宇野邦一の「フレームという恐ろしいもの」……ほんの思いつき程度の貧しい発想をいささか大袈裟に論じたてただけのもにすぎず、……宇野氏の粗雑な指摘は、誰もがそこで読むのをやめてもよいと判断するに充分なものである。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』2008年)
この退屈な年中行事に三度もつきあわされてしまったという律儀なブログの書き手(内田樹)には、あまりにも意識の低いマスメディアから適当にあしらわれているという屈辱感がまるで感じられない。多少ともものを書いたことのある人間なら誰もが体験的に知っているだろうが、この種のコメントを求められて断れば、相手は涼しい顔で別の人間にあらためて依頼するだけのことだ。このブログの書き手は、自分がいくらでもすげ替えのきく便利な人材の一人であることを隠そうとする気さえない。(蓮實重彦『随想』2010年)
健康になるためにはもっと磨かなくちゃいけないんだけどな。
抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。Der Einwand, der Seitensprung, das froehliche Misstrauen, die Spottlust sind Anzeichen der Gesundheit: alles Unbedingte gehoert in die Pathologie.(ニーチェ『善悪の彼岸』第154番)
でもただしい悪口をいうためには多大な労力がいるもんだよ。
何ごとによらず、悪口をいうことのほうが褒めることよりもやさしいようである。褒め言葉は、当の対象がよほど十分に褒められるのに値していなければ、とかくうわつ調子なものになりがちである。これに反して、悪口のほうは、対象の弱点を取り上げるのがその仕事であるから、本来の性質上、甘くなることがそれほどできぬではないかと思う。それだから、たとえある悪口が実際にはちょろいものであっても、それが悪口であるというだけの原因によつて、けつしてちょろいものではないという外観をーーー少なくとも褒め言葉よりは、そなえやすいようである。(中野重治 「映画の悪口ーーー罪はどこにある」)