コイズミとチバのファンらしき人物が以前書いた記事について文句を言ってきてるが、書いた通りだよ。あんまりエラそうなことは言いたくないが、かりに言わせてもらえば、連中はたんなるコモノだよ。くり返せば、戦争機械的ゲリラ戦法では全くダメだ、あれでは「資本の言説の掌の上で踊る猿」に過ぎない。で、これでなんで悪いんだい?
以下、蚊居肢散人の基本認識の基盤となる文献をもう一度いくらかまとめて列挙しとくよ。
そもそもコミュニズムってのは巷間では禁句みたいになってるけどさ、論理的にはこの選択肢しかないんだよ。第三の道ってのは寝言派の繰り言にすぎない。第三の道というものがありうるなら別の仕方のコミュニズムだ。
【1990年以降の世界資本主義の復活】
◼️世界資本主義に対抗する「ファシズム」「コミュニズム」「ケインズ主義」
◼️冷戦終了によるケインズ主義(福祉国家)の没落と世界資本主義の復活
以下、蚊居肢散人の基本認識の基盤となる文献をもう一度いくらかまとめて列挙しとくよ。
そもそもコミュニズムってのは巷間では禁句みたいになってるけどさ、論理的にはこの選択肢しかないんだよ。第三の道ってのは寝言派の繰り言にすぎない。第三の道というものがありうるなら別の仕方のコミュニズムだ。
【1990年以降の世界資本主義の復活】
◼️世界資本主義に対抗する「ファシズム」「コミュニズム」「ケインズ主義」
もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)
われわれは忘れるべきではない、20世紀の最初の半分は「代替する近代」概念に完全には合致する二つの大きなプロジェクトにより刻印されれていたことを。すなわち「ファシズム」と「コミュニズム」である。ファシズムの基本的な考え方は、標準的なアングロサクソンの自由主義-資本家への代替を提供する近代の考え方ではなかったであろうか。そしてそれは、「偶発的な」ユダヤ-個人主義-利益追求の歪みを取り除くことによって資本家の近代の核心を救うものだったのでは? そして1920 年代後半から30年代にかけての、急速なソ連邦の工業化もまた西洋の資本家ヴァージョンとは異なった近代化の試みではなかっただろうか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)
◼️冷戦終了によるケインズ主義(福祉国家)の没落と世界資本主義の復活
ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。
今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。(中井久夫「私の「今」」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
一つのことが明らかになっている。それは、福祉国家を数十年にわたって享受した後の現在、…我々はある種の経済的非常事態が半永久的なものとなり、我々の生活様式にとって常態になった時代に突入した、という事実である。こうした事態は、給付の削減、医療や教育といったサービスの逓減、そしてこれまで以上に不安定な雇用といった、より残酷な緊縮策の脅威とともに、到来している。
… 現下の危機は早晩解消され、ヨーロッパ資本主義がより多くの人びとに比較的高い生活水準を保証し続けるだろうといった希望を持ち続けることは馬鹿げている。いまだ現在のシステムが維持可能だと考えている者たちはユートピアン(夢見る人)にすぎない。(ジジェク、A PERMANENT ECONOMIC EMERGENCY、2010年)
⋯⋯⋯⋯
【可能なるコミュニズム】
■アソシエーションのアソシエーション
ーー柄谷はこの文を「アソシエーションのアソシエーション」と言い換えている(後引用)。実際、前段には《自由でアソシエートした労働への変容 freien und assoziierten Arbeit verwandelt》とある。
■コミュニスト仮説 hypothèse communiste
2018年1月の半年前のネグリのインタヴュー記事はネット上では見出せなかったが、2018年́8月のインタヴュー記事がある。
上のジジェク文は、柄谷行人の次の文のヴァリエーションとしても読むことができる。
もし協同組合的生産 genossenschaftliche Produktion が欺瞞やわなにとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義制度 kapitalistische System にとってかわるべきものとすれば、もし連合した協同組合組織諸団体 Gesamtheit der Genossenschaften が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断のアナーキー beständigen Anarchieと周期的変動 periodisch wiederkehrenden Konvulsionenを終えさせるとすれば、諸君、それはコミュニズム、「可能なるmögliche」コミュニズム Kommunismus 以外の何であろう。(マルクス『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』1891年)
ーー柄谷はこの文を「アソシエーションのアソシエーション」と言い換えている(後引用)。実際、前段には《自由でアソシエートした労働への変容 freien und assoziierten Arbeit verwandelt》とある。
■コミュニスト仮説 hypothèse communiste
アラン・バディウ)私はコミュニスト仮説 hypothèse communiste への強い意志を持ち続けている。
ローラン・ジョフラン) そんなものはもはや誰も欲していない。(Alain Badiou debates Laurent Joffrin, a reformist (and editor of Libérationnewspaper), who defends existing social democracy. ,2017)
ジョフラン)あなたが考えているコミュニスト社会の原理とは何なのか?
バディウ)これまでに分かっている仕事は、コミュニスト社会の四つの根源的原理だ。
①生産手段における私有財産の廃止。
②労働における分割の終焉。分割すなわち、命令と遂行とのあいだの分割。知的労働と肉体労働とのあいだの分割。
③国民アイデンティティへの強迫観念の終焉。
④これらすべてを集団的討議の賛同のもと国家弱体化によって成就すること。
■ジジェク、2016
アラン・バディウは、我々の「民主主義的」神経過敏に対して「新しいタイプのコミュニストの主人(リーダー)」の必要不可欠な役割を強調することを怖れない。「私は確信している。われわれは再建しなくてはならない、どの段階においてもコミュニスト過程におけるリーダーの主要な役割を」(バディウとの個人的対話、2013年4月)
真の主人は統制と禁止のエージェントではない。主人のメッセージは「君たちはしてはいけない!」でも「君たちはしなくてはならない!」でもない。そうではなく「君たちはできる!」と解き放つことだ。ーー何を? 不可能を為すこと。既存配置の座標軸においては不可能にみえることを解放するのだ。ーーそしてこれはこの現在、まさにぴったりのことを意味する。あなたは、我々の生の究極的枠組みである「資本主義と自由民主主義」の彼方を考えることができる。
主人とは「消えゆく媒介者 vanishing mediator」(Jameson 1973)である。あなたをあなた自身に戻す媒介者である。真のリーダーに聞き入るとき、我々は何を欲しているのかを(いやむしろ、我々が「それを知らないままで」常に既に欲していたことを)見い出す。
人間は主人が必要なのである。というのは、我々は自らの自由に直接的には接近できないから。この接近を獲得するために、我々は外部から押されなければならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できないヘドニズム inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。
ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、可能性という既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016)
■ジジェク、2010
行為は、可能なことの領域への介入以上のものである。ひとつの行為は可能なことの座標軸そのものを変化させ、その結果、それ自身の可能性の条件を遡及的に創出する。だからこそ、コミュニズムはリアルに関わるのである。ひとりのコミュニストとして行為することは現代の世界資本主義の根底を支える基本的な敵対関係 antagonismのリアルへの介入を意味している。(ジジェク「永遠の経済的非常事態」2010)
■ジジェク、2018
私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。
半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ we should stop with this multitudes、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" — Part II、19.01.2018)
2018年1月の半年前のネグリのインタヴュー記事はネット上では見出せなかったが、2018年́8月のインタヴュー記事がある。
マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと溶解する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。…multitudo 概念を断固として使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、multitudoとcomunis 概念を詳述するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri, Interview – August 18, 2018)
■ジジェク、2007・2012
ドゥルーズとガタリによる「機械」概念は、「転覆的 subversive」なものであるどころか、現在の資本主義の(軍事的・経済的・イデオロギー的)動作モードに合致する。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク 『毛沢東、実践と矛盾』2007年)
カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)
・大文字の他者の不在が示すのは、どんな倫理的/道徳的体系も、想像しうる最も根源的な意味で、「政治的」な深淵に立脚していることである。政治とは、まさにどんな外的保証もなしに倫理的決断をし協議することである。
・真の「非全体 pas-tout」(女性の論理≒単独性・差異の論理)は、有限・分散・偶然・雑種・マルチチュード等における「否定弁証法」プロジェクトに付きものの体系性の放棄を探し求めることではない。そうではなく、外的限界の不在のなかで、外的基準にかんする諸要素の構築/有効化を可能にしてくれるだろうことである。(ジジェク、 LESS THAN NOTHING、2012 )
上のジジェク文は、柄谷行人の次の文のヴァリエーションとしても読むことができる。
マルクス主義は、合理論的、目的論的な思考(大きな物語)として批判されてきた。実際、スターリニズムはそのような思考の帰結であった。歴史の法則を把握した理性によって人々を指導する知識人の党。それに対して、理性の権力を批判し、知識人の優位を否定し、歴史の目的論を否定することがなされてきた。それは、中心的な理性の管理に対して多数の言語ゲームの間の「調停」や「公共的合意」を立て、また、合理論(形而上学)的な歴史に対して経験の多様性と複雑な因果性を立て、他方で、目的のためにいつも犠牲にされてきた「現在」をその質的多様性(持続)において肯定することである。
しかし、私が気づいたのは、ディコンストラクションとか。知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001)
ーーつまりドゥルーズの機械概念は、《資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁する》ものでしかない、と。
ようするにこの観点からは、いまどき機械(代表的には「戦争機械」)やらマルチチュードやらと言っているヤツは一周遅れだということ。大半の日本的インテリが「小文字の倫理委員会」という二周遅れの小者のドツボだから、あの小者はなんとか言論活動ができているというだけ。
ま、10年ぐらい考え続けることができたら(たぶんムリだろうけど)、戦争機械派は父の機能へと移行するんじゃないかな。
◼️資本家機械
資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』2007年)
欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になる瞬間」である。(マルクス)(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006年)
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。…
ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物象化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)
⋯⋯⋯⋯
【現状分析】
◼️市場原理主義
今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2006年)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009年)
M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation 》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016)
◼️小文字の小倫理委員会
資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(浅田彰『可能なるコミュニズム』シンポジウム 2000.11.17)
「大他者の不在」という新しい状態の、最も目を引く面は…自分の行き詰まりを打破してくれるような公式を提供してくれるものと思われる、数々の「小さな大他者たち little big Others」としての「倫理委員会」である。…この大他者の後退の第一の逆説は、いわゆる「苦情の文化」に見ることができる。(ジジェク「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」2001)
【柄谷行人による対応案】
柄谷の観点も、基本部分ではバディウやジジェクと同じだ。
◼️アソシエーションのアソシエーション
◼️統整的理念としてに世界共和国・コミュニズム
◼️父の機能としての帝国の原理
柄谷行人は、「帝国」の復活は御免蒙るが、「帝国の原理」(父の機能)が必要だといっている。これはラカンが次のように言っているのと同じ意味だ。
以上。
◼️アソシエーションのアソシエーション
一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
◼️統整的理念としてに世界共和国・コミュニズム
僕はよくいうんですが、カントが理念を、二つに分けたことが大事だと思います。彼は、構成的理念と統整的理念を、あるいは理性の構成的使用と理性の統整的使用を区別した。構成的理念とは、それによって現実に創りあげるような理念だと考えて下さい。たとえば、未来社会を設計してそれを実現する。通常、理念と呼ばれているのは、構成的理念ですね。それに対して、統整的理念というのは、けっして実現できないけれども、絶えずそれを目標として、徐々にそれに近づこうとするようなものです。カントが、「目的の国」とか「世界共和国」と呼んだものは、そのような統整的理念です。
僕はマルクスにおけるコミュニズムを、そのような統整的理念だと考えています。しかし、ロシア革命以後とくにそうですが、コミュニズムを、人間が理性的に設計し構築する社会だと考えるようになりました。それは、「構成的理念」としてのコミュニズムです。それは「理性の構成的使用」です。つまり、「理性の暴力」になる。だから、ポストモダンの哲学者は、理性の批判、理念の批判を叫んだわけです。
しかし、それは「統整的理念」とは別です。マルクスが構成的理念の類を嫌ったことは明らかです。未来について語る者は反動的だ、といっているほどですから。ただ、彼が統整的理念としての共産主義をキープしたことはまちがいないのです。それはどういうものか。たとえば、「階級が無い社会」といっても、別にまちがいではないと思います。しかし、もっと厳密にいうと、第一に、労働力商品(賃労働)がない社会、第二に、国家がない社会です。(柄谷行人「柄谷行人と生活クラブとの対話ーー世界危機の中のアソシエーション・協同組合」2009年)
◼️父の機能としての帝国の原理
帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)
帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)
柄谷行人は、「帝国」の復活は御免蒙るが、「帝国の原理」(父の機能)が必要だといっている。これはラカンが次のように言っているのと同じ意味だ。
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)
以上。