なぜ赤でヒトの脳は賦活されるのであろうか。つまり乱れるのであろうか。
実は、すべての人間が脳波異常の形で賦活されるのではない。私が高橋式賦活装置の検査を受けた時には、脳波異常は起らなかった代わりに、赤色で脈が速くなり、胸骨の後ろが苦しくなって、そのままだと狭心症から心筋梗塞まで起こしかねなかった。青色にかえると、苦痛は嘘のように去った。
つまり、人間には脳が乱れる代わりに、身体が乱れる私のような者もいる。私は心身症型、つまり脳への刺激が身体反応を起こすタイプなのだ。(中井久夫「赤と青と緑とヒト」初出1997年『アリアドネからの糸』所収)
ーーこの文の前後の文脈は「赤と青と緑とゴダール」を見よ。
ここでは「心身症型」だけに注目する。
人間には、すくない割合で存在する心身症型とそうでない標準型がある。前者がすくない割合だといっても、たぶん多くのヒトにおいてこの「心身症」はスペクトラム的に分布している筈。
人間には、すくない割合で存在する心身症型とそうでない標準型がある。前者がすくない割合だといっても、たぶん多くのヒトにおいてこの「心身症」はスペクトラム的に分布している筈。
中井久夫は「心身症」と記しているが、これはフロイト用語なら、現勢神経症型ということである。
現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核Kernであり、先駆け Vorstufe である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー Konversionshysterie」として知られる転移神経症 Übertragungsneurose、不安神経症 Angstneurose と不安ヒステリー Angsthysterie とのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の障害形式のあいだにもある。(フロイト『精神分析入門』第24章、1917年)
中井久夫がこの現勢神経症(現実神経症)概念を、阪神大震災被災後に前面に出してトラウマ研究に深く従事したのは、ある意味、被災地責任者・被災当事者というだけではない「個人的な」理由があると考えうる。つまりは外傷的な現勢神経症を標準的な他者よりもいっそう感受しやすい資質をもった精神科医である。
戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害でもあった。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
現勢神経症型/精神神経症型とは、原抑圧型/抑圧型ということである。
原抑圧 Verdrängungen は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。(……)
現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。(……)
外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
フロイトはこうも言っている。
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)
ようするに精神神経症とは現勢神経症の上覆いであって、精神神経症の人も必ず現勢神経症をその底にもっている。このふたつがすべての人間の症状である。ラカン派の基本テーゼに「症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme」(参照)というものがあるが、これは原症状が人には必ずあり、そしてそれに対する防衛としての症状があるという意味である。フロイト用語なら現勢神経症に対する防衛としての精神神経症。
これは別の言い方をすれば、エディプス期以後の主体と前エディプス的主体における症状と(厳密さを期さなければ)ほぼ言いうる。
精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。
この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996『アリアドネからの糸』所収)
人は言語を使って生きているのだから、基本的にはみな精神神経症である。だが心的な精神神経症の核には必ず身体的な現勢神経症がある。フロイトはその身体的核を覆うものを「心的被覆 psychischen Umkleidungen」と呼んでいる(ラカンなら「形式的封筒 enveloppe formelle」)。この覆いの厚い薄いの差が人にはある。
フロイト・ラカン派の定義では、心的装置に同化されないものをトラウマ的な核と呼ぶが、これが今記した「身体的な核」の意味である。
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
・フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。
・サントーム(原症状)は現実界であり、かつ現実界の反復である Le sinthome, c'est le réel et sa répétition》 (ミレール MILLER、L'Être et l'Un, 2011))
精神科医であるなら、本来、この身体的核(原症状)を覆う「心的被覆」が薄いほうがーー「感度が高い」という意味でーー好ましい筈である。もっともそのせいで「苦手な患者」が生じるということもある。
私たち治療者も、私たちが治療者になった動機の中に外傷性の因子があって、それが治療の盲点を創り、あるいは逆転移性行動化に導いていないかどうか、吟味してみる必要があるだろう。男女を問わず成人になる過程で、あるいは成人以後に外傷を負わない人間はあっても少ない。直感的に「苦手な患者」が自己の外傷と関係している場合もある(たとえば私の戦時下幼少時の飢餓体験とそれをめぐる人間的相克体験は神経性食欲不振者の治療を困難にしてきた)。逆に「特別の治療に値する患者」と思い込む危険な場合もある。いずれも、治療者を引き受けないことが望ましく、外的事情でやむをえず引き受ける際には、スーパーヴァイザーあるいはバディ(秘密を守ってくれる相互打ち明け手)を用意するべきである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
精神神経症/現勢神経症、あるいは原抑圧型/抑圧型とは、ラカン用語なら、ファルス享楽/他の享楽(ファルスの彼岸にある「身体の享楽」)にほぼ等しい。
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(=身体の享楽・女性の享楽[参照]) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
ーー現勢神経症と身体の享楽との関係についてのいくらかの詳細は「女性の享楽とトラウマ神経症」を見よ。
たとえばフロイトよりのラカン派文脈では次のように注釈されている。
フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動(身体的なもの)、他方はプシュケー(心的なもの)である。ラカン用語なら、現実界と象徴界である。…
享楽の現実界は症状の地階あるいは根であり、象徴界は上部構造である。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, 2002)
つまり現勢神経症型とは、ラカン用語ならサントーム症型ということでもある。もっともサントームには二種類の意味があるが(参照)。
以下、いくらかの基本資料を列挙しておこう。
以下、いくらかの基本資料を列挙しておこう。
◼️治癒不能のサントーム=原抑圧
四番目の用語(サントーム=原症状)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
◼️治癒不能の不安神経症(初期フロイトの外傷神経症≒現勢神経症の原モデル)
不安神経症 Angstneuroseにおける情動 Affekt は…抑圧された表象に由来しておらず、心理学的分析 psychologischer Analyse においてはそれ以上には還元不能 nicht weiter reduzierbarであり、精神療法 Psychotherapie では対抗不能 nicht anfechtbarである。 (フロイト『ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について』1894年)
■治癒不能の外傷神経症
私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)