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2019年4月13日土曜日

原抑圧の忘却

フロイト以降、原抑圧概念は全く忘れられるつつある。証拠として、Grinsteinを見るだけで十分である。Grinstein、すなわちインターネット出現以前の主要精神分析参考文献一覧である。96,000項目の内にわずか4項目しか、「原抑圧」への参照がない…この驚くべき過少さを説明するのは、とても簡単である。原抑圧概念は、ポストフロイト時代の理論にはまったく合致しないのである。彼らが参照しているのは、1910年前後以前のフロイトに過ぎない。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, DOES THE WOMAN EXIST?、 1999)

原抑圧の忘却という意味は、ポストフロイト時代の精神医学界では次の図の右項が蔑ろにされてきたということである。


まずいくらかの語彙説明である。上部のフロイト用語については次の通り。

フロイトは、「システム無意識 System Ubw あるいは原抑圧 Urverdrängung」と「力動的無意識 Dynamik Ubw あるいは抑圧された無意識 verdrängtes Unbewußt」を区別した(『無意識』1915年)。

システム無意識 System Ubw は、欲動の核の身体の上への刻印(リビドー固着Libidofixierungen)であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、原初の過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識 Dynamik Ubw は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的加工を表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれを「無意識の後裔 Abkömmling des Unbewussten」(同上、1915)と呼んだ。この「無意識の後裔」における基盤となる無意識 Unbewusstenは、システム無意識 System Ubwを表す。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics、2004年)


上部の「言語のように構造化された無意識/言語のように構造化されていない無意識」とは、後期ラカンがララング(母の言葉)を語りだした以降の、つまり70歳をすぎた後期ラカンにおける対立軸であって、いまだ前期ラカンの「言語のように構造化された無意識」が通念になってしまっている。

たとえばエクリまでの知しかないないだろう中井久夫が、こういうのもある意味やむえない。

ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

ダイタイ70歳すぎまでなにを寝惚けてたんだろ? たぶん1963年の破門のせいで、中期ラカンというトンデモ期(論理期)に耽溺してしまった不幸がラカンにはある。


上の図の下部に示されたいくつかの用語、「言存在 parlêtre」「サントーム」は次の文にある。

・ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…

・言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 ⋯analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。

・言存在 parlêtre のサントーム(原症状・固着)は、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。((ジャック=アラン・ミレール、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER、2014)

上の図の下段は、ジャック=アラン・ミレール が2005年のセミネール冒頭で示した図からエキス語彙を抜き出したものだが、左項に欠如とあり右項に穴とある。これは重要なのでいくらか記しておかなくてはならない。

欠如は、ファルス秩序内、言語秩序内、象徴秩序内における症状にかかわる。他方、穴とはトラウマ、現実界、原抑圧、欲動等の意味をもち、言語外、象徴界外の原症状にかかわる。

「穴ウマ=トラウマ(troumatisme )(ラカン、S21、19 Février 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(S23, 09 Décembre 1975)
・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
身体は穴である。corps…C'est un trou(ラカン、ニース会議、1974)
穴を作るものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)


見ての通り、晩年のラカンは穴の思想家、原抑圧の思想家なのである。おそらくほとんどの男性諸君と同様に(?)。だがここまで連発するのは、ひどく正直でよろしい。まことに愛すべきである。

フロイトの原抑圧の定義はなによりもまず「引力」である。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)

そしてエロスの定義も「引力」である(「エロス/タナトス=引力/斥力 Anziehung und Abstossung 」フロイト1940年)。ああ、あの穴の引力! ああ、あのブラックホール! おわかりだろうか、パックリやられるのを避けようする力がタナトスなのであり、むしろエロスこそパックリ死に向かう運動なのである。これが1937年のフロイトの定義「エロス/タナトス」=「融合/分離」の真の意味である。

生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod. (フロイト『快原理の彼岸』第5章)

この理解も日本フロイト社交界ではほとんど全滅である。たぶん日本ラカン社交界の連中の享楽の理解も全滅であろう・・・

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

だがこれを外して後期ラカンはない。エロスあるいは享楽とは死である!究極の享楽という死が怖いから剰余享楽あるいは欲動混淆などというケッタイなものがあるだけである。

中井久夫=安永浩のファントム空間図を使ってしめせば次の通り。


享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen,(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

そもそも穴の忘却つまり原抑圧の忘却がなされた精神分析界とは、人は即座にサヨナラしなくてはならない。いまでも大半のフロイト学者はそうであるのだが、あまりにもはしたない「抑圧」である。蚊居肢子は連中の臭いがするとすぐまさ「殺意」がわくのである。

さらにいまどきラカン派で欠如などと言っている連中も知的抹殺されなければならない。こういった連中には欲望という語彙しかないのである。身体の欲動にはトンチンカンなあれらうわっ滑りラカン派たち。肝腎なのは欠如ではない、アレは欠如の欠如、つまり穴に決まっている。


欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。(Lacan、AE573、1976)
不気味なもの Unheimlich とは、…欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre l962)
玄牝乃門 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

そもそも誰がアレを欠如などと言いうるだろう?

女は何も欠けていない La femme ne manque de rien(ラカン、S10、 13 Mars l963)


(これ以上書くとマガオでとる人がいるのを怖れるのでいくらか飛躍させてもらうが、と記しておこう。最近しばしば「隔離」というマークがついたいくつかの大学のリンクがなされるんだが、あれなんだろ?)

さてこの穴による原症状はサントームとも呼ばれ、人に反復強迫をもたらす。

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


上に示した図に戻れば、左項はフロイトの「自由連想」が分析治療において機能する項であり、右項は自由連想は機能しない。ラカンの「幻想の横断」分析治療も同様である。

先端のラカン派ではすでに幻想の横断は否定されつつある。

身体の享楽(リビドー固着)は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係をもつ。しかし結局、享楽は自閉症的である。Pierre-Gillesは、ラカンの重要な臨床転回点について、我々に告げている、分析家は根本幻想を解釈すべきでない。それは分析主体(患者)を幻想に付着したままにするように唆かす、と。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen、2013)
ラカンは幻想を、欲動を主体に統合し和解させる典型的な神経症的戦略として概念化した。ラカン的観点からは、この戦略は錯覚的 illusory であり、主体を反復循環へと投げ入れる。1960年代のラカンは、精神分析治療の目標を「幻想の横断 la traversée du fantasme」と考えた。これは、主体が幻想のシナリオを何度も何度も反復する強迫的流儀は、乗り越えるべき何ものかであるという意味である。…

しかしながら1970年代以降の後期理論で、ラカンは結論づける、そのような「横断」は、治療がシニフィアンを通してなされる限り、不可能であると。…

こうしてラカンは、彼が「サントーム」と呼ぶものの構築を提唱する。それは純粋に個人的な方法、ーー執着する欲動衝迫と同時に他者の優越をを巡っている現実界・想像界・象徴界を取り扱う純単独的な方法である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass、2009、Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe)

ではどんな分析治療がなされるべきなのか。簡潔に言えば、リビドー固着という裸の原症状の上に別の症状を発明する手助けすること、これがサントームの治療である(参照:二種類のサントーム)。手短かに言えば、穴の穴埋めのお手伝いをすることである。


わたくしの知る限りでのラカンの最後の享楽の定義は、去勢である。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。(ラカン Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

そしてこれは享楽は穴があいているということである。

(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)

人は穴埋めをしなければならない。シャンペンのコルク栓を開けている暇はないのである。ただし穴はコルク栓程度では埋まらないから厄介ではある。いくら穴ウマ、つまり僥倖を期待してもシャンペンの泡はすぐこぼれてしまうのはよく知られている。谷間の神霊は不滅なのである。ーー谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章「玄牝之門」)


ラカンは晩年次のように言うようになった。

分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.(Lacan, “Conférences aux USA, 1976)

中井久夫はもとから最晩年のラカンの認識を持っていた精神科医である。

一般に症状とは無理にひっぺがすものではないように思う。(中井久夫「症状というもの」1996年)

そもそも中期ラカンの「幻想の横断 traversée du fantasme」(主体の解任 destitution subjective)治療とは、最悪の治療法だった可能性だってある。

あの分析治療を、とくに堅物の分析家がやると、ひたすら自己満足的分析に耽溺させ、分析中毒症状を「治療者自身」に与えてしまうという事例が日本ラカン派のなかにもあるのを憶測できないわけではない・・・(いやあマジでこっそり忠告しておくよ、そこのアナタガタに)

真理は女である die wahrheit ein weib 、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886年)