このため標準的には超自我=自我理想と解釈されてきた。
たとえば「ドゥルーズにおける「自我理想と超自我」」にて引用したように、ドゥルーズは何よりもまずダニエル・ラガーシュの観点に依拠して、「超自我=自我理想」という前提でマゾッホ論を書いている。
ダニエル・ラガーシュは、最近、自我/超自我のかかる分裂の可能性を強調したことがある。つまり彼は、ナルシシズム的自我=理想自我 moi narcissique - moi idéalという体系と、超自我=自我理想 surmoi - idéal du moi という体系とを識別し、事と次第によっては対立させてさえいるのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』第11章「サディズムの超自我とマゾヒズムの自我 Surmoi sadique et moi masochiste」1967年)
次の文も直接的な引用ではないが ダニエル・ラガーシュからのドゥルーズによる要約である、《権威の理想としての「自我理想」を設定することの可能な超自我の生産のために父のイメージを利用する。》(同最終章)
あるいは、ドゥルーズは「制度的超自我」という表現を使っている。
制度的超自我 le surmoi institutionnelに、マゾヒストは、自我と口唇的母 la mère orale との契約による連繋を対立させる。…口唇的母は死のイメージとして機能する。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』第11章)
「制度的超自我」は、中井久夫が《社会的規範を代表する「超自我」》としているのとほぼ同じ意味である。
かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003年 『時のしずく』所収)
だが超自我とは制度的なものではまったくない。
ラカンにとってこの超自我は「母の法」である。
後年、この母の法と相同的な表現として「法なき現実界」と言っている。
ドゥルーズ(&ガタリ)には、こういった示唆がないわけではない。
《太古の遺伝の痕跡 traces d'une hérédité archaïque、超自我の内発的源泉 sources endogènes du surmoi》とあるが、この太古とはーー、
エス、すなわち現実界(欲動の現実界)である。 《欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。》(ラカン, Strasbourg 1975)。ここでの穴とは《穴ウマ=トラウマ(troumatisme )》(S21、1974)であり、《私が目指すこの穴、それを原抑圧 Urverdrängung 自体のなかに認知する。(S23, 1975)であり、原抑圧とはリビドー固着である。超自我とは事実上、この固着(母による身体の上への刻印)にかかわる。フロイトは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」とも言った。
身体の置き残しのひとつは、フロイトが《母へのエロス的固着の残滓 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter》と呼んだものでもある(参照)。
最晩年のフロイトが「太古のエス」を語った同時期に、若きラカンはこう言っている。
超自我とはエスに直接的にかかわるものである。
そして自己破壊的に作用するものが超自我である。
したがってラカンは次のように言うのである。
不可能な享楽=死(参照)という自己破壊的な命令をする超自我とは、原マゾヒズム=死の欲動のことである。
原マゾヒズムについてラカンはこう言っている。
もし人が今後もフロイトの「超自我」概念に触れるなら、超自我と自我理想の区別をしなくてはならない。残念なことに、フロイト・ラカン派でさえまともにこの区別ができている人物は寡少なので、他の研究者、たとえばドゥルーズ研究者たちに現在それを求めるのは無理筋かもしれないが。
ーー基本的にはこうなる。語彙群については前投稿とともに、より詳しくは「母の名 Le Nom de Mère」を見よ。超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
ラカンにとってこの超自我は「母の法」である。
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである。(Lacan, S5, 22 Janvier 1958)
後年、この母の法と相同的な表現として「法なき現実界」と言っている。
私は、現実界は法のないものに違いないと信じている je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi。…真の現実界は法の不在(法なき現実界)を意味する Le vrai Réel implique l'absence de loi。現実界は秩序を持たない Le Réel n'a pas d'ordre。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
ドゥルーズ(&ガタリ)には、こういった示唆がないわけではない。
幼児の生の発端 début de la vie de l'enfant から、早くも問題になっていることは、オイディプスの仮面 masque d'Œdipe を貫いて現れるまったく別の企てであり、仮面のあらゆる裂目を通って流れ出るまったく別の流れであり、欲望的生産の冒険というまったく別の冒険である。ところで、ある意味でこのことに精神分析が気づいていなかったとはいえない。根本幻想、太古の遺伝の痕跡 traces d'une hérédité archaïque、超自我の内発的源泉sources endogènes du surmoiなどに関する理論において、フロイトはいつも、実効的因子は現実の両親parents réelsでもなければ、子供が想像する両親 parents tels que l'enfant les imagineでさえもないことを明確にのべている。(ドゥルーズ &ガタリ『アンチオイディプス』文庫上、p179、宇野訳、一部変更)
《太古の遺伝の痕跡 traces d'une hérédité archaïque、超自我の内発的源泉 sources endogènes du surmoi》とあるが、この太古とはーー、
私が「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただエス Es のことを考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
エス、すなわち現実界(欲動の現実界)である。 《欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。》(ラカン, Strasbourg 1975)。ここでの穴とは《穴ウマ=トラウマ(troumatisme )》(S21、1974)であり、《私が目指すこの穴、それを原抑圧 Urverdrängung 自体のなかに認知する。(S23, 1975)であり、原抑圧とはリビドー固着である。超自我とは事実上、この固着(母による身体の上への刻印)にかかわる。フロイトは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」とも言った。
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)
身体の置き残しのひとつは、フロイトが《母へのエロス的固着の残滓 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter》と呼んだものでもある(参照)。
最晩年のフロイトが「太古のエス」を語った同時期に、若きラカンはこう言っている。
太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
超自我とはエスに直接的にかかわるものである。
超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代表としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)
(フロイト、1933) |
そして自己破壊的に作用するものが超自我である。
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
したがってラカンは次のように言うのである。
超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン、S20、21 Novembre 1972)
不可能な享楽=死(参照)という自己破壊的な命令をする超自我とは、原マゾヒズム=死の欲動のことである。
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。
他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…
我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!⋯⋯⋯⋯
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
原マゾヒズムについてラカンはこう言っている。
私はどの哲学者にも喧嘩を売っている。…言わせてもらえば、今日、どの哲学も我々に出会えない。哲学の哀れな流産 misérables avortons de philosophie! 我々は前世紀(19世紀)の初めからあの哲学の襤褸切れの習慣 habits qui se morcellent を引き摺っているのだ。あれら哲学とは、唯一の問いに遭遇しないようにその周りを浮かれ踊る方法 façon de batifoler 以外の何ものでもない。…唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
そして右項とはすべてタナトスのエージェントである。
タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (The Freudian superego and The Lacanian one. By Pierre Gilles Guéguen. 2018)
上にも記したが、超自我 S(Ⱥ)とは事実上、母による身体の上への刻印であり、サントーム・リビドー固着である。
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)
フロイトが言ったように、欲動の放棄は、欲動の満足に姿を変える。したがって同じ仕方でフロイトは欲動の昇華sublimation de la pulsionについて語った。そしてラカンとともに、欲動の超自我化surmoïsation de la pulsion,を語ることが可能である。超自我は欲動によって囚われた形式であるle surmoi est une forme prise par la pulsion。(ミレール 、E. LAURENT, J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96)
なぜこれが死の欲動に関係するのかは、「母の名 Le Nom de Mère」に記した。
ドゥルーズも「固着」「自動反復」、「強制された運動の機械=タナトス」等を記すことによって、真の超自我の把握に近づいていたのだが(参照)。
強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)
トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復」という考え方 idée d'un « automatisme » は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)
ドゥルーズが抜き出したフロイトの「固着=自動反復」の記述箇所前後が、《後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan 》であり(Miller, Le PartenaireSymptôme 1997)、これがサントーム(フロイトの「リビドー固着」)である。
(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する要素 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
(身体の)「自動反復 Automatismus」、固着による《無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es》、これを死の欲動と呼ぶ。
ドゥルーズは不幸にも1972年になって(いくらかのすぐれた示唆はありつつも)理論的退行をしてしまった。実に惜しまれる。
⋯⋯⋯⋯
※付記
たとえば30年まえの初期ジジェクは次のようにアンチオイディプスを批判した。
人は、ラカンの「オイディプス主義」にたいするドゥルーズの反論の弱点を容易に位置づけることができる。ドゥルーズとガタリが見落としているのは、最も強力なアンチ・オイディプスはオイディプス自身 the most powerful anti-Oedipus is Oedipus itself だということである⋯⋯オイディプス的父は「父の名」として、すなわち象徴的法の審級として君臨しているが、この父は、原初の超自我像に依拠することによってのみ、必然的にそれ自身強化され、その権威を振るうことができる。(ジジェク『斜めから見る』1991年)
唯一の真のアンチ・オイディプスは、オイディプス自身である。the only true anti-Oedipus is Oedipus itself. (ジジェク『為すところを知らざればなり』1991年)
この批判は、自我理想と超自我の区別がついていないとトンチンカンのままのはずである。事実、現在に至るまでドゥルーズ派はまともに受け止めていない。
父親は不在で、父の機能 paternal function(平和をもたらす法の機能、「父の名」the function of pacifying law, the Name-of-the-Father)は中止され、その穴は「非合理的な irrational」母なる超自我によって埋められる。母なる超自我 maternal superego は恣意的で、邪悪で、「正常な」性関係(これは父性隠喩 paternal metaphor の記号の下でのみ可能である)を妨害する。(……)父性的自我理想 paternal ego-ideal が不十分なために法が獰猛な母なる超自我 ferocious maternal superego へと「退行」し、性的享楽に影響を及ぼす。これは病的ナルシシズムのリピドー構造の決定的特徴である。「母親にたいする彼らの無意識的印象は重視されすぎ、攻撃欲動につよく影響されているし、母親の配慮の質は子どもの必要とほとんど噛み合っていないために、子どもの幻想において、母親は貪り食う鳥としてあらわれるのである」(Christopher Lasch)(ジジェク『斜めから見る』1991年)
ドゥルーズ批判文脈以外でも、たとえば「家父長制打倒!」というフェミニストたちのスローガン批判として読める次のラカン派の言明も、「自我理想と超自我」の区別がなければイミフのままであるだろうし、事実そうである。
家父長制とファルス中心主義は、原初の全能的母権システム(家母長制)の青白い反影にすぎない。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 、1998)
そして1968年の学園紛争における《父の蒸発 évaporation du père 》(ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)に始まり、1989年の「マルクスの死」以後に強まった「資本の死の欲動」の時代という21世紀の瞭然とした現象も、「自我理想と超自我」の区別が判然としていれば理論的に把握しうる筈だが、それについても日本言論界は不感症のままである。
ドゥルーズとガタリによる「機械」概念は、「転覆的 subversive」なものであるどころか、現在の資本主義の(軍事的・経済的・イデオロギー的)動作モードに合致する。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク 『毛沢東、実践と矛盾』2007年)
欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になる瞬間」である。(マルクス)(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006年ーー「資本の言説の掌の上で踊る猿」)
上部の父が蒸発すれば、下部が裸のまま露呈するのは必然である。
多神教社会であった古代ギリシアは一神教的上覆いがない死の欲動の社会であったゆえ、フーコーのいう自己陶冶等の「生の倫理」を前面に掲げたのである。
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889年)
ニーチェの「力への意志」とは事実上、死の欲動のことである。
力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)
さてここまで記してきたことは、何もイデオロギー的「エディプス的父」の復活を言い募っているわけではない。だが現在、なんらかの形の社会的上覆いが必要なのである。
柄谷行人は現在の新自由主義社会においては、「帝国」は御免蒙るが「帝国の原理」が必要だと言っているが、これは「イデオロギー的父」の復活は避けねばならないが「父の機能」は必ず必要だという意味である(参照)。
冒頭近くで中井久夫は「超自我と自我理想」の区別ができていないとしたが、中井は別の仕方でこの区分と相同的な表現をしている、「母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)」と。
21世紀は資本の母なるオルギアの時代である。なんらかの形でレリギオを取り戻さなければならない。母のオルギアとは二者関係的な社会的むすびつきである。
三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。
これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
しばしば誤解されているがーー特にドゥルーズ &ガタリの『アンチ・オイディプス』以来ーー、ラカン派の父の機能は、三角測量関係のことである。
ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)
政治社会的に「父の機能」がなくなれば、むき出しの市場原理が露顕する。
今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2006年)
M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation 》(マルクス『資本論』第三巻)である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016)