2019年5月5日日曜日

境界表象の永遠回帰

語源的に言えば、「表象 vorstellen」の前置詞 vorとは、「前に」という意味をもち、語幹 Stellenとは「(何かを)置く」という意味である。したがって「表象 vorstellen」とは、「何かほかのものの前に何かを置く」ということである。

フロイトには三種類の表象概念がある。「語表象 Wortvorstellungen」、「事物表象  Sachvorstellungen」、「モノ表象 Dingvorstellungen」である。フロイトの時代において表象という語は思想的流行語のひとつだったらしい。

人はエスもしくは現実界を直接的には感知しない。したがって上の三つの表象から逃れた「感覚」というものはない、というのが後期ラカンの考え方である(想像界の復権としてのラカン)。

人は、現実界のイデアを自ら得るために、想像界を使う On recourt donc à l'imaginaire pour se faire une idée du réel 。(ラカン、S24 16 Novembre 1976)

語表象とは言語、事物表象とはイメージであり、それぞれ象徴界的表象、想像界的表象に相当する。では「モノ表象 Dingvorstellungen」とは何か。これはボロメオの環でいえば、現実界と想像界の重なり箇所を占める「境界表象」である。別の言い方をすれば、人が表象不能の現実界の「前に何かを置く vor-stellen」最初の表象である。



ーー現実界はエスとしたほうが通りがよいだろうが、今、モノ表象の話をしているので初期フロイト概念を使用した。

(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)

境界表象も初期フロイト概念であり、フロイトは次のように使っている。

(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化Verstärkungによって起こる。(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)

中期フロイトはこの境界表象を「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」、「欲動代理Triebrepräsentanz」とも呼んだ。

この概念は1960年代から精神分析界では紛糾の種であり、いまでもはっきり語っている人は少ない。ラカンはこの表象代理を次のように注釈した。

・私は…(フロイトの)「 Vorstellungsrepräsentanz」を「表象代理 représentant de la représentation」と翻訳する。

・「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」とは、…「表象の仮置場 tenant-lieu de la représentationである。

・表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。(ラカン、S11、1964)
世界が表象 représentation(vótellung) になる前に、その代理 représentant (Repräsentanz)ーー私が意味するのは表象代理 le représentant de la représentationであるーーが現れる。(ラカン, S13, 27 Avril 1966)


表象代理 Vorstellungsrepräsentanz と欲動代理 Triebrepräsentanz が等価なものであるのは、抑圧論文に次のような形で現れている。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。……

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧 Die Verdrangung』1915年)

※より詳しくは「フロイト・ラカン「固着」語彙群」を参照。

ミレールによれば、表象代理は「穴としての対象a」でもある。

穴としての対象a は、枠・窓と等価でありうる En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre。(Miller J.-A., « L’image reine »2016)



ラカンはこれを対象aとしているが、これはS(Ⱥ)のことである(後述)。

絵自身のなかにある表象代理とは、対象aである。ce représentant de la représentation qu'est le tableau en soi, c'est cet objet(a) (ラカンS13, 18 Mai 1966)


表象代理についてラカンはこうも言っている。

スクリーンはたんに現実界を隠蔽するものではない L'écran n'est pas seulement ce qui cache le réel。スクリーンはたしかに現実界を隠蔽している ce qui cache le réel が、同時に現実界の徴でもある(示している indique)。…我々は隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir écran)を扱っているだけではなく、幻想 fantasme と呼ばれる何ものかを扱っている。そしてフロイトが表象représentationと呼んだものではなく、フロイトの表象代理 représentant de la représentation を扱わねばならないのである。(ラカン、S13、18 Mai 1966 )
隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )はたんに静止画像(スナップショット instantané)ではない。記憶の流れ(歴史 histoire)の中断 interruption である。記憶の流れが凍りつき fige 留まる arrête 瞬間、同時にヴェールの彼岸 au-delà du voile にあるものを追跡する動きを示している。(ラカン、S4 30 Janvier 1957 )

ーーこの二文を読めば、表象代理は現実界との境界表象であるだろうことが 把握できる。

この表象代理(欲動代理)は、ラカンのマテームではS (Ⱥ)でもある。

「現実界は無法」(法なき現実界)の形式は、まさに正しくS(Ⱥ)と翻訳しうる。無法とは、Ⱥである。la formule le réel est sans loi est très bien traduite par grand S de A barré. Le sans loi, c'est le A barré. (J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 13/04/2005)

ーー《S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうる。substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré》.(J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)

※対象aは何種類もの意味内容をもっているので注意しなければならない(参照:穴と穴埋め)。

ようするに穴Ⱥとは、なによりもまず「身体から湧き起こる内的カオス=欲動の現実界」である。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

そしてS (Ⱥ)とは欲動の現実界=カオスという奔馬を飼い馴らす最初の鞍である。

晩年のラカンはこのS (Ⱥ)を骨象a(文字対象a)ともした。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)

 骨象とは身体に突き刺さった骨であり、欲動固着である。

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)

この固着を現実界的シニフィアンと呼ぶ。《シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne )》 (コレット ・ソレール2009、Lacan, l'inconscient réinventé)。シニフィアンとは表象のことである。すなわち現実界的表象。

精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレールColette Soler、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)

欲動代理、欲動固着は、《欲動のクッションの綴じ目》とも表現される。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)

そしてこのS(Ⱥ)とは超自我のマテームでもある。

S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique , séminaire2 - 27/11/96)

前回見たように、

タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (The Freudian superego and The Lacanian one. By Pierre Gilles Guéguen. 2018)

したがってS(Ⱥ)とは死の欲動のマテームでもある。

かつまたS(Ⱥ)とはサントームのマテームである。

我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN 」)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure, 2011)

現在、サントームが原抑圧(リビドー固着、欲動の固着)であることははっきりしている。


(Patrick Valas、2016)



このサントームとは永遠回帰=反復強迫のマテームでもある(参照:サントームの永遠回帰)。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

以上、冒頭に戻っていえば、フロイトの「モノ表象」、「境界表象」は永遠回帰にかかわる概念ということになる。すくなくともわたくしはそう考えている。


⋯⋯⋯⋯

※付記


欲動代理については、RICHARD BOOTHBYによる「とても優れた」とわたくしには思われる注釈がある。

『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生(ナマ raw)の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)

これは一般に注釈される原抑圧(リビドー固着・欲動の固着)と同じメカニズムが記されている。欲動代理の注釈はきわめて稀なのである(ジジェクがこの書を2012年に引用していることにより彼の名を知った)。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍とは、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)

この欲動代理と欲動の固着は、ミレールによる反復強迫(死の欲動)、サントームの定義とも相同的である。

・フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。

・サントーム(原症状)は現実界であり、かつ現実界の反復である Le sinthome, c'est le réel et sa répétition (ミレール MILLER、L'Être et l'Un, 2011)

ミレールが後期ラカンの鍵という次のフロイト文がある。

(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

これは次の文の《 S2なきS1(S1 sans S2)》を固着に置き換えれば、ほぼ同じことを言っている。

反復的享楽 La jouissance répétitive、…ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(jacques-alain miller、L'être et l'un、2011)

「S2なきS1」とは、上に引用したソレールの《シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne 》 における連鎖外(S1-S2の外)と同じ意味である。

したがって、欲動代理と欲動の固着(原抑圧)、そして死の欲動(反復強迫)をほぼ同じものと扱って上の記述をした。

超自我? これも現在のわたくしの頭のなかでは上の語彙群と限りなく近似的なものとなっている。

フロイトは欲動の昇華 sublimation de la pulsion について語った。そしてラカンとともに、欲動の超自我化 surmoïsation de la pulsion を語ることが可能である。超自我は欲動によって囚われた形式であるle surmoi est une forme prise par la pulsion。(エリック・ロラン、ジャック・アラン・ミレール 、E. LAURENT, J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96)

欲動の超自我化とは、欲動のクッションの綴じ目である。《 S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions》(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)

そしてS (Ⱥ)は超自我である。

我々は象徴的同一化におけるI(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、自我理想 idéal du moi は主体と大他者とに関係において本質的に平和をもたらす機能 fonction essentiellement pacifiante がある。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 fonction beaucoup plus inquiétante、全く平和的でない機能pas du tout pacifiqueがある。そしておそらくこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique , séminaire2 - 27/11/96)


この前提で、次の文を「ともに」読んでいる。とくに冒頭の文はピッタンコである。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)