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2019年5月28日火曜日

固着によるタナトス

以前、次の図を掲げたが、それについて質問をもらっている。



この二つの死の本能の、右側は次の文に依拠する。

ある純粋な流体 un pur fluide が、自由状態l'état libreで、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望する機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。(⋯⋯)この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能 Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』1972年)


左側の「死の本能」は以下に示すが、一方は強制された運動、他方は自由流体としての運動であり、わたくしには明らかな矛盾があるという風にみえるということである。そして現在に至るまで、この二つの死の本能について突っ込んで問うているドゥルーズ研究者をわたくしは知らないということである。

⋯⋯⋯⋯

1960年代後半のドゥルーズ は「強制された運動 le mouvement forcé」あるいは「強制された運動の機械 les machines à movement forcé」という表現を扇の要にして、「タナトス Thanatos」「永遠回帰 l'éternité du retour」「無意志的回想 le souvenir involontaire」をほぼ等置している。



以下、まず三つの文を掲げる。


■強制された運動=タナトス
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)


■無意志的記憶= 時のなかに永遠回帰を導く死の本能
エロスは共鳴 la résonance によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le tempsの形式である。(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)


■強制された運動の機械=タナトス 
『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械 trois sortes de machinesを動かしている。

・部分対象の機械(衝動)machines à objets partiels(pulsions)
・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)
・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。

このそれぞれが、真理を生産する。なぜなら、真理は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

・失われた時 le temps perduにおいては、部分対象 objets partiels の断片化による。
・見出された時 le temps retrouvéにおいては、共鳴 résonance による。
・別の仕方における失われた時 le temps perdu d'une autre façon においては、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この失われたもの cette perte は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)

ーー今かかげた三文が、なによりもまず冒頭図の示す内実である。


ドゥルーズはプルーストの《現勢的ではないリアルなもの、抽象的ではないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》(『見出された時』)を何度もくり返している。ここでは二つだけ引く。


■潜在的なもの
《現勢的ではないリアルなもの、抽象的ではないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》――このイデア的なリアルなもの、この潜在的なものが本質である Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence。本質は、無意志的回想の中に現実化または具現化される L'essence se réalise ou s'incarne dans le souvenir involontaire。ここでも、芸術の場合と同じく、包括と展開 l'enveloppement, l'enroulement は、本質のすぐれた状態として留まっている。そして、無意志的回想le souvenir involontaireは、本質の持つふたつの力を保持している。すなわち、過去の時間のなかの差異 la différence dans l'ancien momentと、現勢性のなかの反復 la répétition dans l'actuel。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第5章、第2版 1970年)
潜在的なものは、実在的なものには対立せず、ただアクチュアルなものに対立するだけである。潜在的なものは、潜在的なものであるかぎりにおいて、或る十全な実在性を保持しているのである。潜在的なものについて、まさにプルーストが共鳴の諸状態について述定していたのと同じことを述定しなければならない。すなわち、「実在的ではあるがアクチュアルではなく、観念的ではあるが抽象的ではないréels sans être actuels, idéaux sans être abstraits」ということ、そして、象徴的ではあるが虚構ではないということ。

Le virtuel ne s'opposent pas au réel, mais suelement à l'actuel. Le virtuel possède une pleine réalité, en tant que virtuel. Du virtuel, il faut dire exactement ce que Proust disait des états de résonance : « réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits » ; et symboliques sans être fictifs .(ドゥルーズ『差異と反復(下)』財津理訳,2007年,p.111)

上のドゥルーズ文に現れる「潜在的なもの le virtuel 」と相同的な表現として、「潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x) ]」がある。ドゥルーズは、潜在的対象を次のように表現した。

・潜在的対象は純粋過去の切片である。 L'objet virtuel est un lambeau de passé pur

・潜在的対象はひとつの部分対象である。L'objet virtuel est un objet partial
(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)

だがこれでは何のことやら掴みがたい。重要なのは次の文である。

反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、「潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x])」に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成される。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、 諸関係の想像的な変容を規定するのである。

潜在的対象の遷移 Le déplacement de l'objet virtuel は、したがって、他のもろもろの偽装 déguisement とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。

反復は、実在性(レアリテ réalité)の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。 ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。

したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化 la représentation des présents に関わる帰結として産み出されるのである。

そうしたことをフロイトは、抑圧 refoulement という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧 refoulement dit « primaire »〉と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章)

ーーここで《潜在的対象》と《「原」抑圧 refoulement dit « primaire »》をほぼ同じ機能と扱っていることに注意しよう。

『差異と反復』の序章では、原抑圧と欲動の反復を関連づけて語っている。

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』「序」1968年)


フロイト概念「原抑圧 Urverdrängung」とは、実質上、「固着 Fixerung 」のことである(参照:原抑圧・固着文献)。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。 

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後期抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、 抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung・侵入 Durchbruch・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 摘要訳)
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。……(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)


ドゥルーズ自身、次のような形で「固着」に触れている。

トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復」という考え方 idée d'un « automatisme » は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)

ーーこのドゥルーズの文に現れる「トラウマ」「固着」「退行」「自動反復」は、なによりもまずフロイトの次の三文とともに読むべきである。

・リビドーは、固着Fixierung によって、退行 Regression の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残る zurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917年)
トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


なぜこの固着が反復強迫(死の欲動)を生むのか?

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )


固着とは 《「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである》(ポール・バーハウ、BEYOND GENDER、2001)。だが人はそれを象徴化の試みをする。それは不可能な試みである。したがって永遠的な反復強迫が起こる。

もともと「身体の出来事」の一部は心的装置に翻訳されはしない。

エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』、1938年)

ようするに固着による反復とは、外傷神経症の反復強迫とメカニズムとしては相同的である。

(心的装置による)拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)
フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

ーー晩年のラカンはこの固着をサントーム(原症状)と呼んだ(参照: フロイト・ラカン「固着」語彙群)。サントームとは、フロイト用語ではトラウマ神経症であり、かつまたその反復強迫である。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 16 juin 1975)

ここでの症状は原症状の意味であり、サントームのことである。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…身体の出来事はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…身体の出来事は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになった。Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)

そしてこのサントームが永遠回帰的反復強迫をもたらす。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

ラカンにとって、現実界はトラウマ界であり、レミニサンス(無意志的反復)するものである。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)


以上、冒頭に掲げた図を「固着」用語で補って再掲しておこう。




上に見てきたように「固着」は「潜在的なもの le virtuel 」あるいは「潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x) ]」に代替してもよい。

ラカンはこの固着を、骨象a [osbjet a]ともした。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)

以上。

2019年4月19日金曜日

ドゥルーズの赤いスカート

ああ、家族のことはどうでもいいって記したがね、エディプスコンプレクスモロの男だから、アンチエディプスを強調したかも、ってのは当然あっていい問いだろ? そんなの言うまでもないってことだ。

…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )

いくつかの伝記を掠め読むかぎりでは、ドゥルーズの母は、《エディプス的母、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父と関係を結ぶこと女》(マゾッホ論)だったようだな。で、ドゥルーズの父は、クロア・ド・フー(Croix-de-Feu)支持の右翼だったそうだ。

父がいつ死んだか、なぜ死んだのかは不明。伝記作家フランソワ・ドッスは、ドゥルーズの兄の死(1944年)後すぐに死んだと書いている。当時19歳。25歳まで母と二人暮らし。友人たちにプルースト並みと称される喘息期をもつ。で、ミシェル・トゥルニエが1949年、独テュービンゲン大学からパリに帰ってきて住んでいた月払いの Hotel de la Paix( サンルイ通り)の隣の部屋に、1950年から母を置いてきぼりにして移り住んだとある。




ーーほとんどどこにも旅行しなかったドゥルーズにとって、この通りが「孤島のロビンソン」の起源じゃないだろうか?






こういうことを書くとドゥルーズファンにキラワレルかもな、でもいくらか彼の書き物に親しくなったら、「ドゥルーズの赤いスカート」をわずかでも探ってみるってのは必然的な仕草だと思うがね。ボクはむかしサルトルでかなり熱心にやったけどな。でもなんでミナサンやらないんだろ? それともこっそりやってこっそり隠してるんだろうか?



素足  谷川俊太郎

赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ


ニーチェと同様、《能動的忘却 aktiven Vergeßlichkeit》、つまり生の肯定性を繰り返す人物は、「強制された運動」を引き起こす「不気味な」外傷的記憶があるんじゃないだろうか。これが冒頭に掲げた神田橋條治の文の別の読み方だ。

たとえばこれは、とっくのむかしにニーチェの愛人サロメが言っていることもある。《永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。》(ルー・アンドレアス・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)

記憶に残るものは灼きつけられたものである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文、第3章、1887年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges (タナトス)の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)
欲動蠢動は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、S10、1962)

ま、このあたりは深読みってのか妄想的読みであることを認めてもよいよ。

とはいえ《症状のない主体はない  il n'y a pas de sujet sans symptôme》。どんな主体にも原症状(欲動固着)があり、それへの防衛としての症状がある。欲望とは欲動の防衛である。欲望機械は、強制された運動の機械に対する防衛概念ではないだろうか。これが、ラカン派で「厳密にフェティシスト的錯誤」「ドゥルーズの退行」等と長年嘲罵されているこの概念を救う一つの方法だね。

強制された運動の機械(中井久夫とドゥルーズ)




欲望とはラカン派の定義では倒錯でもある。

倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、象徴秩序が望むような場には決してないという意味で。(MILLER, L'Autre sans Autre 、2013)

そして倒錯とは穴埋めである。

倒錯者は、大他者の中の穴を穴埋めすることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16, 26 Mars 1969)

この前提で以下の文を読もう。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23, 11 Mai 1976)
言わねばならない。その問題の人物…私が言祝いだあの人物は、臨床家ではなかった。ただ彼はシンプルにサドとマゾッホ SACHER-MASOCHを読んだのである。(……)

要するに、マゾヒズム masochisme は発明されたのだ。それは皆が到達できることではない。それは享楽と死とのあいだの entre la jouissance et la mort…関係性を確立するやり方である。(……)

人はみな現実界のなかの穴を穴埋する combler le trou dans le Réel ために何かを発明する。現実界は「穴=トラウマ(troumatisme )」を作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )








2019年4月18日木曜日

許せます、ジルを?





最近のエミールも見てみたが、写真で見るより映像で見たほうがもっと似ているね、娘とオヤジさんは(Émilieの きょうだいに英訳者をしているらしい Julien Deleuzeがいるのだが、こっちのほうは写真が特定できない)。







ドゥルーズは幼少年期を語ることを拒絶したそうだ。






兄弟は二歳違いだそうだ。

1944年7月2日、レジスタンス運動に参戦していたドゥルーズの兄ジョルジュGeorgesは、ドイツ軍に捕らえられ、強制収容所に送られる道程で死んだ。…

ジル・ドゥルーズは、親友ミシェル・トゥルニエに打ち明けた。トゥルニエ曰く、ドゥルーズは家族の生活を、彼の両親の態度の結果として拒絶した。《ジルは常に兄のジョルジュにコンプレクスを持っていた。彼の両親はジョルジュに「正真正銘の崇拝 véritable culte à l'enfant mort」を捧げた。そしてジルは兄だけを賛美する両親を許さなかった。彼は凡庸だと見なされた二流の子供、「ヒーローの弟 le frère du héros」に過ぎなかった。》(フランソワ・ドッスFrançois Dosse、Gilles Deleuze et Félix Guattari, biographie croisée,, 2007)


`1925年生れのドゥルーズだから当時19歳、兄の死は21歳ということになる。




蓮實)孤島のロビンソンが、なぜきれいな奥さんと結婚して、子供をふたりもつくるの(笑)。これはもう無頼漢ですよ。それで、浅田さんはドゥルーズが「偉大な哲学者」だと、もちろん誠心誠意おっしゃているんだろうけれども、どこかずるいと思ってない?

浅田)そりゃ、思ってますよ(笑)。

蓮實)あんなことされちゃ困るでしょ。この20世紀末にもなって、いけしゃあしゃあとあのような著作を書いて、家族なんてものはなくていいというような死に方をする。あの図々しさというか、いけしゃあしゃあぶりというものは、哲学者に必須のものなんですか、それとも過剰に与えられた美点なんですか。だってあんな人が20世紀末にいるのは変ですよ。ぼくはデリダよりドゥルーズのほうが好きですけれども、その点では、デリダにはそういうところは全くなくて、一生懸命やっている。フーコーがいるというのもよくわかる。しかし……。

浅田)フーコーは同時代にドゥルーズがいるから自分が哲学者だとは決して言わなかった。哲学者はドゥルーズだから。

蓮實)いいんですか。ああいう人がいて、浅田さん。

浅田)あえて無謀な比較をすれば、ぼくはどちらかというとガタリに近いほうだから、ああいう人がいてくれたのはすばらしいことだと思いますよ。

蓮實)しかし、彼はそれなりにひとりで完結するわけですよ。許せますか、そういう人を(笑)。ぼくは、浅田さんがドゥルーズを「偉大な哲学者」だと言っちゃいけないと思う。そうおっしゃるのはよくわかりますよ。わかるけれども、やっぱり否定してくださいよ。

浅田)でも「彼は偉大な哲学者だった」というのは、全否定に限りなく近い全肯定ですよ。否定するというなら「最も偉大な哲学者」として否定すべきだろう、と。

蓮實)どうしてきっぱりと否定しないの? さっき言ったことだけど、とにかくドゥルーズは確実にある問題体系を避けているわけです。それを避けることで「哲学者」としてあそこまでいったわけですからね。そうしたらば、それは悪しき形而上学とはいいませんけれども……。

浅田)「偉大な哲学」である、と。

蓮實)浅田さんが「偉大な哲学者」とおっしゃることが全否定に近いということを理解したうえでならばいいけれども、その発言はやはりポスト・モダンな身ぶりであって、いまでははっきり否定しないと一般の読者にはわからないんですよ。

浅田)いや、一般の読者の反応を想定するというのがポスト・モダンな身ぶりなのであって、ぼくは全否定に限りなく近い全肯定として「ドゥルーズは偉大な哲学者だった」と断言するまでです。

ただ、たとえばこういうことはありますね。さっき言われたように、ドゥルーズとゴダールは、言葉のレヴェルにおいては非常によく対応する。ただ出来事だけがある(eventum tantum)というのは、たんにイマージュがある(juste une image)ということですよ。しかし、ドゥルーズは、ゴダールがそのイマージュを生きているようには、出来事を生きていない。ぼくはゴダールは絶対的に肯定しますけれど、ドゥルーズは哲学者として肯定するだけです。

蓮實)うん、そこを言わせたいのよ(笑)。

浅田)そんなの自分で言ってくださいよ(笑)。

蓮實)だから浅田さんにとっては、ドゥルーズは一般的に偉いけれども、特異なものとして見た場合はやはりゴダールを取るでしょう。

浅田)絶対にゴダールを取ります。

蓮實)そうしたらば、ドゥルーズに対してもう少し強い否定のニュアンスがあってもいいと思う。

浅田)でも「偉大な哲学者」というのは最高に強い否定のニュアンスでもあるわけですよ。たとえばニーチェは哲学者ではないが、ハイデガーは哲学者である。それで、ゴダールがニーチェだとしたら、ドゥルーズはしいてどちらかといえばハイデガーなんです。

蓮實)ただし、ドゥルーズにとっての美というのは、ハイデガーのそれと全く違いますけれどもね。それともうひとつ、やはり彼は20世紀の両対戦間からその終わりまでに至って哲学は負けたと思っているのは明らかです。何に負けたかというと、実はゴダールではなくて、ジャン・ルノワールに負けている。ジャン・ルノワールが、風の潜在性からこれを顕在化することをやってしまっている、と。

浅田)ベルグソンを超えてしまったんですね。

蓮實)そう、超えてしまった。ぼくがいちばんドゥルーズに惹かれるのは、そこまで見た人はいなかったということです。不意にルノワールが出てくるでしょう。それでルノワールに負けているんですよ。おれの言ったことをもう全部やってしまている、と。

浅田)『物質と記憶』とほとんど同時に映画が生まれた。で、映画が哲学を完成してしまったんですね。

蓮實)そうです。それも、だれが完成したかというと、ゴダールではなくて、ルノワールなんです。それでもなお「偉大」ですか。

浅田)だから、たかだがそんな哲学だといえばそれまででしょう。でも、ほかにそんな哲学者がいます?(笑) フーコーは、自分は歴史家だと言わねばならなず、デリダだって、自分は物書きだと言わねばならない。しかし、ドゥルーズは単純に、私は哲学者であると言ってしまうんですからね。そして現にハイデガー以後はドゥルーズしかいないでしょう。(『批評空間』1996Ⅱ-9 共同討議「ドゥルーズと哲学」財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰/柄谷行人)


ボクは家族の話はどうでもいいけど、こっちのほうが許せないんだよな。




いけしゃあしゃあと死の本能についてまったく矛盾すること言って。






2019年4月15日月曜日

強制された運動の機械(中井久夫とドゥルーズ)

■中井久夫の解離と心の間歇

中井久夫は、プルーストの「心の間歇」と「解離」は近似したものだと言っている(「心の間歇」とは『失われた時を求めて』という長い小説の題名原案であり、無意志的記憶の回帰、あるいは外傷性記憶の回帰のこと)。

(プルーストの)「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。…

解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)

ここでいう「解離」は、実は原抑圧(リビドー固着)にかかわる。それは次の文における「外に放り投げるVerwerfung」という語が示している。

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

「排除 Verwerfung」という語をフロイトは動詞形で1894年に初めて使った。

自我は堪え難い表象 unerträgliche Vorstellung をその情動 Affekt とともに 排除 verwirftし、その表象が自我には全く接近しなかったかのように振る舞う。(フロイト『防衛-神経精神病 Die Abwehr-Neuropsychosen』1894年)


『夢解釈』にこの語は頻出するが、ここでは「狼男」から引く。

抑圧は排除とは別の何ものかである。Eine Verdrängung ist etwas anderes als eine Verwerfung. DER WOLF MAN (フロイト『ある幼児期神経症の病歴より』(症例狼男)1918年)

ここでの抑圧とは言語の内部で「脇に置く」ということである(脇に置いて、その場には別の内容が圧縮 Verdichtungや置換 Verschiebungとして置かれる)。

排除とは言語の外部に「放り投げる」ということである(放り投げた場は何も置かれない。この象徴秩序(言語秩序)の場は穴である。そして現実界のなかにのみ、《異者としての身体 un corps qui nous est étranger(=フロイトの異物Fremdkörper)》(ラカン、S23、11 Mai 1976)として蠢く。

この「抑圧と排除」は、「欠如と穴」の相違である。

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。(⋯⋯)

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)


ここで確認の意味で、中井久夫による「抑圧」という語の注釈を掲げておこう。

中井久夫)「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります(中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これを repression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離」斎藤環/中井久夫/浅田彰)


くり返せば言語の外部とは象徴界の外部であり、すなわち現実界である。

排除 Verwerfung の対象は現実界のなかに再び現れる qui avait fait l'objet d'une Verwerfung, et que c'est cela qui réapparaît dans le réel. (ラカン、S3, 11 Avril 1956)
象徴界に排除(拒絶 rejeté)されたものは、現実界のなかに回帰する Ce qui a été rejeté du symbolique réparait dans le réel.(ラカン、S3, 07 Décembre 1955)


フロイトにおいて、抑圧とは言語内、排除とは言語外に関わる用語なのであり、それも以下の文で中井久夫が示している。

解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。…解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。

(⋯⋯)侵入症候群の一つのフラッシュバックはスナップショットのように一生変わらない記憶で三歳以前の古い記憶形式ではないかと思います。三歳以前の記憶にはコンテクストがないのです。⋯⋯コンテクストがなく、鮮明で、繰り返してもいつまでも変わらないというものが幼児の記憶だと私は思います。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

「防衛」とはかつてのフロイトにおける「抑圧」であり、フロイトは1926年以後、この語をふたたび抑圧、原抑圧を表現するために使うようになった。

私は後に(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念のかわりに、「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛 Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。

…この概念は、自我が葛藤にさいして役立てるすべての技術を総称している。抑圧はこの防衛手段のあるもの、つまり、われわれの研究方向の関係から、最初に分かった防衛手段の名称である。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926 年)

たとえば、最晩年の論文(ラカン曰くフロイトの遺書)にはこうある。

抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

ここでの抑圧は原抑圧のことである。それは「原防衛手段」という語が示している。ある時期以降のフロイトにおける抑圧は原抑圧(固着)である場合が多い(参照:原抑圧・固着文献)。

あるいは抑圧という語を原抑圧と抑圧(後期抑圧)をひっくるめて使っている。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)

※中井久夫のいう「解離」がなぜPTSD、すなわちトラウマにかかわるのかは、「サントーム型の人間」を参照のこと。


※一般化排除

ここで誤解のないようにつけ加えておけば、前期ラカンが示した原抑圧の排除が精神病の特徴だという考え方は、後期になって問い直しがなされている。

父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)

現在ラカン派ではこの「別の排除」を、人間が誰しももつ排除として「一般化排除 la forclusion généralisée」と命名している。リビドー固着による置き残しがこの「一般化排除」あるいは「一般化排除の穴 trou de la forclusion généralisée」(Ⱥ)である。

リビドーは、固着Fixierung によって、退行 Regression の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残る zurückgelassen)のである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917年)


この一般化排除の穴のせいで「人はみな妄想する」というラカンの発言(1978年)が生まれる。 そして穴とはラカン用語では現実界的トラウマのことである。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, Vie de Lacan、2010)

「人はみなトラウマ化されている」とは、フロイト用語で言い直せば、「人はみな外傷神経症である」ということである。ただしここでの外傷は「構造的外傷」と呼ばねばならない(参照:構造的トラウマと事故的トラウマ)。




■ドゥルーズの強制された運動と無意志的記憶の回帰

ところでドゥルーズは、死の本能、永遠回帰、無意志的記憶の回帰をほぼ同じメカニズムとして扱っている。この事実は、差異と反復、プルースト論を同時に読むことでよりいっそう明らかになる。核心は「強制された運動の機械」概念である。

『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。(ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』)
『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械 trois sortes de machinesを動かしている。

・部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)
・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)
強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。

このそれぞれが、真理を生産する。なぜなら、真理は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

・失われた時 le temps perduにおいては、部分対象 objets partiels の断片化による。
・見出された時le temps retrouvéにおいては、共鳴 résonance による。
・別の仕方における失われた時 le temps perdu d'une autre façon においては、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この失われたもの perteは、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)

ここでドゥルーズは何を言っているのか。「見出された時」(エロス)といってもその底部には、「失われた時」としての「強制された運動の機械」(タナトス)があると言っているのである。

それは『差異と反復』の次の文を読むことでより明らかになる。

エロスは共鳴 la résonance によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le tempsの形式である。(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)

ここでの議論における「強制された運動」の前提条件となるドゥルーズの「潜在的対象 l'objet virtuel 」概念のラカン的観点からの読解は、「潜在的対象と骨象a」で示した。ドゥルーズが「原抑圧」という語に二度触れているのもそこで示した。

わたくしにとってドゥルーズ が限りなくすぐれていると思えるのは、原抑圧への言及だけではなく、現在に至るまでフロイト学者のあいだでさえ滅多に触れられることのない「固着=自動反復」について、1968年の時点でーーすなわち後期ラカン(1973年以降)が始まる前にーー既に言及していることである。

トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復」という考え方 idée d'un « automatisme » は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)

この自動反復は象徴界のなかのオートマトンではない。そうではなく現実界のオートマトンである。



わたくしの知る限りでも、何人かのドゥルーズ研究者、たとえば『差異と反復』の翻訳者財津氏が新訳の過程で、この語の解釈に四苦八苦しているのを彼のブログで読んだことがある。これは現在ラカン派でも把握している人がすくないのでやむえないことではある(参照:「簡潔版:二つの現実界」)。

さて話を戻せば、ドゥルーズが抜き出した「固着=自動反復」の記述箇所前後が、ミレール 曰く《後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan 》なのである(Le PartenaireSymptôme 1997)。

(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する要素 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


もっともラカンはセミネール10「不安」(1962-1963)で、この「固着」という核心にとても近づいていた。だがその後の10年のあいだ「論理期」という寄り道をした。

セミネールXに引き続くセミネールXI からセミネールXX への10のセミネールで、ラカンは対象a への論理プロパーの啓発に打ち込んだ…何という反転!

そして私は自問した、ラカンはセミネールX 「不安」後、道に迷ったことを確かに示しうるかもしれない、と。…(ジャック=アラン・ミレール、Objects a in the analytic experience、2006ーー2008年会議のためのプレゼンテーション)


さてここでは簡潔に言っておこう。「強制された運動の機械」とはリビドー固着による強制された運動である。これは死の欲動、永遠回帰、無意志的記憶の回帰の三者において(メカニズムとしては)すべて同一である。あくまで「メカニズムとしては」と強調しておかなければならないが。

ドゥルーズにおける永遠回帰の叙述は、ここでは長くなるので触れない。それは「サントームの永遠回帰」を見よ。

リビドー固着とは、ラカン用語ではサントームである。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

そして言語の外に放り投げるを意味する排除=原抑圧とは、固着のことである。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍--「夢の臍 Nabel des Traums」「我々の存在の核 Kern unseres Wese」ーー、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)

永遠回帰=死の欲動=無意志的記憶の回帰(レミニサンス)という想定は、既にフロイト・ラカンも示している。

まずフロイトによる反復強迫=永遠回帰である。

同一の体験の反復の中に現れる不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫 Wiederholungszwang)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

次にラカンによる現実界のトラウマとレミニサンスとの関連性の示唆。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

ラカンが現実界というときは、現実界の反復強迫でもある。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

ここで『意味の論理学』における次の簡潔な文を並べればすべてが明瞭になるだろう。

強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年) 

この「強制された運動」は、プルースト論の核心であることをかさねて強調しておこう。

そして中井久夫はプルーストの「心の間歇」を、遅発性外傷障害としている。

遅発性の外傷性障害がある。震災後五年(執筆当時)の現在、それに続く不況の深刻化によって生活保護を申請する人が震災以来初めて外傷性障害を告白する事例が出ている。これは、我慢による見かけ上の遅発性であるが、真の遅発性もある。それは「異常悲哀反応」としてドイツの精神医学には第二次世界大戦直後に重視された(……)。これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』)


結局、死の欲動、永遠回帰、レミニサンスとも外傷神経症の一種なのである。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


原抑圧(リビドー固着)という言語外(現実界)の身体的なものの反復強迫を死の本能(死の欲動)と呼ぶのであり、死の本能とは直接的には死と関係がない。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)


ドゥルーズの1960年代後半の三つの仕事におけるエロス・タナトスの捉え方はこうである。



マゾッホ論とプルースト論では三区分、差異と反復では二区分である。ドゥルーズにおけるマゾッホ論の特徴は、「死の欲動」と「死の本能」を区別したことである。そして「差異と反復」の記述を考慮すれば、死の欲動とは事実上、エロス欲動に含まれるのである。欲動混淆とはエロスとタナトスの混淆としてフロイトのマゾヒズム論などに記述がある。

われわれはそもそも純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび脱混淆Entmischung することもありうる。だが死の欲動 Todestriebe のうちどれほどの部分が、リビドーの付加物 libidinöse Zusätze への拘束による飼い馴らし Bändigung durch die Bindung を免れているかは、目下のところ推察できない。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

「マゾッホ論」と「差異と反復」に絞って、用語的により厳密に示せば、次のようになる。

ドゥルーズの死の本能とラカンの享楽




◼️享楽と外傷神経症

ラカンの享楽概念自体、そのある相では外傷神経症として取り扱うことが可能である。

①享楽と固着
分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。…フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure, 2011)


②享楽とトラウマ
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée(L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)


⋯⋯⋯⋯

※付記

強制された運動の機械をめぐって記したが、1970年代、ガタリと組んだドゥルーズには欲望機械(欲望する機械)という概念がある。

ある純粋な流体 un pur fluide が、自由状態l'état libreで、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。(⋯⋯)この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能 Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』1972年)

さてどうしたものか、この概念を。ガタリと組んで口が滑っただけなんだろうか?




ニーチェ、プルースト、フロイト注釈者として常にドゥルーズに敬意を表している蚊居肢子は、ラカン派から「厳密にフェティシスト的錯誤」等々と長年嘲罵され続けているこの「欲望機械」概念をなんとか救いたいものだと思案中なのである・・・


ちなみに強制された運動の機械の項にある「固着と退行によって条件づけられた反復」とは、次の文脈のなかにある。

・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917)

そしてラカンはフロイトの「幼児期の純粋な出来事」という表現を、「サントーム=身体の出来事」と簡潔に表現した。

症状(原症状・サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

この「身体の出来事」をミレールはーー「享楽と外傷神経症」の項で引用したがーー、次のように注釈しているのである。

享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

そしてこれもくり返して引用すれば、《サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition.》 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)となる。

ようするにドゥルーズの「強制された運動の機械」とは、現代主流ラカン派の「サントーム」解釈とピッタンコなのである。




2017年11月13日月曜日

仮面の背後には仮面しかないのか?

①仮面の背後には仮面しかない。


仮面の背後にはさらなる仮面がある。最も隠されたものでさえ未だ隠し場所なのである。何かの、あるいは誰かの仮面をはがして正体を暴くというのは、錯覚に過ぎない。

Derrière les masques il y a donc encore des masques, et le plus caché, C'est encore une cachette, à l'infini. Pas d'autre illusion que celle de démasquer quelque chose ou quelqu'un.Pas d'autre illusion que celle de démasquer quelque chose ou quelqu'un.(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)


②エディプス的顰め面の背後には分裂的笑いがある。


オイディプス的顰め面の背後で derrière la grimace œdipienne プルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑いーー蜘蛛になること、あるいは虫になること。

le rire schizo qui secoue Proust ou Kafka derrière la grimace œdipienne - le devenir-araignée ou le devenir-coléoptère. (ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス L'ANTI-ŒDIPE』1972年)

ーーエディプスとはファルス秩序、象徴秩序、言語による秩序にかかわる。

さて①と②をどう読んだらいいのだろう。一読だけでは矛盾しているようにも見えるーー、仮面の背後には仮面しかないが、仮面の皺(顰め面)の背後には分裂的笑いがある?

まず①とは次のような文脈内の表現である。


「プラトニズムの転倒」は次のことを意味する。すなわち 、コピーに対するオリジナルの優位を否認すること、イマージュに対するモデルの優位を否認すること、見せかけ(シミュラークル)と反映の君臨を賛美すること。

Renverser le platonisme signifie ceci : dénier le primat d'un original sur la copie, d'un modèle sur l'image. Glorigier le règne des simulacres et des reflets. (ドゥルーズ『差異と反復』)

ニーチェに遡れば、こうである。


「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

確かにことばの仮面の背後にはことばの仮面しかない、とは言いうる。

すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。Jede Philosophie verbirgt auch eine Philosophie; jede Meinung ist auch ein Versteck, jedes Wort auch eine Maske.(ニーチェ『善悪の彼岸』289番)


だが②はどうだろう?  すくなくとも仮面の顰め面、仮面の皺の背後には、分裂的笑い、ニーチェ的笑いがある。ことばの外、象徴界外の笑いが。そうではなかろうか?


ファルスの彼岸 au-delà du phallus には、身体の享楽 jouissance du corps がある。(ラカン、S20、20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ーーいま、通常は「大他者の享楽」と訳される jouissance de l'Autre を「他の享楽」と訳した。この理由は、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。

さて言語外、象徴界外には、分裂病的享楽、自閉症的享楽、身体の(=他の享楽)楽がある。これが現在のラカン派の考え方である。


ラカンは言語の二重の価値を語っている。無形の意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDF

ーー《シニフィアンは享楽の原因である。Le signifiant c'est la cause de la jouissance》(ラカン、S20、19 Décembre 1972)

言存在の身体 Le corps du parlêtre は、主体の死んだ身体ではない。生きている身体、《自ら享楽する身体 se jouit 》である。この観点からは、身体の享楽 jouissance du corps は、自閉症的享楽 jouissance autiste である。(L’HISTOIRE, C’EST LE CORPS

ラカンの身体の享楽(他の享楽)とは、現実界の審級に属するものであり、現実界は象徴秩序の非一貫性(非全体 pastout)、その裂目に外立するのである。《現実界は外立する Le Réel ex-siste》(ラカン、S22)

エク・スターシス(あるいはEk-sistenz )とは本来、自身の外へ出てしまう、ということです。忘我、恍惚、驚愕、狂気ということでもある。…また一方では、開けてしまうということから、中世の神秘主義者たちが繰り返し言っている赤裸という観念を思い出す。すべてから赤裸にならなくてはならない。極端まで行けば、「神」 という観念までも捨てなければならない…(古井由吉・木田元「ハイデガ ーの魔力」、2001 年)

ラカンは、この外立( 自身の外へ出てしまう)を考えるなかで、神とは女のことだと言い放った。

⋯⋯一般的に人が神と呼ぶもの。だが精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme 》だということである。

on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme »(ラカン、S23、16 Mars 1976)

ーーラカンの〈女〉とは、「異物としての身体」のことである(参照)。

ここでドゥルーズに戻ろう。

象徴界レヴェルでは、仮面の背後には仮面しかないと言いうる。だが現実界レヴェルまでを視野におけば、仮面の背後には、やはり何ものかがある。潜在的なものがあるのである。


反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではない。そうではなく、潜在的対象(対象=x)の機能のなかで二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成されている。

La répétition ne se constitue pas d'un présent à un autre, mais entre les deux séries coexistantes que ces présents forment en fonction de l'objet virtuel (objet = x).(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

もっともここで誤解のないように、こう付け加えておかねばならない。

潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan)

すなわち発達段階的ではなく、すでに象徴秩序の住う人間の観点からみれば、《原初primaire は最初premier ではない》(ラカン、 S.20、13 Février 1973)

さて話を戻そう。

たとえばニーチェは次のように言っている。


もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

この「己れの典型的経験」は、フロイト・ラカン用語に置きかえれば、フロイトの反復強迫を促す原抑圧ーー実質上は原「抑圧」ではなく、原刻印としての「原固着 Urfixierung」ーー、ラカンの「身体の出来事 événement de corps」(原症状=サントーム)である。

症状(原症状=サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE.569、1975ーー「真珠貝と砂粒」)

原固着(原抑圧)とは、潜在的対象(対象=x)[ l'objet virtuel (objet = x)]にかかわる。

事実、ドゥルーズは上に引用した文のあとしばらくして次のように記している。

⋯⋯こうしたことをフロイトは、抑圧 refoulement という審級よりもさらに深い審級 instance plus profonde を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧 refoulement dit « primaire »〉と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復』)

ーードゥルーズがここで言いたいのは、《純粋差異 pure différence》としての原固着(対象a)であるとわたくしは考えるが、今はその議論は割愛する。

かわりにジャック=アラン・ミレールによるサントーム(身体の出来事)が固着であるとする説明を掲げる。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours、PDF)

そして《女性の享楽(身体の享楽)は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps 》(ミレール、2011, L'Etre et L'Un)

⋯⋯⋯⋯

繰返せば、こうして、仮面の背後には仮面しかない、とは象徴界(ファルス秩序)の水準、欲望の水準でしか言い得ないことが判然とする。現実界の水準、欲動の水準においては原固着、ーー欲動の身体(原抑圧にかかわる《欲動の現実界 le réel pulsionnel》--(ラカン、1975)、《自ら享楽する身体 corps qui jouit》ーーがあるのである。

ニーチェの表現なら《欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs》である。


私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、権力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889

⋯⋯⋯⋯

※付記

より基本的な資料を付記しておこう。ニーチェの仮面をめぐる叙述である。ニーチェはここでは、決して仮面の背後には仮面しかないとは言っていない。

現代の者たちよ、顔に手足に五十の絵の具のしみをつけて、おまえたちはそこにすわっていた。そしてわたしを驚かせ、あきれさせた。

そしておまえたちのまわりには五十の鏡が置かれていた。それがおまえたちの色の叫喚に媚び、それをまねて叫び声をあげている。

まことに、現代の者たちよ、おまえたちの顔貌こそ、何にもまさる仮面なのだ ihr könntet gar keine bessere Maske tragen。だれにできよう、おまえたちが何者かを見分けることが。

過去の生んだ記号をからだいちめんに書きつけ、さらにその記号を新しい記号で上塗りしている。このようにしておまえたちは、あらゆる記号解読者も読み解けないほどに、巧みに自分自身を隠したのだ。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部「教養の国」)
サント・ブーヴ…すべての主要問題において裁くという課題を拒否し、「客観性」という仮面 die »Objektivität« als Maske をかぶっている。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」)

2017年9月17日日曜日

愛する対象の非全体

愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

スワンのオデットへの愛、マルセルのアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。あるいは小説家ベルゴットへの愛でさえも。

冒頭のドゥルーズ文は、『失われた時を求めて』に繰り返し出現する主要テーマにかかわり、たとえば最終巻の「見出された時」にはこうある。

バルベックの美は、一度その土地に行くともう私には見出されなかった、またそのバルベックが私に残した回想の美も、もはやそれは二度目の逗留で私が見出した美ではなかった、ということを。私はあまりにも多く経験したのだった、私自身の奥底にあるものに、現実のなかで到達するのが不可能なことを。また、失われた時を私が見出すであろうのは、バルベックへの二度の旅でもなければ、タンソンヴィルに帰ってジルベルトに会うことでもないのと同様に、もはやサン・マルコの広場の上ではないということを。また、それらの古い印象が、私自身のそとに、ある広場の一角に、存在している、という錯覚をもう一度私の起こさせるにすぎないような旅は、私が求めている方法ではありえない、ということを。

またしてもまんまとだまされたくはなかった、なぜなら、いまの私にとって重大な問題は、これまで土地や人間をまえにしてつねに失望してきたために(ただ一度、ヴァントゥイユの、演奏会用の作品は、それとは逆のことを私に告げたように思われたが)、とうてい現実化することが不可能だと思いこんでいたものにほんとうに自分は到達できるのかどうか、それをついに知ることであったからだ。(プルースト「見出された時」)

《またしてもまんまとだまされたくはなかった》とあるが、人はことあるごとに騙されてしまうのだ。わたくしはこのところ安吾を読んでいるが、わたくしの安吾への愛は、安吾のなかにない、と常に疑わねばならないのに、ついうっかり忘れてしまう。

もっともプルーストは上にあるようにヴァントゥイユの作品という例外を語っている。これについてドゥルーズは、プルースト文にあらわれる非物質性(シネ・マテリア Sine materia)という語を取り出して注釈してはいる(参照:社交・愛・感覚・芸術のシーニュ)。真の芸術のシーニュは、愛する対象のなかにあると言えるのかもしれないが、それについてはわたくしはいまだ処理できていない(シネ・マテリア自体、後述のシミ=対象a=純粋差異ではないだろうか、と考えているところがある)。

一般にはドゥルーズがプルースト文を引用して記しているように「対象の鞘のなかの印象/己れ自身の内部にのびている印象」の後者が肝腎であるというのが、プルーストの「もう騙されたくはなかった」の意味合いである。

我々のどの印象もふたつの側面を持っている。《あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている》。それぞれのシーニュはふたつの部分を持っている。それはひとつの対象を指示しdésigne、他方、何か別のものを徴示する signifie。客観的側面は、快楽 plaisir、直接的な悦楽 jouissance immédiate 、それに実践 pratique の側面である。

我々はこの道に入り込む。我々は《真理》の側面を犠牲にする。我々は物を再認reconnaissons する。だが、我々は決して知る connaissons ことはない。我々はシーニュが徴示すものを、それが指示する存在や対象と混同してしまう。我々は最も美しい出会いのかたわらを通り過ぎ、そこから出て来る要請 impératifs を避ける。出会いを深めるよりも、容易な再認の道を選ぶ。ひとつのシーニュの輝きとして印象の快楽を経験するとき、我々は《ちぇ、ちぇ、ちぇ zut, zut, zut 》とか、同じことだが《ブラボー、ブラボー》とかいうほかない。すなわち対象への賞賛を表出する表現しか知らない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

とはいえ、愛する理由は愛する対象のなかにはなく、己自身の内部にのびているもととするとき、その具体的なあり方は何か。

そのひとつの解釈としては、愛する理由は対象のなかに書き込まれているシミにある、という観点である。

プンクトゥム punctum とは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなシミ petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことでもありーーしかもまた、骰子の一振りcoup de dés のことでもある…。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺すme point 偶然 hasard (それだけなく、私にあざをつけme meurtrit、私の胸をしめつけるme poigne)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第10章)

このシミが人を動顛させ突き刺す(参照:眼差しとしてのプンクトゥム)。

ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻である。ある何ものかの徴がつけられることによって、写真はもはや任意のものでなくなる。そのある何ものかが一閃して、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのでる(指向対象が取るに足りないものであっても、それは大して問題ではない)。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

バルトが《指向対象が取るに足りないものであっても、それは大して問題ではない》と記していることに注目しよう。

たとえば誰かがわたくしの書いた「駄文」を愛するとする。だが彼(女)がわたくしの文を愛する理由は、わたくしの書いた文の内容では直接にはない。たまたまわたくしの書いた文に、彼(女)を触発するシミが書き込まれていて、《小さな震動》をもたらした、という側面が十分にありうる。おそらく、わたくしの駄文という「石鹸の広告」にパスカルの『パンセ』を読んだのである。

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」)

ラカン派的にいえば次の通り。

・確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau.

・そして私が絵の中の何ものか quelque chose dans le tableau なら、…それは染み tâche としてある。

・眼差しは外部にある le regard est au dehors…私は眼差される je suis regardé、すなわち私は絵である je suis tableau…私は写真に写される je suis photo, photo-graphié(ラカン、S11)

《主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。「対象以上の対象のなか」(=対象a)に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。》(ジジェク、パララックス・ヴュ―、2006)


いま引用したラカン文をムラデン・ドラ―がたくみに注釈している。ようするに愛を抱く対象には、主体が刻印されているのである。これを「表象は非全体 pas-tout」と言っている。

写真の動きが、視野の主体に宿っている。人は視野の領野において、写真を写す主体として己れを孤立化しうる以前に、あたかも人は写真に写されている。人が視野のなかで、写真に写され、掴み取られ、捕獲されるそのあり方、それは写真のなかに斑点、染み、歪みとしての徴を残す。すなわち眼差しという不透明なスクリーンである。

ここで問題になっている事は、表象概念ではない。表象 Vorstellungs とは常に主体にとっての表象である。すなわち彼の前に置かれたもの (vor-stellen 表-象)である。染みは、スクリーンの機能を所有しており、眼差しの代役のようなものである。染みは、主体とその欲望の、対象化された外部の「代理」であり、究極的には、言語とシニフィアンの領野における、(フロイトの)悪評高い「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」と同じ機能をもっている。

染みは、構造的に喪われている表象の代役(喪われているシニフィアンのシニフィアン)である。表象の全領野は染みに依拠している。染みという代理は、構造的に喪われているにもかかわらず、この代役は他の諸表象と同じ水準にあり、絶えず閉じ・脱境界化し・全体化する表象の領野の不可能性にとっての代役である。表象は「すべてではない」。表象は非全体 pas-tout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのだが、その主体の刻印のためである。

ここにはショート short-circuit がある(したがってまたラカンの名高い聖典的公式《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代理する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant 》がある。すなわち、表象を、徴示的連鎖と無限への換喩に内在的な固有のものにする。この公式の決定的カナメは、主体は代理された何かとして重要な役割をなすということであり、一般に考えられているように、主体の代わりに何かが代理されるということではないことである。)

ここで問題になっている事はまた、ある種の「表象の彼岸」ではない。あるいはラカンが用いるカント的用語における、現象の領域の彼岸ではない。…(ムラデン・ドラ―2016, Mladen Dolar, Anamorphosis, pdf

…………

※付記

シミが鑑賞者を眼差していることに気づかないことは大いにありうる。

視野においてはすべてが、二律背反的な二つの項がある。

①物 choses の側には眼差し regard がある。すなわち、物が私を眼差す regardent。

②私にはそれらの物が見える voir。

聖書においてしきりに強調される、《彼らは、見えないかもしれない眼をもっている Ils ont des yeux pour ne pas voir》という言葉は、この意味で理解されなければならない。

何が見えないかもしれないのか Pour ne pas voir quoi ? それはまさしく、物が私を眼差している les choses me regardent ことである。(ラカン、S11、11 mars 1964)

プルーストには、自らの作品の役割は、読者が己れを読むことにあるとする、とても美しい文章がある。

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。

本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。書物が述べていることを読者が自分自身のなかに認めることこそ、その書物が真実であるという証拠であり、すくなくともある程度、その逆もまた真なりであって、著者のテキストと読者のテキストのあいだにある食違は、しばしば著者にでなくて読者に負わせることができる。さらにつけくわえれば、単純な頭の読者にとって、書物が学問的でありすぎ、難解でありすぎることがある、そんなときはくもったレンズしかあてがわれなかったように、読者にはよく読めないことがあるだろう。しかし、それとはべつの特殊なくせ(倒錯のような)をもった読者の場合には、正しく読むために一風変わった読みかたを必要とすることもあるだろう。著者はそれらのことで腹を立てるべきではなく、むしろ逆に、最大の自由を読者に残して、読者にこういうべきである、「どれがよく見えるかあなたがた自身で見てごらん、このレンズか、あのレンズか、そちらのレンズか。」(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)

そしてこの文のすぐれた注釈としてドゥルーズ文をも掲げる。

プルーストにおいて新しいもの、マドレーヌの永遠の成功、永遠の意味作用にしているものは、単に忘我や特権的瞬間の存在ではない。文学には、そのような特権的瞬間の例が無数にある。それはまた、プルーストがそれらの瞬間を提示し、彼の文体の中で分析する独創的なやり方だけでもない。むしろそれはプルーストがそれらの瞬間を生産するという事実、そしてそれらの瞬間が、文学機械 machine littéraire の効果になるという事実である。

そこから、『失われた時を求めて』の終りの部分で、ゲルマント夫人の家において、反響 résonances が増大するとこになる。それはあたかも文学機械がその完全な体制を見出すかのようである。もはや、文学者が報告したり、利用したりする超文学 extra-littéraire 的な経験が問題なのではなく、文学によって生産される芸術的実験、文学の効果が問題である。ここで効果というのは、電気的効果とか、電磁的効果とかいう意味での効果である。(… )

芸術が生産するための機械であるということ、そして特に効果を生産するための機械であることについての、プルーストは、最も生なましい意識を持っている。ここで効果というのは、他人に対する効果である。なぜならば、読者または観客は、彼ら自身の内部と外部に、芸術が作品が生産しえたのと似た効果を、発見しようとするからである。《女たちが街を通りすぎて行くが、昔の女とは違っている。なぜならば、彼女たちはルノアールだからである。それは、昔われわれが女たちであると見るのを拒否したルノアールである。馬車も、水も、空もルノアールである。》 プルーストが、自分の書いた本は眼鏡であり、光学機械 instrument d'optique だと言うのは、この意味においてである。

プルーストを読んだあとで、彼が記述する反響に似た現象を体験したなどというおろかなまねをする痴者 imbéciles は大ぜいはいないし、また、そのような体験が、記憶錯誤症・記憶喪失症・記憶過多症のケースではないかと自問するようなペダンティックな者 pédants も多くはいない。プルーストの独自性は、この古典的な領域に、彼以前には存在しなかったメスを入れ、操作を導入した点にある。しかし、単に他人に対して生産された効果だけが問われるのではない。芸術作品こそが、それ自体の内部で、またそれ自体に対して、それ固有の効果を生産し、それによってみたされ、それを養分とするのである。芸術作品は、おのれが生む真実を養分とする。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

…………

※追記

ジジェクの解釈においては、対象aあるいはシミとはドゥルーズやラカンの「純粋差異」のことである(参照)。

……対象a はカントの超越論的対象 transcendental object に近似している。なぜなら、対象a は「知られていないX」、仮象の彼方の対象の「ヌーメノンNoumenon」的核を表すから。それは《あなたのなかにあるあなた以上のもの quelque chose en toi plus que toi》である。

したがって対象a は、純粋視差対象 pure parallax objectとして定義される。…さらに厳密に言えば、対象a は、視差の裂目 parallax gapの「原因」である。

ここでのパラドクスは厳密なものである。まさにこの点にて、純粋差異が現れる。差異はもはや「二つの可能的に存在する対象 two positively existing objects」のあいだの差異ではない。そうではなく「「一」とそれ自体からの同じ対象を分割する divides one and the same object from itself」差異である。この差異「それ自体」は即座に測り知れない unfathomable 対象と一致する。

諸対象の間の単なる差異とは対照的に、純粋差異はそれ自体、対象である。(パララックス・ヴュー、私訳、原文

2017年7月11日火曜日

享楽の漂流、あるいは死の漂流

ラカンの言説(社会的つながり lien social )理論の基本構造図にはいくつかのヴァリエーションがある。まずその代表的な三つの図を掲げる。





①左上には Agent(代理人・動作主)、Semblant(見せかけ・仮象)、Désir(欲望)とあるが、相同的なものと扱ってよい。なぜなら言語を使用する人間とは、「物の殺害」をした欲望する主体である。そして《言説 discours 自体、つねに見せかけの言説 discours du semblantである》(ラカン、S19、1972)。さらにまた欲望する主体とは、じつは幻想の主体のことであり、「vérité 真理」の代理人・仮象の主体にすぎない。

欲望の主体はない il n 'y a pas de sujet du désir。あるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme である。 ( Lacan,REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE,1966)

②右上には、Autre(大他者)、Jouissance(享楽)とある。これはいっけん相同的なのものとは扱いがたいようにみえる。だが、どちらも「動作主」が融合したい先である。たとえば究極の大他者は「母なる大他者」であり、かつまたラカンにとって大他者は身体でもある、《L'Autre, c'est le corps》(S14) 。言語によって「身体」と「斜線を引かれた主体 $ 」とに分割された人間は、身体と融合したい。だがそれは不可能である(これらが左上→右上にある impossible の意味である)。

(そもそも最後のラカンにとって、《大他者は存在しない(S(Ⱥ))l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ) 》(S24, 08 Mars 1977)。もちろん享楽も存在しない。ゆえに象徴的大他者自体が仮象である。晩年のラカンの「象徴界は穴 trou」、「身体は穴 trou」 とはこの文脈のなかにある。) 

③右下には、Product(生産物)、Plus de jouir(剰余享楽)、Perte(喪失)とある。これはすべて等価である。大他者に融合したい動作主だが、融合できない。ゆえに失われた享楽の残余が生産される。

④左下の vérité (真理)はすべて同一である。そして真理とは「話す身体 le corps parlant」であり、それは「欲動の現実界 le réel pulsionnel」でもある(参照:引力と斥力)。右下→左下にある Impuissance(不能)とは、真理と生産物はけっして合致しないという意味である。

…………

ところでフロイトにとって、エロスとは融合欲動であり、タナトスとは分離欲動である(参照)。それは結合欲動、分解欲動といっても同じである。

エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに「結び合わせ Bindung」である。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を「分解 aufzulösen」 することである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

たとえば性行為とは、最も典型的なエロス(融合欲動)とタナトス(分離・破壊欲動)の混淆である。

性行為は、最も親密な結合 Vereinigung(エロス)という目的をもつ攻撃性 Aggression(タナトス)である。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという 二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

だがフロイトが言っているようにこの混淆は性行為だけではない。人間のあらゆる行為は、エロスとタナトスの混淆である(すくなくとも最後のフロイトはそう考えている[参照])。

生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為は、食物の取り入れ Einverleibung(エロス)という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすること(タナトス)である。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

さて上の①②③④の前提と、いま掲げたフロイトの叙述に依拠すれば、冒頭にかかげたラカン言説理論の基本構造図における左上をエロス、左下をタナトスとすることができるとわたくしは思う。




これは次のように読む。

・融合欲動としてのエロスは、大他者のポジションに融合したい。

・だが究極の融合とは主体の死である。《究極の享楽の形式は、象徴界を離れることを意味する。したがって、消滅、すなわち「主体の死」である》(ポール・バーハウ、2001)。かつまた真理のポジションにある分離欲動としてのタナトスが融合を許さない。

・ゆえに残余としての剰余享楽が生産される。これをラカンは別に「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と呼び、バディウは「彷徨える過剰 L’excès errant」と呼んでいる。かつまたロラン・バルトは、次のような表現の仕方をしている。

享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)

・こうしてエロスとしての仮象の主体は、彷徨える過剰の漂流に促されて永続的な循環運動の反復をするようになる。

これはドゥルーズが簡潔に書いていることでもある。

エロス Érôs は己れ自身を循環 cycle として・循環の要素 élément d'un cycle として生きる。それに対立する要素は、記憶の底にあるタナトス Thanatos au fond de la mémoire でしかありえない。両者は、愛と憎悪 l'amour et la haine、構築と破壊 la construction et la destruction、引力 attractionと斥力 répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

いま記したことをさきほどの図に代入すれば、次のようにも書ける。



ラカン自身の言葉なら次の通り。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の衝動(欲動 la pulsion de mort) …もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(S23, 16 Mars 1976)

これらの「死」をめぐる記述はいっけん奇妙に思えるかもしれない。だが図の下部構造とは現実界ーー《本源的に沈黙して》おり(フロイト『自我とエス』)、象徴界の彼岸にあるもの、ーーであり、われわれ象徴界(図の上部構造)における「幻想の主体」は気づかないだけである、というのがフロイト・ラカンの考え方である。

・死への迂回路 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。

・有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)


2017年7月10日月曜日

ドゥルーズによる欲動融合 Triebmischung と欲動解離 Triebentmischung

欲動 Trieb の「ミックス mischung/脱ミックス entmischung」」にて記した、フロイトの「欲動融合 Triebmischung」 と「欲動解離 Triebentmischung」を把握するための最もすぐれた文のひとつは、ドゥルーズのマゾッホ論のなかの叙述である。

ーー前回記したように「欲動融合 Triebmischung」とは欲動混淆・欲動混同とも訳されうる語であるが、エロス欲動とタナトス欲動が融合・混淆・結ばれるという意味でもある。他方「欲動解離 Triebentmischung」とは、エロスとタナトスの融合が、脱融合(解離)するということである。

以下のドゥルーズ文における「生の欲動と混淆された mélanges avec des puIsions de vie」、「エロスと結ばれること La combinaison avec Eros 」・「快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir」・「純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur」等の表現に注意しながら読もう。

『快原理の彼岸』で、フロイトは生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort、つまりエロスとタナトスの違いを明確化している。だがこの区別は、いま一つのより深い区別、つまり、死の欲動、あるいは破壊の欲動それ自体 les pulsions de mort ou de destruction elles-mêmesと、死の本能 l'instinct de mortとの違いを明確化することで、はじめて理解されるものである。

なぜなら、死の欲動と破壊の欲動 les pulsions de mort et de destructionは、まちがいなく無意識にそなわっている、というより与えられているのだが、きまって生の欲動 puIsions de vie と混淆された形としてなのだ mais toujours dans leurs mélanges avec des puIsions de vie。エロスと結ばれること La combinaison avec Eros は、タナトスの《現前化 présentation》の条件のようなものである。
従って破壊、破壊に含まれる否定性は、必然的に構築 construction もしくは快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir といったものとしてあらわれてしまう。無意識に「否 Non」(純粋否定 negation pure)は認められない、無意識にあっては両極が一体化しているからだとフロイトが主張しうるのは、そうして意味においてである。

ここで死の本能 Instinct de mort という言葉を使用したが、それが示すものは、反対に純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur なのである。ところでそれ自体としてのタナトスは、たとえ無意識の中にであれ、心的生活にそなわっていることはありえない。見事なテキスト textes admirables のなかでフロイトが述べているように、それは本源的に沈黙する essentiellement silencieux ものなのである。にもかかわらず、それを問題にしなければならない。後述するごとく、それは心的生活の基礎以上のものとして決定づけうるdéterminable ものだから。

すべてがそれに依存しているからには、問題にせざるをえないのだが、フロイトの確言によると、純理論的にか、あるいは神話的にしかそれを遂行する道をわれわれは持っていない。その指示にあたって、かかる超越論性transcendanceを人に理解させたり、「超越論的 transcendantal」原理を指示しうる唯一のものとして、本能という名 le nom d'instinct を使い続ける必要がわれわれにあるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』1967年)

A:ドゥルーズは、純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur を「死の本能 l'instinct de mort」と呼んでいる。

B:エロス欲動と混淆されたもの mélanges avec des puIsions de vie を「死の欲動 les pulsions de mort」(死の諸欲動)をと呼んでいる。

ーーここでのドゥルーズの「死の欲動 les pulsions de mort/死の本能 l'instinct de mort」区分を人が受けいれるかどうかは別にして、この「分割」の仕方・その概念化はあまりにも見事である。

Aが欲動解離、Bが欲動融合にかかわるのは明らかである。

もちろん、これはドゥルーズのみの手柄ではなく、彼の師ジャン・イポリット Jean HyppoliteによるラカンのセミネールⅠ(1954年)での発言を思いださなければならない。ラカンの『エクリ』にもイポリットの発言として《欲動解離 Trebentmischung は純粋状態への回帰 retour à l'état purの一種》とある(《la Trebentmischung qui est une sorte de retour à l'état pur》(E886))。

さてフロイト自身の記述を抜き出そう。

われわれは二種類の欲動が融合 Mischung するという考えを仮定したのであるが、もしそうであればーーしばしば完全にーーそれが分離 Entmischung するという可能性も避けられないことになる。性欲動のサディズム的成分のうちに、われわれは有効な欲動融合 Triebmischung の模範的な例をみるだろう。独立したサディズムは倒錯として、もちろん極限にまで達してはいないが、分離(脱融合 Entmischung)の典型である。(……)

リビドー退行 Libidoregression の本質、たとえば性器期からサディズム的肛門期への退行の本質は、欲動解離 Triebentmischung にあ(る)。(フロイト『自我とエス』1923年)

当時のドゥルーズはフロイトの『快原理の彼岸』をはじめとして『自我とエス』、『マゾヒズムの経済論的問題』等を実に徹底的に読み込んでいる。

とりわけドゥルーズはマゾッホ論を書くことにより、フロイトのマゾヒズム論の次の核心的な文をおどろくべき豊かさで消化して概念化している。それは現在にいたるまでの(ほとんどの)フロイト学者などまったく及びもつかない見事さである。

純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえないのだということである。この欲動融合(欲動混淆 Triebvermischung) は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱融合 Entmischung) することもありうる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

前後も含めて引用しよう。

(多細胞)生物のなかでリビドーは、そこでは支配的なものである死の欲動あるいは破壊欲動 Todes- oder Destruktionstrieb に出会う trifft。この欲動は、細胞体を崩壊させ、個々一切の有機体を無機的安定状態 Zustand der anorganischen Stabilität(たとえそれが単に相対的なものであるとしても)へ移行させようとする。リビドーはこの破壊欲動を無害なものにするという課題を持ち、そのため、この欲動の大部分を、ある特殊な器官系すなわち筋肉を用いてすぐさま外部に導き、外界の諸対象へと向かわせる。

これが、破壊欲動 Destruktionstrieb ・征服欲動 Bemächtigungstrieb ・権力への意志 Wille zur Macht と呼ばれるものである。この欲動の一部が直接性愛機能 Sexualfunktion に奉仕させられ、そこである重要な役割を演ずることになる。これが本来のサディズム eigentliche Sadismus である。死の欲動の別の一部は外部へと振り向けられることなく、有機体内部に残りとどまって、上記の随伴的性的興奮によってそこにリビドー的に拘束される libidinös gebunden(結び合わされる)。これが原初的な ursprünglichen、性愛的マゾヒズム Masochismus zu erkennenである。
このようなリビドーによる死の欲動の飼い馴らし Bändigung des Todestriebes durch die Libido がどのような道程を経て、どのような手段で遂行されるかを生理学的に理解することは、われわれには不可能である。精神分析学的思考圏内でわれわれが推定できるのは、両種の欲動がきわめて複雑な度合でまざりあい絡みあい、その結果われわれはそもそも純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえないのだということである。この欲動融合(欲動混淆 Triebvermischung) は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱融合 Entmischung) することもありうる。だが死の欲動 Todestriebe のうちどれほどの部分が、リビドーの付加物 libidinöse Zusätze への拘束(結び合わせ)による飼い馴らし Bändigung durch die Bindung を免れているかは、目下のところ推察できない。
もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に移され終わったのち、その残余として内部には本来の性愛的マゾヒズム erogene Masochismus が残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として自分自身を対象とする。

ゆえにこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化Legierung von Todestrieb und Eros が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうるのであって、このような方法で以前の状況へ退行する regrediert と聞かされても驚くには当たらない。これが起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus 、1924年、既存訳を適宜変更)

こうしてドゥルーズのプルースト論における三区分の意味合いが瞭然とする。

①共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)
②部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)
③強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)

②が欲動融合として現れる死の「欲動」であり、③が純粋状態のタナトスとしての死の「本能」である。①は概念的には純粋エロスとしてよいだろう。

だが実質上は、①の純粋エロス、③の純粋タナトスとはほとんどありえない。通常人はエロスとタナトスの混淆比が異なるだけの筈である。現在、一部のラカン派で言われている究極の自閉症者における中毒的享楽の反復症状とされるものが、ひょっとして③の純タナトスに近似するのかもしれないが、わたくしは「究極の自閉症」についてはまったく無知である。

さて上の三区分があらわれるドゥルーズのプルースト論の叙述を掲げよう。

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。

このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

それが失われた時のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時のばあいには共鳴 résonance による。失われた時のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第二版 1970年)

ここでドゥルーズは原抑圧としての純粋現前ということを言っているのを付記しておこう。これはもちろん純粋状態のタナトスにかかわる。現代主流ラカン派(ミレール派)もほぼ同様のことを言っている(「S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un」の末尾を見よ)。

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

この『差異と反復』では三区分はない。 だが上のエロス/タナトスの二区分は、

・エロス:「共鳴の機械(エロス)+部分対象の機械(欲動)」
・タナトス:「強制された運動の機械(タナトス)」

として捉えるべきである。この考え方を敷衍すれば、超越論的原理としてのタナトス(死の本能)を基盤としてーー、《死の欲動 Todestriebe(=ドゥルーズの概念分割による「死の本能」)は本質的に唖であり、生命の騒乱はもっぱらエロス Eros から発するという印象は避けがたい。》(『自我とエス』1923年)ーー、人間はいわば「死の欲動スペクトラム」(エロスとタナトスの欲動融合の各混淆比)の生を送っているという考え方がもたらされるうる。すくなくともわたくしは次のフロイト文に依拠してそのように考える。

生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為は、食物の取り入れ Einverleibung(エロス)という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすること(タナトス)である。性行為は、最も親密な結合 Vereinigung(エロス)という目的をもつ攻撃性 Aggression(タナトス)である。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという 二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力 Anziehung と斥力 Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

…………

以上、『アンチエディプス』以降のドゥルーズにはラカン派からの批判ーーとくにその《欲望する機械 machine désirante》概念をめぐってーーがないではないが、この1970年以前のドゥルーズのフロイト読解はあまりにも水際立っている、とわたくしは思う。

最後にもう一度フロイト最晩年の草稿(フロイトの死の枕元にあったとされる論)から引用しておこう。もはや注釈は繰り返すまい(参照)。

エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに「結び合わせ Bindung(拘束)」である。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を「解体 aufzulösen」 すること、そして物 Dingeを破壊 zerstören することである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ドゥルーズのエロスとタナトスの読解の見事さを証するするもうひとつの核心ーーわたくしが気づいた範囲でのーーは「引力と斥力」である。

《引力 attractionと斥力 répulsion》(ドゥルーズ『差異と反復』、1968年)
《引力 Anziehung と斥力 Abstossung 》(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

とはいえ基本的には上に記したこと(融合/解離)の範囲内の話である(参照:「引力と斥力」)。



2017年7月7日金曜日

引力と斥力

【引力と斥力】

エロスは己れ自身を循環 cycle として・循環の要素 élément d'un cycle として生きる。それに対立する要素は、記憶の底にあるタナトスでしかありえない。両者は、愛と憎悪、構築と破壊、引力 attractionと斥力 répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

まず厳密さを期さずに、このドゥルーズの文をラカンのセミネール19に現れる次の図をベースにしてパラフレーズしてみよう。



①semblant(見せかけ)とは、仮象の動作主 agent である(参照)。
②この仮象の主体の底にある真理 vérité とはタナトスである。
③仮象の主体は享楽(究極のエロス)に融合したい。
④だが、真理であるタナトスの斥力がその融合を邪魔する。
(そもそもラカンの主体の定義においては、完全な融合は「主体の死」である)。
⑤ゆえに享楽の残余(剰余享楽)が生まれる。
⑥こうして仮象の動作主は、上の図の動きを永続的に循環する。

今、「厳密さを期さずに」としたのは、ラカンがこの図において実際に示している享楽とは、異者としての身体(身体は大他者でありかつ異物である[参照])をめぐっており、つまり構造的に不快をもたらす身体としての享楽の根という意味での享楽であるから。つまりここでは拡大解釈している。

ただし現代ラカン派の注釈に依拠はしている。

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. (ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER

《話す身体 le corps parlant》(ラカン、1973)とは《欲動の現実界 le réel pulsionnel》(ラカン、1975)のことでもあるだろう。

ここでラカンの言説(社会的つながりlien social)理論における基本版の図を掲げておく。



Agentとは動作主(真理の代理人)であり、先に掲げた図の「見せかけ semblant」と等価である。そして、《見せかけ(仮象 Schein)でない言説はない D'un discours qui ne serait pas du semblant 》(ラカン、S19、4 Novembre 1971)

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

そもそも①の世界があるいは人間が「仮象=見せかけ」であるのは、ラカンやニーチェに依拠せずとも、すでにシェイクスピアが示している。

この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ(All the world's a stage, And all the men and women merely players.)。(シェイクスピア『お気に召すまま』1600年)

⑥の循環とは「漂流 dérive」のことである。

私は、欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S.20、08 Mai 1973)

⑤の剰余享楽とは「彷徨える過剰 L’excès errant」のことである。

彷徨える過剰は存在のリアルである。L’excès errant est le réel de l’être.(バディウ Cours d’Alain Badiou) [ 1987-1988 ]

享楽の漂流あるいは彷徨とは、死の漂流(彷徨)の相似形である。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の衝動(欲動 la pulsion de mort) …もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(S23 16 Mars 1976)


【融合と脱融合】

以下、フロイトの死の枕元にあったとされる『精神分析概説』草稿、死後出版1940年から抜き出す。わたくしの手許にこの論の邦訳はない。既存の訳がネット上で見出された箇所はそれを参照したが、基本的には私訳であり、主に英訳を参照している(独語にはとんと疎いが、いくらかの単語を付記している)。

エスの力能 (権力 Macht) は、個々の有機体的生の真の意図 Einzelwesens を表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。…
エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。
長いあいだの逡巡と揺れ動きの後、われわれは、ただ二つののみの基本欲動の存在を想定する決心をした。エロスと破壊欲動である。…

エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに「結び合わせること Bindung」である。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を「解体 aufzulösen」 すること、そして物 Dingeを破壊 zerstören することである。

破壊欲動の最終的な目標は、生きた物 das Lebende を無機的状態 anorganischen Zustand へ還元することだと想定しうる。この理由で、破壊欲動を死の欲動 Todestrieb とも呼ぶ。
生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為は、食物の取り入れ Einverleibung(エロス)という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすること(タナトス)である。性行為は、最も親密な結合 Vereinigung(エロス)という目的をもつ攻撃性 Aggression(タナトス)である。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという 二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力 Anziehung と斥力 Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

ーーまずフロイト最晩年の記述からも引力 Anziehung /斥力 Abstossung は、エロス/タナトスを示しているのがわかる。

さて今引用した後半箇所で、フロイトは「欲動融合(欲動混同・欲動混淆 Triebvermischung)」を語っているとしてよい。ここでその語が出現する『マゾヒズムの経済的問題』を引用しよう。

(多細胞)生物のなかでリビドーは、そこでは支配的なものである死の欲動あるいは破壊欲動 Todes- oder Destruktionstrieb に出会う trifft。この欲動は、細胞体を崩壊させ、個々一切の有機体を無機的安定状態 Zustand der anorganischen Stabilität(たとえそれが単に相対的なものであるとしても)へ移行させようとする。リビドーはこの破壊欲動を無害なものにするという課題を持ち、そのため、この欲動の大部分を、ある特殊な器官系すなわち筋肉を用いてすぐさま外部に導き、外界の諸対象へと向かわせる。

これが、破壊欲動 Destruktionstrieb ・征服欲動 Bemächtigungstrieb ・権力への意志 Wille zur Macht と呼ばれるものである。この欲動の一部が直接性愛機能 Sexualfunktion に奉仕させられ、そこである重要な役割を演ずることになる。これが本来のサディズム eigentliche Sadismus である。死の欲動の別の一部は外部へと振り向けられることなく、有機体内部に残りとどまって、上記の随伴的性的興奮によってそこにリビドー的に拘束される libidinös gebunden(結び合わされる)。これが原初的な ursprünglichen、性愛的マゾヒズム Masochismus zu erkennenである。

このようなリビドーによる死の欲動の飼い馴らし Bändigung des Todestriebes durch die Libido がどのような道程を経て、どのような手段で遂行されるかを生理学的に理解することは、われわれには不可能である。精神分析学的思考圏内でわれわれが推定できるのは、両種の欲動がきわめて複雑な度合でまざりあい絡みあい、その結果われわれはそもそも純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえないのだということである。この欲動融合(欲動混淆 Triebvermischung) は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱融合 Entmischung) することもありうる。だが死の欲動 Todestriebe のうちどれほどの部分が、リビドーの付加物 libidinöse Zusätze への拘束(結び合わせ)による飼い馴らし Bändigung durch die Bindung を免れているかは、目下のところ推察できない。

もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に移され終わったのち、その残余として内部には本来の性愛的マゾヒズム erogene Masochismus が残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として自分自身を対象とする。

ゆえにこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化Legierung von Todestrieb und Eros が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうるのであって、このような方法で以前の状況へ退行する regrediert と聞かされても驚くには当たらない。これが起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus 、1924年、既存訳を適宜変更、以下のフロイト文も同様)

「欲動融合(欲動混合・欲動混淆 Triebvermischung)」は、また Triebmischung という形でもフロイトの別の論文に出現する。"vermischung"と"mischung"はともに「融合(ミックス)」であり、フロイトの使用法においては、ほぼ等価であろう。

この「欲動融合Triebmischung」に対して「欲動解離(欲動分離・欲動脱融合Triebentmischung)」という語彙が現れる、上のマゾヒズム論の前年の論文(『自我とエス』)から抜き出す。

われわれは二種類の欲動が融合 Mischung するという考えを仮定したのであるが、もしそうであればーーしばしば完全にーーそれが分離 Entmischung するという可能性も避けられないことになる。性欲動のサディズム的成分のうちに、われわれは有効な欲動融合 Triebmischung の模範的な例をみるだろう。独立したサディズムは倒錯として、もちろん極限にまで達してはいないが、分離(脱融合 Entmischung)の典型である。

またこのようにして、まだこの視点からは観察されることがなかったひろい領域にわたる諸事実にたいする一つの眺望がひらけてくる。つまり破壊欲動はきまって放出の目的のためにエロスに奉仕していることを、われわれは知っている。また癲癇発作は欲動解離(欲動脱融合 Triebentmischung) の産物であり、その徴候であることを推測している。そして、たとえば、強迫神経症のような多くの重症な神経症の症状の中で、欲動解離 Triebentmischungと死の欲動 Todestriebes の発現が特別の評価に値することを理解することができた。

これらを性急に一般化してみると、リビドー退行 Libidoregression の本質、たとえば性器期からサディズム的肛門期への退行の本質は、欲動解離 Triebentmischung にあり、これに反して、初期の段階から決定的な性器期への進歩はエロス的成分 erotischen Komponenten が加わるという条件があることを推測することができよう。また神経症の構成的素質の中ではしばしば強化されている正規のアンビヴァレンツを、分解の結果として理解することができるかどうかという問題もここから生まれてくる。しかし、このアンビヴァレンツは非常に根源的なもので、むしろ、不完全な欲動融合 Triebmischung と考えねばならないだろう。(フロイト『自我とエス』1923年)

こうやってみてくると、「引力 Anziehung /斥力 Abstossung(エロス/タナトス)」とは、まずなによりも欲動の「融合 Mischung(ミックス) /脱融合 Entmischung (脱ミックス)」にかかわることがわかる。『精神分析概説』から再掲すれば、《エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに「結び合わせること Bindung(拘束)」である。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を「解体 aufzulösen」 すること、そして物 Dingeを破壊 zerstören することである》(フロイト、1940年)である。

かつまた「拘束化/非拘束化」のことでもある。この二つの語彙はまず『心理学草稿』1895年にあらわれ、その後、フロイトは終生使い続けている。

心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動蠢き anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

あるいは《拘束された gebundenen/拘束されない ungebundenen 興奮過程Erregungsvorgängen》(同、快原理、最終章)等。

「拘束 Bindung」とは、本来はやや誤解を招きやすい訳語なのかもしれない。この語の意味は、簡潔にいってしまえば現実界的なものを象徴界的なものに結びつけること、その典型が語表象Wortvorstellung (シニフィアン)に「結びつける」ことである(参照)。

そもそもラカンの言説理論自体、社会的「拘束 Bindung=結びつけ」理論ではなかろうか?

言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的紐帯(社会的つながり lien social)の機能を作り上げるものである。

Le discours c'est quoi? C'est ce qui, dans l'ordre ... dans l'ordonnance de ce qui peut se produire par l'existence du langage, fait fonction de lien social. (Lacan, ミラノ、1972)

すくなくとも「社会的つながり lien social」とは社会的拘束(結びつけ Bindung)のことである。

ここでフロイトのマゾヒズム論に《拘束(結び合わせ)による飼い馴らし Bändigung durch die Bindung》という表現があったことを注意しておこう。

「飼い馴らす bändigen」とは 「野獣を調教する」という意味があるようだ。 とすれば《原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich》(フロイト、1937)の家畜化である。

フロイトが《原始時代(の) Urzeit wirklich》、あるいは「太古の archaischen」というときは、欲動にかかわるエスのことである。

「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただ エス Es のことを考えているのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

だが原始時代のドラゴンの家畜化は容易ではない。ゆえに(人によって)ときおりにか常にかは別にして、野獣は回帰する。

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)

この回帰とはフロイトが《残存現象 Resterscheinungen》と呼んだものにかかわる(参照:残存現象と固着)。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


【ニーチェにおけるエスと享楽】

さて次はニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」--いわゆる『ツァラトゥストラ』全体のグランフィナーレーーからである。

静かに! 静かに! いまさまざまのことが聞えてくる、昼には声となることを許されないさまざまのことが。いま、大気は冷えおまえたちの心の騒ぎもすっかり静まったいまーー
Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, –

ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、ああ、ああ、なんという吐息をもたらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

– nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

ーーおまえには聞えぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかいるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが? おお、人間よ、心して聞け!

– hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu dir redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht!
おお、人間よ、心して聞け!
深い真夜中は何を語る?
「わたしは眠った、わたしは眠ったーー、
深い夢からわたしは目ざめた。--
世界は深い、
昼が考えたより深い。
世界の痛みは深いーー、
享楽 Lustーーそれは心の悩みよりもいっそう深い。
痛みは言う、去れ、と。
しかし、すべての享楽 Lust は永遠を欲するーー
ーー深い、深い永遠を欲する!

Oh Mensch! Gieb Acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
»Ich schlief, ich schlief –,
»Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –
»Die Welt ist tief,
»Und tiefer als der Tag gedacht.
»Tief ist ihr Weh –,
»Lust – tiefer noch als Herzeleid:
»Weh spricht: Vergeh!
»Doch alle Lust will Ewigkeit
»will tiefe, tiefe Ewigkeit!«

ーー手塚富雄訳だが、「それ es」を「エス」、「悦び lust」を「享楽」に変更した。

ニーチェにおいて、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エス Es がいつも使われている。(フロイト『自我とエス』1923年)

ニーチェの「悦び(享楽 Lust)」とは、フロイトの《苦痛のなかの快 Schmerzlust》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)とほとんど等価である。

享楽が欲しないものがあろうか。享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が享楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(同、酔歌)


【永遠回帰と反復強迫】

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

《常に回帰する immer wiederkommt》とは、フロイトにとっては《反復強迫 Wiederholungszwang》あるいは《運命強迫 Schicksalszwang 》のことである(参照)。

そしてラカンにとっては《享楽回帰 un retour de la jouissance》 のことである。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

最後にフロイトのマゾヒズム論に《破壊欲動 Destruktionstrieb ・征服欲動 Bemächtigungstrieb ・権力への意志 Wille zur Macht 》とあったことをもう一度想い起しておこう。

権力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance 以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

クロソウスキーにとって情動は、欲動(衝動)のことである。

権力への意志が原始的な情動 Affekte 形式であり、その他の情動 Affekte は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

『ニーチェと悪の循環』の英訳者 Daniel W. Smith による序文の簡明な記述を抜き出しておこう。

Impulsion(衝動) は、仏語の pulsion(欲動) に関係している。pulsion はフロイト用語の Triebeを翻訳したものである。だがクロソフスキーは、滅多にこの pulsion を使用しない。ニーチェ自身は、クロソフスキーが衝動という語で要約するものについて多様な語彙を使用しているーー、Triebe 欲動、Begierden 欲望、Instinke 本能、Machte 力・力能・権力、Krafte 勢力、Reixe, Impulse 衝迫・衝動、Leidenschaften 情熱、Gefiilen 感情、Afekte 情動、Pathos パトス等々。クロソフスキーにとって本質的な点は、これらの用語は、絶え間ない波動としての、魂の強度intensité 的状態を示していることである。(PIERRE KLOSSOWSKI,Nietzsche and the Vicious Circle Translated by Daniel W. Smith)