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2019年5月27日月曜日

自らを笑い飛ばすこと

われわれは時折、われわれから離れて休息しなければならないーー自分のことを眺めたり見下ろしたり、芸術的な遠方künstlerischen Ferneから、自分を笑い飛ばしたり嘆き悲しんだりする über uns lachen oder über uns weinen ことによってーー。われわれは、われわれの認識の情熱の内に潜む英雄と同様に、道化をも発見しなければならない。 われわれは、われわれの知恵を楽しみつづけることができるためには、 われわれの愚かしさをも時として楽しまなければならない!(ニーチェ『悦ばしき知』第107番、1882年)
最も高い山の頂に立つ者は、あらゆる悲劇と悲劇的真剣さを笑い飛ばす Wer auf den höchsten Bergen steigt, der lacht über alle Trauer-Spiele und Trauer-Ernste.……

いまわたしは軽い。いまわたしは飛ぶ。いまわたしはわたし自身をわたしの下に見る。いまわたしを通じてひとりの神が舞い踊っている。Jetzt bin ich leicht, jetzt fliege ich, jetzt sehe ich mich unter mir, jetzt tanzt ein Gott durch mich. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「読むことと書くことについて」1883年)

笑ことは大切である、《幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ。We don’t laugh because we’re happy – we’re happy because we laugh.》(William James)

ユーモアとは、《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す》こと(ボードレール)。

そして忘れることも。

忘却 Vergeßlichkeit は皮相な者 Oberflächlichen の信じているように、単なる惰性 vis inertiaeではない。むしろ一つの能動的なaktives、厳密な意味において積極的な制止能力 positives Hemmungsvermögenである。…

意識の扉や窓を一時的に閉鎖すること、冥界 Unterwelt における隷属的な諸器官が相互に協働したり対抗したりするための喧噪や闘争に煩わされないこと、新しいものに、わけてもより高級な機能や器官に、統制や予測や予定 Regieren, Voraussehn, Vorausbestimmen に(われわれの有機体の組織は寡頭政体だから)再び地位が与えられるようになるための僅かばかりの静穏、僅かばかりの意識の白紙状態 tabula rasa des Bewußtseinsーーこれが、…心的秩序・安静・礼儀のいわば門番であり執事であるあの能動的忘却 aktiven Vergeßlichkeit の効用である。

このことから直ちに看取されることは、忘却がなければ、何の幸福も、何の快活も、何の希望も、何の矜持も、何の現在もありえないだろうということだ。この制止装置Hemmungsapparatが破損したり停止したりした人間は、消化不良患者にも比せられるべきものだ(そして単に比せられるべきものより以上のものだ)。--彼は何事にも、「結着をつける」ことができない⋯⋯(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第1章、1887年)
…… しかし、 もっとも小さな幸福でも、 もっとも大きな幸福でも、つねにただ 1 点によって、幸福は幸福となる。それは、忘れることができるということ、 あるいは、 学問的に表現するなら、 幸福が続いているあいだは非歴史的 unhistorisch に感覚する能力である。すべての過去を忘れて瞬間の敷居に腰を下ろすことができない者、勝利の女神のように、眩暈も恐怖も感じることなく一点に立っていることができない者には、幸福とは何かということが決して判らないであろうし、さらにまずいことには、他人を幸福にすることは何もできないであろう。 (ニーチェ『反時代的考察』第15章、1878年)


もちろん、これがすべてではない。例えば、ジョー・ブスケのような「出来事」をもっている人物は能動的忘却などできよう筈はない。

われわれが傷つけずに愛することができないのは、われわれが傷ついているからである。C'est parce que nous sommes blessés que nous ne pouvons aimer qu'en blessant
傷が私の肉にうえつけたのは、私が傷を負った五月の夜に咲くバラである。私は、そのときと変わらない心で感覚し、生きている。…私はふたたび自らに言う。彼は20歳だった。彼は攻撃された身体の士官だった。傷は詩になった。私は、私の生の骨壺を作ったのだろうか、私の灰を掻き集めるために?

Ma blessure a enfoncé dans ma chair les roses du soir de mai où j'ai été blessé. Je sens, je vis avec le coeur que j'avais alors. [...] Je me redis: il avait vingt ans: il était officier dans un corps d'attaque. Une blessure l'avait tourné ensuite vers la poésie. Aurai-je fait de ma vie une urne pour recueillir mes cendres ? (ジョー・ブスケ Joë Bousquet, Mystique)


とはいえ、そもそもニーチェ自身、忘却できない出来事があったこそ、「自らを笑い飛ばすこと」、あるいは「能動的忘却」を強調したのである。

「記憶に残るものは灼きつけられたものである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)
私はしばしばこう自問してきた、私は私の生涯の最も困難な年月になんらかの他の年月にもましていっそう深い義務を負っているのではなかろうかと。私の最も内なる本性が私に教えているとおり、すべての必然的なものは、高所から眺めれば、また大きな経済という意味においては、有益なもの自体でもある、――人はそれに耐えるべきであるのみならず、人はそれを愛すべきである・・・運命愛 Amor fati これが私の最も内なる本性である。(ニーチェ『ワーグナーの場合』序章、1888年)

ーー能動的忘却と運命愛は相反する概念である。

たぶん私が一番よく知っている、なぜ人間だけが笑うのかを。人間のみがひどく苦しんだので、笑いを発明しなければならなかったのである。Vielleicht weiß ich am besten, warum der Mensch allein lacht: er allein leidet so tief, daß er das Lachen erfinden mußte.(ニーチェ遺稿ーー『力への意志』Der Wille zur Macht I - Kapitel 10-91)
人間はいかなる動物よりも、病的であり、不安定であり、変わりやすく、不確定である。「人間は病気の動物である er ist das kranke Tier」ことは疑いの余地はない。(ニーチェ『道徳の系譜』第3論文第13節、1887年)

以下はごく一般論として読んでもよいだろう。

書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるものではないか。(ニーチェ『善悪の彼岸』289番、1886年)
ひとがものを書く場合、分かってもらいたいというだけでなく、また同様に確かに、分かってもらいたくないのである。およそ誰かが或る書物を難解だと言っても、それは全然非難にならぬ。おそらくそれが著者の意図だったのだーー著者は「猫にも杓子にも」分かってもらいたくなかったのだ。

すべて高貴な精神が自己を伝えようという時には、その聞き手をも選ぶものだ。それを選ぶと同時に、「縁なき衆生」には障壁をめぐらすのである。文体のすべての精緻な法則はそこ起源をもつ。それは同時に遠ざけ距離をつくるのである。(『悦ばしき知』381番、1882年)

………


アリアドネよ、私はお前を愛する。 ディオニュソス(コジマ・ワーグナー宛、1889年1月3日)

Ariadne, ich liebe Dich!  Dionysos (Turin, vermutlich 3. Januar 1889: Brief an Cosima Wagner)


コジマ・ワーグナーはニーチェからの手紙をすべて破棄してしまったそうだが、彼女の日記にはわずかではありながらニーチェについての記述が残っている。

たとえば1877年10月23日の日記には、《R(リヒャルト・ワーグナー)がニーチェの罹りつけの医師 Dr. Otto Eiserへの長い手紙を送った》という記述があり、続けて、《友の医学的忠告よりも医師の忠告を聞き入れるだろう》と書かれている。

どんな忠告だったのかはコジマの日記には書かれてはいないが、ワーグナーの次のような手紙は残っている。もっとも日付はApril 4, 1878となっており、上のコジマの日記が書かれてから半年ほど経った後のものである(ネット上には英訳しか見出せない)。

私はときどき考えているのだが、ニーチェの長患い(頭痛やら眼のトラブル)は、若く才能のあるインテリたちの間で観察してきた病気と同じケースじゃないか、と。私はこれらの若者たちが朽ち果てていくのを見てきた。そしてただひたすら痛々しく悟ったのは、この症状はマスターベーションの結果だということだ。

"I have been thinking for some time, in connection with Nietzsche's malady, of similar cases I have observed among talented young intellectuals. I watched these young men go to rack and ruin, and realized only too painfully that such symptoms were the result of masturbation," (Wagner on April 4, 1878)

David Allisonは、1977年に出版された“The New Nietzsche”にて、このワーグナーの手紙を引用しつつ、次のように書いている。

まったく自明の理だが、ニーチェの世界は、1878年の春の出来事によって!完全にばらばらに崩れ堕ちた……。その時、ワーグナーは、ニーチェのオナニズムへの過度の没頭を非難し、かつまたニーチェの医師、Otto Eiser博士によって知らされたわけだ。Otto Eiserは、フランクフルトのワーグナーサークルの会長として、ニーチェのオナニズムに対するワーグナーの告発を、バイエルン祝祭劇場の参加者にまで流通させた。ニーチェは恥辱まみれになった。そして、おそらくは、ニーチェは、教養あり洗練された名士たちの唯一の集団から、余儀なく退却せざるをえなくなった。ニーチェはこの集団との公的な接触、かつまた評価を享受することもできただろうに。(David Allison “ The New Nietzsche”1977)

当時は、17世紀まではたいして問題にもなっていなかった自慰の撲滅運動(主に精液=エネルギー流出説)というイデオロギーが猖獗していた。

自慰は不道徳の領域にではなく、病の領域へと組み入れられる、ということです。自慰は、いわば普遍的な実践とされ、すべての病がそこから発生する危険で非人間的かつ怪物的な「X」とされます。(フーコー『異常者たち』)

1878年の春の「出来事」当時、ニーチェ33歳。1年後にはバーゼル大学教授を「病気で」辞職した。以下の文には、1879年当時の記憶が想起されている。

わたしの父は、三十六歳で死んだ。きゃしゃで、やさしくて、病弱で、いわば人生の舞台をただ通り過ぎるだけの役割を定められている人だった。――生そのものというよりは、むしろ生への温和な思い出だった。父の生が下降したのと同じ年齢で、わたしの生も下降した。つまり三十六歳のとき、わたしは、わたしの活力の最低点に落ちこんだーーまだ生きてはいたもの、三歩先を見ることもできなかった。当時――1879年のことだったーーわたしは、バーゼルの教授職を退いて、夏中まるで影のようにサン・モーリッツで過ごした。が、それにつづく、わたしの生涯でもっとも日光の希薄であった冬には、ナウムブルクで影そのものとして生きた。これがわたしの最低の位置だった。『さすらい人とその影』が、その間に生れた。疑いもなく、わたしは当時、影とは何かをよく知っていたのである……(ニーチェ『この人を見よ』1888年)

そして1880年の『さすらい人とその影』にはこうある。

人生の真昼時に、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、--それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味で病的に近い状態だ。しかし不愉快ではない。(ニーチェ『さすらい人とその影』308番、1880年)


ニーチェが5歳の時(1849年)にニーチェの父は36歳で死んでいる。つまりニーチェの父の生誕年は1813年前後となる。ニーチェは、父と同年生まれのワーグナー(1813-1883)に、早逝した父のかわりの役割を求めたということは全くなかったのか。

私は埋葬式と同じオルガンの音を聴く夢を見た。なぜなのかと考えているとき、突然、父の墓が開き、屍衣を纏った父がそこから這い上がって来た。父は教会へと駆け入り、しばらくすると小さな子供を腕に抱えて戻って来た。墓が開き、父はそこに入る。そして墓の覆いはふたたび閉ざされる…。(ニーチェ「自叙伝」1858年、14歳)

今、記したことはあくまで憶測にすぎない。だがニーチェは小林秀雄のいうように読む方法もあることは間違いない。

反道徳とか、反キリストとか、超人とか、ニヒリスムとか、孤独とかいう言葉は、ニイチェの著作から取り上げられ、誤解され、濫用されているが、これらの言葉は、近代における最も禁欲的な思想家の過剰な精神力から生れた言葉だと思えば、誤解の余地はないだろう。彼は妹への手紙で言っている、「自分は生来おとなしい人間だから、自己を喚び覚ますために激しい言葉が必要なのだ」と。ニイチェがまだ八つの時、学校から帰ろうとすると、ひどい雨になった。生徒たちが蜘蛛の仔を散らすように逃げ還る中で、彼は濡れないように帽子を石盤上に置き、ハンケチですっかり包み、土砂降りの中をゆっくり歩いて還って来た。母親がずぶ濡れの態を咎めると、歩調を正して、静かに還るのが学校の規則だ、と答えた。発狂直前のある日、乱暴な馬車屋が、馬を虐待するのに往来で出会い、彼は泣きながら走って、馬の首を抱いた。ちなみに彼はこういうことを言っている、「私は、いつも賑やかさのみに苦しんだ。七歳の時、すでに私は、人間らしい言葉が、決して私に到達しないことを知った」。およそ人生で宗教と道徳くらい賑やかな音を立てるものはない。ニイチェは、キリストという人が賑やかだ、と考えたことは一度もない。(小林秀雄「ニイチェ雑感」)