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2019年4月15日月曜日

強制された運動の機械(中井久夫とドゥルーズ)

■中井久夫の解離と心の間歇

中井久夫は、プルーストの「心の間歇」と「解離」は近似したものだと言っている(「心の間歇」とは『失われた時を求めて』という長い小説の題名原案であり、無意志的記憶の回帰、あるいは外傷性記憶の回帰のこと)。

(プルーストの)「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。…

解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)

ここでいう「解離」は、実は原抑圧(リビドー固着)にかかわる。それは次の文における「外に放り投げるVerwerfung」という語が示している。

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

「排除 Verwerfung」という語をフロイトは動詞形で1894年に初めて使った。

自我は堪え難い表象 unerträgliche Vorstellung をその情動 Affekt とともに 排除 verwirftし、その表象が自我には全く接近しなかったかのように振る舞う。(フロイト『防衛-神経精神病 Die Abwehr-Neuropsychosen』1894年)


『夢解釈』にこの語は頻出するが、ここでは「狼男」から引く。

抑圧は排除とは別の何ものかである。Eine Verdrängung ist etwas anderes als eine Verwerfung. DER WOLF MAN (フロイト『ある幼児期神経症の病歴より』(症例狼男)1918年)

ここでの抑圧とは言語の内部で「脇に置く」ということである(脇に置いて、その場には別の内容が圧縮 Verdichtungや置換 Verschiebungとして置かれる)。

排除とは言語の外部に「放り投げる」ということである(放り投げた場は何も置かれない。この象徴秩序(言語秩序)の場は穴である。そして現実界のなかにのみ、《異者としての身体 un corps qui nous est étranger(=フロイトの異物Fremdkörper)》(ラカン、S23、11 Mai 1976)として蠢く。

この「抑圧と排除」は、「欠如と穴」の相違である。

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。(⋯⋯)

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)


ここで確認の意味で、中井久夫による「抑圧」という語の注釈を掲げておこう。

中井久夫)「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります(中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これを repression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離」斎藤環/中井久夫/浅田彰)


くり返せば言語の外部とは象徴界の外部であり、すなわち現実界である。

排除 Verwerfung の対象は現実界のなかに再び現れる qui avait fait l'objet d'une Verwerfung, et que c'est cela qui réapparaît dans le réel. (ラカン、S3, 11 Avril 1956)
象徴界に排除(拒絶 rejeté)されたものは、現実界のなかに回帰する Ce qui a été rejeté du symbolique réparait dans le réel.(ラカン、S3, 07 Décembre 1955)


フロイトにおいて、抑圧とは言語内、排除とは言語外に関わる用語なのであり、それも以下の文で中井久夫が示している。

解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。…解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。

(⋯⋯)侵入症候群の一つのフラッシュバックはスナップショットのように一生変わらない記憶で三歳以前の古い記憶形式ではないかと思います。三歳以前の記憶にはコンテクストがないのです。⋯⋯コンテクストがなく、鮮明で、繰り返してもいつまでも変わらないというものが幼児の記憶だと私は思います。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

「防衛」とはかつてのフロイトにおける「抑圧」であり、フロイトは1926年以後、この語をふたたび抑圧、原抑圧を表現するために使うようになった。

私は後に(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念のかわりに、「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛 Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。

…この概念は、自我が葛藤にさいして役立てるすべての技術を総称している。抑圧はこの防衛手段のあるもの、つまり、われわれの研究方向の関係から、最初に分かった防衛手段の名称である。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926 年)

たとえば、最晩年の論文(ラカン曰くフロイトの遺書)にはこうある。

抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

ここでの抑圧は原抑圧のことである。それは「原防衛手段」という語が示している。ある時期以降のフロイトにおける抑圧は原抑圧(固着)である場合が多い(参照:原抑圧・固着文献)。

あるいは抑圧という語を原抑圧と抑圧(後期抑圧)をひっくるめて使っている。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)

※中井久夫のいう「解離」がなぜPTSD、すなわちトラウマにかかわるのかは、「サントーム型の人間」を参照のこと。


※一般化排除

ここで誤解のないようにつけ加えておけば、前期ラカンが示した原抑圧の排除が精神病の特徴だという考え方は、後期になって問い直しがなされている。

父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)

現在ラカン派ではこの「別の排除」を、人間が誰しももつ排除として「一般化排除 la forclusion généralisée」と命名している。リビドー固着による置き残しがこの「一般化排除」あるいは「一般化排除の穴 trou de la forclusion généralisée」(Ⱥ)である。

リビドーは、固着Fixierung によって、退行 Regression の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残る zurückgelassen)のである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917年)


この一般化排除の穴のせいで「人はみな妄想する」というラカンの発言(1978年)が生まれる。 そして穴とはラカン用語では現実界的トラウマのことである。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, Vie de Lacan、2010)

「人はみなトラウマ化されている」とは、フロイト用語で言い直せば、「人はみな外傷神経症である」ということである。ただしここでの外傷は「構造的外傷」と呼ばねばならない(参照:構造的トラウマと事故的トラウマ)。




■ドゥルーズの強制された運動と無意志的記憶の回帰

ところでドゥルーズは、死の本能、永遠回帰、無意志的記憶の回帰をほぼ同じメカニズムとして扱っている。この事実は、差異と反復、プルースト論を同時に読むことでよりいっそう明らかになる。核心は「強制された運動の機械」概念である。

『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。(ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』)
『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械 trois sortes de machinesを動かしている。

・部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)
・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)
強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。

このそれぞれが、真理を生産する。なぜなら、真理は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

・失われた時 le temps perduにおいては、部分対象 objets partiels の断片化による。
・見出された時le temps retrouvéにおいては、共鳴 résonance による。
・別の仕方における失われた時 le temps perdu d'une autre façon においては、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この失われたもの perteは、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)

ここでドゥルーズは何を言っているのか。「見出された時」(エロス)といってもその底部には、「失われた時」としての「強制された運動の機械」(タナトス)があると言っているのである。

それは『差異と反復』の次の文を読むことでより明らかになる。

エロスは共鳴 la résonance によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le tempsの形式である。(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)

ここでの議論における「強制された運動」の前提条件となるドゥルーズの「潜在的対象 l'objet virtuel 」概念のラカン的観点からの読解は、「潜在的対象と骨象a」で示した。ドゥルーズが「原抑圧」という語に二度触れているのもそこで示した。

わたくしにとってドゥルーズ が限りなくすぐれていると思えるのは、原抑圧への言及だけではなく、現在に至るまでフロイト学者のあいだでさえ滅多に触れられることのない「固着=自動反復」について、1968年の時点でーーすなわち後期ラカン(1973年以降)が始まる前にーー既に言及していることである。

トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復」という考え方 idée d'un « automatisme » は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)

この自動反復は象徴界のなかのオートマトンではない。そうではなく現実界のオートマトンである。



わたくしの知る限りでも、何人かのドゥルーズ研究者、たとえば『差異と反復』の翻訳者財津氏が新訳の過程で、この語の解釈に四苦八苦しているのを彼のブログで読んだことがある。これは現在ラカン派でも把握している人がすくないのでやむえないことではある(参照:「簡潔版:二つの現実界」)。

さて話を戻せば、ドゥルーズが抜き出した「固着=自動反復」の記述箇所前後が、ミレール 曰く《後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan 》なのである(Le PartenaireSymptôme 1997)。

(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する要素 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


もっともラカンはセミネール10「不安」(1962-1963)で、この「固着」という核心にとても近づいていた。だがその後の10年のあいだ「論理期」という寄り道をした。

セミネールXに引き続くセミネールXI からセミネールXX への10のセミネールで、ラカンは対象a への論理プロパーの啓発に打ち込んだ…何という反転!

そして私は自問した、ラカンはセミネールX 「不安」後、道に迷ったことを確かに示しうるかもしれない、と。…(ジャック=アラン・ミレール、Objects a in the analytic experience、2006ーー2008年会議のためのプレゼンテーション)


さてここでは簡潔に言っておこう。「強制された運動の機械」とはリビドー固着による強制された運動である。これは死の欲動、永遠回帰、無意志的記憶の回帰の三者において(メカニズムとしては)すべて同一である。あくまで「メカニズムとしては」と強調しておかなければならないが。

ドゥルーズにおける永遠回帰の叙述は、ここでは長くなるので触れない。それは「サントームの永遠回帰」を見よ。

リビドー固着とは、ラカン用語ではサントームである。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

そして言語の外に放り投げるを意味する排除=原抑圧とは、固着のことである。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍--「夢の臍 Nabel des Traums」「我々の存在の核 Kern unseres Wese」ーー、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)

永遠回帰=死の欲動=無意志的記憶の回帰(レミニサンス)という想定は、既にフロイト・ラカンも示している。

まずフロイトによる反復強迫=永遠回帰である。

同一の体験の反復の中に現れる不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫 Wiederholungszwang)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

次にラカンによる現実界のトラウマとレミニサンスとの関連性の示唆。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

ラカンが現実界というときは、現実界の反復強迫でもある。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

ここで『意味の論理学』における次の簡潔な文を並べればすべてが明瞭になるだろう。

強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年) 

この「強制された運動」は、プルースト論の核心であることをかさねて強調しておこう。

そして中井久夫はプルーストの「心の間歇」を、遅発性外傷障害としている。

遅発性の外傷性障害がある。震災後五年(執筆当時)の現在、それに続く不況の深刻化によって生活保護を申請する人が震災以来初めて外傷性障害を告白する事例が出ている。これは、我慢による見かけ上の遅発性であるが、真の遅発性もある。それは「異常悲哀反応」としてドイツの精神医学には第二次世界大戦直後に重視された(……)。これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』)


結局、死の欲動、永遠回帰、レミニサンスとも外傷神経症の一種なのである。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


原抑圧(リビドー固着)という言語外(現実界)の身体的なものの反復強迫を死の本能(死の欲動)と呼ぶのであり、死の本能とは直接的には死と関係がない。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)


ドゥルーズの1960年代後半の三つの仕事におけるエロス・タナトスの捉え方はこうである。



マゾッホ論とプルースト論では三区分、差異と反復では二区分である。ドゥルーズにおけるマゾッホ論の特徴は、「死の欲動」と「死の本能」を区別したことである。そして「差異と反復」の記述を考慮すれば、死の欲動とは事実上、エロス欲動に含まれるのである。欲動混淆とはエロスとタナトスの混淆としてフロイトのマゾヒズム論などに記述がある。

われわれはそもそも純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび脱混淆Entmischung することもありうる。だが死の欲動 Todestriebe のうちどれほどの部分が、リビドーの付加物 libidinöse Zusätze への拘束による飼い馴らし Bändigung durch die Bindung を免れているかは、目下のところ推察できない。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

「マゾッホ論」と「差異と反復」に絞って、用語的により厳密に示せば、次のようになる。

ドゥルーズの死の本能とラカンの享楽




◼️享楽と外傷神経症

ラカンの享楽概念自体、そのある相では外傷神経症として取り扱うことが可能である。

①享楽と固着
分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。…フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure, 2011)


②享楽とトラウマ
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée(L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)


⋯⋯⋯⋯

※付記

強制された運動の機械をめぐって記したが、1970年代、ガタリと組んだドゥルーズには欲望機械(欲望する機械)という概念がある。

ある純粋な流体 un pur fluide が、自由状態l'état libreで、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。(⋯⋯)この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能 Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』1972年)

さてどうしたものか、この概念を。ガタリと組んで口が滑っただけなんだろうか?




ニーチェ、プルースト、フロイト注釈者として常にドゥルーズに敬意を表している蚊居肢子は、ラカン派から「厳密にフェティシスト的錯誤」等々と長年嘲罵され続けているこの「欲望機械」概念をなんとか救いたいものだと思案中なのである・・・


ちなみに強制された運動の機械の項にある「固着と退行によって条件づけられた反復」とは、次の文脈のなかにある。

・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917)

そしてラカンはフロイトの「幼児期の純粋な出来事」という表現を、「サントーム=身体の出来事」と簡潔に表現した。

症状(原症状・サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

この「身体の出来事」をミレールはーー「享楽と外傷神経症」の項で引用したがーー、次のように注釈しているのである。

享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

そしてこれもくり返して引用すれば、《サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition.》 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)となる。

ようするにドゥルーズの「強制された運動の機械」とは、現代主流ラカン派の「サントーム」解釈とピッタンコなのである。