせば、質感だけは右隅のものがよい。艶光りしているのである。このような輝きは、鼈鍋を食ったあとにしかもはや老年の蚊居肢子には見出されない。
《秘訣とは卵のあの曲面ですよ。なぜなら、陶工の轆轤がまずはじめに形を仕上げていれば、見かけ倒しの部分はもうなくなっているから。》(アラン『彫刻家との対話』)
彫刻がばかでかくなったのばかげている
すべてのものは球か、円錐か円筒形である...それは事実だ。その観察を最初に(自分が)したのではないのは、なんともうまくない(残念だ)。セザンヌは正しかった。(ジャコメッティーーメルセデス・マッター『試論』)
《秘訣とは卵のあの曲面ですよ。なぜなら、陶工の轆轤がまずはじめに形を仕上げていれば、見かけ倒しの部分はもうなくなっているから。》(アラン『彫刻家との対話』)
彫刻がばかでかくなったのばかげている
飾りものが多い彫刻もばかげている
卵かそれよりもすこし大きい形の彫刻
美の起源はそこにしかない
ーーなんというギリシア芸術の不幸な進展! さらにローマ以降、あるいはルネサンス彫刻の誇大妄想的作品群など鼻を抓んで眺めるしかないのである(シツレイ! これは架空の登場人物「蚊居肢子」の偏見的話だということを再度念押しして置かなくてはならない。フロイトが言ったように愛とは排他的なのである)。
ーージャコメッティやアランのいっている卵は、より無意識的レベルでは別の意味がある筈である。
なぜアンドレ・ブルトンは、ジャコメッティ30歳のときの作品「宙吊りになった玉 Boule suspendue」を、ジャコメッティがシュルレアリスム運動から離反したあとも生涯愛し続けたのか?
真の芸術家たちは、真の美をよく知っているのである。
なお美については一見相反する二種類の見解がある。
①ニーチェ・フロイト的観点。
②ラカン派的観点(これはカントの崇高概念も含めた美である)
だがこれは実は同じことを言っているのである(ここでは説明は割愛、「女陰の奈落」を見よ)。結局、リルケの「ドゥイノの悲歌」冒頭の「美はおそるべきものの始まり」に収斂する。
さて何の話だったかーー。
ああ、蚊居肢子はあの至福の状態から外界に出てしまったのである。それはあなたがた皆と同様に。
卵かそれよりもすこし大きい形の彫刻
美の起源はそこにしかない
ーーなんというギリシア芸術の不幸な進展! さらにローマ以降、あるいはルネサンス彫刻の誇大妄想的作品群など鼻を抓んで眺めるしかないのである(シツレイ! これは架空の登場人物「蚊居肢子」の偏見的話だということを再度念押しして置かなくてはならない。フロイトが言ったように愛とは排他的なのである)。
「古代の彫刻…これらには、どこかに共通したところがあります。卵型、壺の丸み、これが共通点です。面のどの起伏も、どの凹みも、すべてあの偉大な法則に服従しているでしょう。ところが、そうだからこそ、何か表情が出ている。表情、そういっていいでしょうね。ただし、何も表現していない表情。そういえますね」
「そういっていい」と私は答えた「いや、そういわねばならない。というのも、言語で説明できそうな感情を彫刻が表現しているとき、われわれは彫刻の外にいるわけだから。それでは完全にレトリックの分野に出て、調子のいいことをしゃべっているだけのことになる。だから私としてはこういいたいと思うのだが、ほんとうの彫刻というものは、ある存在の形体以外のいかなるものも絶対に表現していない。存在の形体、つまり存在のもっとも深い内部という意味だよ。そういう深みから、存在の形はうみ出されて来るし、また奇型の形成を拒否しつつこの世に押し出されもしたのだから」 (アラン『彫刻家との対話』杉本秀太郎訳)
ーージャコメッティやアランのいっている卵は、より無意識的レベルでは別の意味がある筈である。
なぜアンドレ・ブルトンは、ジャコメッティ30歳のときの作品「宙吊りになった玉 Boule suspendue」を、ジャコメッティがシュルレアリスム運動から離反したあとも生涯愛し続けたのか?
真の芸術家たちは、真の美をよく知っているのである。
なお美については一見相反する二種類の見解がある。
①ニーチェ・フロイト的観点。
すべての美は生殖を刺激する、――これこそが、最も官能的なものから最も精神的なものにいたるまで、美の作用の特質propriumである。(ニーチェ『偶像の黄昏』)
「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
②ラカン派的観点(これはカントの崇高概念も含めた美である)
美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S7、18 Mai 1960 )
美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、L'inconscient et le corps parlant、2014)
さて何の話だったかーー。
ああ、蚊居肢子はあの至福の状態から外界に出てしまったのである。それはあなたがた皆と同様に。
なんという不幸の60年だったろうか!
ああ、あの廃墟になった享楽!
ああ、あのとんでもないおとし物!
何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…
フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
とはいえ蚊居肢子の場合、自我のレベルではいまだあの状態に戻りたいという願いはないのである。その願いは、通常はエスのレベルでしかない。ただしときにエスの願いが奔出する。
自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行う、という相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)
いや、耳をすませば、エスの声はいつもきこえてくる。
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen:(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)
(子宮から子宮へ) |
そう、あの母なる大地への帰還を促す声が。
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
大切なのは、人はみなおとし物をしてしまったことを熟知することである。愛の起源はここにしかない。
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった
ーーかなしみ 谷川俊太郎
このおとし物がラカンの究極の対象aである。それについては「穴と穴埋め」で詳述した。
若き谷川は空の青さと波の音を強調している。波の音とは羊水の音にきまっているのである。そもそも詩の起源は、あの羊水のなかできいた母の言葉以外にはない。
こちたくこごしい欧米翻訳語を使ってばかりいるインテリ詩人たちにわざわいあれ!
空の青さをみつめていると
私に帰るところがあるような気がする
ーー六十二のソネット「41」
この若き頃の谷川の直観は、齢を重ねるにしたがって、実にフロイト的な認識に至るようになる。
なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ
おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな
すっぱだかの巨人だよ
でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな
空だって色っぽいよお
晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ
空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ
どうにかしてくれよ
そこに咲いてるその花とだってやりてえよ
形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ
花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ
あれだけ入れるんじゃねえよお
ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお
どこ行くと思う?
わかるはずねえだろそんなこと
蜂がうらやましいよお
ああたまんねえ
風が吹いてくるよお
風とはもうやってるも同然だよ
頼みもしないのにさわってくるんだ
そよそよそよそようまいんだよさわりかたが
女なんかめじゃねえよお
ああ毛が立っちゃう
どうしてくれるんだよお
おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ
ーーなんでもおまんこ
肝腎なのは、人はこのような根源的思考を欠かさないことである。
少し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
こちたくこごしい欧米翻訳語を使ってばかりいるインテリ詩人たちにわざわいあれ!
空の青さをみつめていると
私に帰るところがあるような気がする
ーー六十二のソネット「41」
この若き頃の谷川の直観は、齢を重ねるにしたがって、実にフロイト的な認識に至るようになる。
なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ
おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな
すっぱだかの巨人だよ
でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな
空だって色っぽいよお
晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ
空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ
どうにかしてくれよ
そこに咲いてるその花とだってやりてえよ
形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ
花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ
あれだけ入れるんじゃねえよお
ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお
どこ行くと思う?
わかるはずねえだろそんなこと
蜂がうらやましいよお
ああたまんねえ
風が吹いてくるよお
風とはもうやってるも同然だよ
頼みもしないのにさわってくるんだ
そよそよそよそようまいんだよさわりかたが
女なんかめじゃねえよお
ああ毛が立っちゃう
どうしてくれるんだよお
おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ
ーーなんでもおまんこ
肝腎なのは、人はこのような根源的思考を欠かさないことである。
いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ。(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)