『マダム・エドワルダ』は感嘆すべきテクストですが、誰もこれがヒステリーに関する素晴らしい研究書であるとはあえて言っていません 。『マダム・エドワルダ』をこの観点から見直したならば、バタイユは精神分析の知識がなかったのではないことが分かります。マダム・エドワルダの痙攣は、そのもっとも驚くべき例証の1つとして記録されるべきです。これはつまり、パリでシャルコが行った説明の場に居合わせた人々に関する事実について語ってもいるのです。というのは、精神分析はパリで、サルペトリー病院でシャルコの学生だったフロイトによって発見されたのですから。
ヒステリー患者たちはこの風変りな授業にとって貴重な行為をしたのであり、シャルコがそこにいた学生フロイトの耳元にこう囁いたのです。 「ほらね、いずれにせよつねに性的問題なのです」。 「そうですか」と言ったもののフロイトは、では彼はなぜそれを公然と言わないのだろう?と思い、こうして自分の使命を見つけることになったのです。そしてバタイユがそれを立証してみせたというわけです。これもまたパリで起こったことです。バタイユの作品には他にもプレイヤッド版に入った『わが母』や『空の青』などがありますが、いずれも驚くべきものです。 『空の青』は途方もない作品で、1935 年にバルセロナで書かれたものの、1957 年まで出版されませんでした。バタイユは『空の青』を書き、その最後に照明に浮かび上がるナチスの少年鼓笛隊を見たことを書きつけます 。彼はすべてを見たのです。ほとんど誰も、何も見ていなかった時代に。(フィリップ・ソレルスへのインタビュー : パリ・ガリマール本社、2017年8月28日 、阿部静子)
マダム・エドワルタの声は、きゃしゃな肉体同様、淫らだった。「あたしのぼろぎれが見たい?」両手でテーブルにすがりついたまま、おれは彼女ほうに向き直った。腰かけたまま、彼女は方脚を高々と持ち上げていた。それをいっそう拡げるために、両手で皮膚を思いきり引っぱり。こんなふうにエドワルダの《ぼろきれ》はおれを見つめていた。生命であふれた、桃色の、毛むくじゃらの、いやらしい蛸。おれは神妙につぶやいた。「いったいなんのつもりかね。」「ほらね。あたしは《神様》よ……」「おれは気でも狂ったのか……」「いいえ、正気よ。見なくちゃ駄目。見て!」
La voix de Madame Edwarda, comme son corps gracile, était obscène :
« Tu veux voir mes guenilles ? » disait-elle.
Les deux mains agrippées à la table, je me tournai vers elle. Assise, elle maintenait haute une jambe écartée : pour mieux ouvrir la fente, elle achevait de tirer la peau des deux mains. Ainsi les « guenilles » d’Edwarda me regardaient, velues et roses, pleines de vie comme une pieuvre répugnante. Je balbutiai doucement :
« Pourquoi fais-tu cela ?
– Tu vois, dit-elle, je suis DIEU...
– Je suis fou...
– Mais non, tu dois regarder : regarde !
「ごらん・・・・・・あたし素っ裸よ・・・・・・さあしましょう」運転手はじっと獣を見つめた。彼女は後ずさり、あからさまに見せつける目的で、片脚を高く持ち上げていた。なにも答えず、落ち着きはらって、男は座席をおりた。頑丈な荒くれ男だった。エドワルダは抱きつき、唇に接吻し、片手でズボンの中をまさぐった。引き出したのは、長い嵩ばったものだった。男のズボンを脚もとへ引きずり下ろし、「車内へいらっしゃい」
男はおれの隣りへ来て腰を下ろした。あとにつづいて、彼女はその上に馬乗りになった。露骨に、片手で男を自分のなかへ導いた。おれは、無気力に、眺めていた。彼女は落ち着いた老練な動作を示し、傍目にも、鋭い感覚を味わっていた。それに応えて、一方は荒々しく全身で立ち向かっていた。二個の肉体の、裸になった親近性から出発して、それは今や、勇気もくじける過剰点へさそかかっていた。大わらわの運転手は鼻息荒くのぞけっていた。おれは車内燈のスイッチを入れた。馬乗りのエドワルダは、髪をふり乱し、上体を伸ばして、頭をうしろにのぞけらせていた。頸筋を支えてやると、白眼が見えた。受けとめた手をもたれに、彼女はふんばり、緊張に呻きがいやました。眼つきはもとに復し、一瞬、興奮はおさまったかと思われた。おれには見てとれた。その目つきから、いましも、彼女は《不可能なもの》から引っ返しつつあるのが読みとれた。(ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ』生田耕作訳)
マラルメの愛人メリ・ローラン(マネのかつての愛人) |
メリ・ローランへの47歳誕生祝の四行詩
Méry, l'an pareil en sa course
Allume ici le même été
Mais toi, tu rajeunis la source
Où va boire ton pied fêté.
メリよ、年はひとしく運行を続けて
いまここで、同じ夏を燃え立たせる
しかし、君は泉を若返らせて
祝福される君の足がそこへ水を飲みに行く
後期理論の段階において、ラカンは強調することをやめない。身体の現実界、例えば、欲動の身体的源泉は、われわれ象徴界の主体にとって根源的な異者 étranger であることを。
われわれはその身体に対して親密であるよりはむしろ外密 extimité の関係をもっている。《親密な外部、extériorité intime,》(ラカン、S7)
…事実、無意識と身体の両方とも、われわれの親密な部分でありながら、それにもかかわらず全くの異者であり知られていない。(⋯⋯)
偶然にも、ヒステリーの古代エジプト理論は、精神分析の洞察と再接合する或る直観的真理を含んでいる。ヒステリーについての最初の理論は、Kahun で発見された (Papyrus Ebers, 1937) 4000年ほど前のパピルスに記されている。そこには、ヒステリーは子宮の移動によって引き起こされるとの説明がある。子宮は、身体内部にある独立した・自働性をもった器官だと考えられていた。
ヒステリーの治療はこの気まぐれな器官をその正しい場所に固定することが目指されていたので、当時の医師-神官が処方する標準的療法は、論理的に「結婚」に帰着した。
この理論は、プラトン、ヒポクラテス、ガレノス、パラケルルス、等々によって採用され、何世紀ものあいだ権威のあるものだった。なんという奇矯な考え方!ーーだが、たいていの奇妙な理論と同様に、それはある真理の芯を含んでいる。
まず、ヒステリーはおおいに性的問題だと考えらてれる。第二にこの理論は、子宮は身体の他の部分に比べ気まぐれで異者のようなものという着想を伴っており、事実上、人間内部の分裂という考え方を示している。つまり我々内部の親密な異者・いまだ知られていない部分としてのフロイトの無意識の発見の先鞭をつけている。
神秘的・想像的な仕方で、この古代エジプト理論は語っているのだ、「自我は自分の家の主人ではない」(フロイト)、「人は自分自身の身体のなかで何が起こっているか知らない」(ラカン)、と。(Frédéric Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS, 2004)
なぜなだめてやらないんだ、はやいとこ
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
われわれにとって異者としての身体 un corps qui nous est étranger (ラカン、S23、11 Mai 1976)
ラカンの外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物(異者としての身体 corps étranger) のようなものである。…外密はフロイトの不気味なもの Unheimlich でもある。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
欲動蠢動は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung(Triebregung) est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、S10、14 Novembre 1962)