ドゥルーズは『マゾッホとサド』の最終章でこう書いている。
ラカンにも『ダニエル・ラガーシュの報告「精神分析と人格の構造」についての考察』(1961年)という論文がエクリのなかにあって、ラガーシュはラカンの朋友の一人だが、相互主観性を想像的な分身とみなすラガーシュに対して、ラカンは大他者を強調して、いささかの批判をしている。
ダニエル・ラガーシュは、最近、自我/超自我のかかる分裂の可能性を強調したことがある。つまり彼は、ナルシシズム的自我=理想自我 moi narcissique - moi idéalという体系と、超自我=自我理想 surmoi - idéal du moi という体系とを識別し、事と次第によっては対立させてさえいるのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』第11章「サディズムの超自我とマゾヒズムの自我 Surmoi sadique et moi masochiste」1967年)
ラカンにも『ダニエル・ラガーシュの報告「精神分析と人格の構造」についての考察』(1961年)という論文がエクリのなかにあって、ラガーシュはラカンの朋友の一人だが、相互主観性を想像的な分身とみなすラガーシュに対して、ラカンは大他者を強調して、いささかの批判をしている。
冒頭の引用文にある「ナルシシズム的自我=理想自我 moi narcissique - moi idéalという体系」はまだしも、「超自我=自我理想 surmoi - idéal du moi という体系」とするのは、現在からみれば明らかな誤謬である。
ドゥルーズ自身、超自我と自我理想の区別ができていないように思える。だがこの二つは全く異なるものである。
我々は象徴的同一化におけるI(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、自我理想 idéal du moi は主体と大他者とに関係において本質的に平和をもたらす機能 fonction essentiellement pacifiante がある。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 fonction beaucoup plus inquiétante、全く平和的でない機能pas du tout pacifiqueがある。そしておそらくこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique , séminaire2 - 27/11/96)
超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)
制度的な父の名あるいは自我理想の背後には、母なる超自我があるのである。
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez)
《超自我=自我理想 surmoi-idéal du moi》としてしまえば、エディプスの法の解釈もピントのはずれたものにならざるをえない。すなわちエディプスの背後(アンチエディプス)には自由があるなどという「こよなき不幸な誤読」が生まれる。
マゾッホ論においては「理想自我 moi idéal」が、超自我から独立したものなどと言ってしまっている。
否認は超自我を忌避し、純粋で、自律的で、超自我から独立した「理想自我」を生む権利を母に委託する。La dénégation récuse le surmoi et confère à la mère le pouvoir de faire naître un moi idéal, pur/autonome/indépendant du surmoi. (ドゥルーズ『マゾッホとサド』第11章「サディズムの超自我とマゾヒズムの自我 Surmoi sadique et moi masochiste」1967年)
ーーこんなことはフロイト理論上、まったくありえない→「理想自我と自我理想と超自我」文献。
原超自我は「欲動の超自我化 surmoïsation de la pulsion」の機能があり、本能の壊れた動物、身体から湧き起こる内的カオスを抱えた人間が、この超自我から独立するなどということはありえない。
あるいはこうもある。
マゾヒズムの場合、法のすべては母へ投入される。そして母は象徴的空間から父を排除してしまう。Dans le cas du masochisme, toute la loi est reportée sur la mère : la mère expulse le père de la sphère symbolique. (ドゥルーズ 『マゾッホとサド』第7章「法、ユーモア、アイロニー La loi, l'humour et l'ironie」1967年)
ドゥルーズ にとってはこの「母の法」は肯定的に扱われる。すくなくともエディプスに対する宙吊り機能として。たしかにその相はあるがそれだけではまったくない。
マゾッホ論には「制度的 institutionnel サド/契約的 contractuel マゾ」、「サディズムにおける超自我と同一化 Surmoi et identification/マゾヒズムにおける自我と理想化 Moi et idéalisation」「サドの量的繰り返し Réitération quantitative/マゾの質的な宙吊り Suspens qualitatif 」等とある。
だが父の法の背後には、「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」(ラカン、S7)である母の法、母なる超自我がある。
ドゥルーズの思考にはこの視点がまったく欠けているのは、もう半世紀前のこととはいえ、フロイト・ラカン理論観点からいえば大きな欠陥である。
この母の法、母なる超自我が、われわれに自己破壊的な享楽への命令するのである。
この母なる超自我を飼い馴らす機能が父の名にはある。1959年以降のラカンにとってはあくまで「見せかけ semblant」としての父の名だが。
そして1959年4月8日以降のラカンがある。
これ以降、父の名は父の諸名になり、見せかけ(仮象)となるが、見せかけであっても父の名の機能はかならず必要なのである。
では S(Ⱥ) を飼い馴らすためにどうしたらいいのか。それは、後期ラカンの二種類あるサントーム概念の意味のうちの一つにかかわる(参照)。
この意味におけるサントームとはS(Ⱥ)ーートラウマの名であり、かつ母なる超自我ーーの上に新しい症状をつくるということである。
※参照:母の名 Le Nom de Mère
だが父の法の背後には、「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」(ラカン、S7)である母の法、母なる超自我がある。
ドゥルーズの思考にはこの視点がまったく欠けているのは、もう半世紀前のこととはいえ、フロイト・ラカン理論観点からいえば大きな欠陥である。
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan, S5, 22 Janvier 1958)
この母の法、母なる超自我が、われわれに自己破壊的な享楽への命令するのである。
超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン、S20、21 Novembre 1972)
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
この母なる超自我を飼い馴らす機能が父の名にはある。1959年以降のラカンにとってはあくまで「見せかけ semblant」としての父の名だが。
最初期のラカンはこうだった。
たとえば、ラカンは言うことができた、私は引用しよう、彼はその出発点でこう言った、ローマ講演にてだ。すなわち、「父の名は…象徴機能の基礎である le Nom-du-Père était le support de la fonction symbolique」E278と。象徴秩序のすべては父の名を持つl'ordre du symbolique avait le Nom-du-Père 、その支えとしてcomme support、法を具現化する形象の父 le père incarnant la figure de la loiとして。
しかしこれは出発点だ。この後、ラカンの教えの全体は別の方向にむかう。もし、ラカンの教えにサンス(意味=方向)があるなら、絶え間ない・方法論的な・休みない解体démantèlement である。そう、象徴秩序の欺瞞的調和pseudo-harmonie de l'ordre symboliqueの解体だ。ラカンは、父の名の機能を讃え、それに十全の輝きを与えたまさにこの理由で、彼はその後、ひどくラディカルに、父の名を問題視した。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)
そして1959年4月8日以降のラカンがある。
1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、「大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre」と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)
この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…
一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……
父の名は《シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)
……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)
これ以降、父の名は父の諸名になり、見せかけ(仮象)となるが、見せかけであっても父の名の機能はかならず必要なのである。
では S(Ⱥ) を飼い馴らすためにどうしたらいいのか。それは、後期ラカンの二種類あるサントーム概念の意味のうちの一つにかかわる(参照)。
倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
最後のラカンにおいて⋯父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、2013、L'Autre sans Autre)
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎない。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008)
この意味におけるサントームとはS(Ⱥ)ーートラウマの名であり、かつ母なる超自我ーーの上に新しい症状をつくるということである。
エディプス・コンプレックス自体、症状である。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、「症状のない主体はない」と。
これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(「父との同一化」)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを「症状との同一化(サントームとの同一化)」(そして、そこから自ら距離をとること)とした。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009)
※参照:母の名 Le Nom de Mère