女性独自のエクリチュール écriture proprement féminine について意見を求められたとき、ヴァージニア・ウルフは「女性としてen tant que femme」書くと考えただけで身の毛のよだつ思いだと答えている。それよりもむしろ、エクリチュールが女性への生成変化 devenir-femmeを産み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもった女性性の原子 atomes de féminité を産み出すことが必要なのだ。(ドゥルーズ &ガタリ『千のプラトー』)
男性/女性とは、言語による区分である。通常、人が「女性」という語を使うときは、イマジネールな領野にある。ようするに「女のイメージ」である。想像界(イマジネール)は定義上、象徴界によって常に既に構造化されている。したがって「イマジネールな女」として書くとは、ファルス秩序(言語秩序)に囚われたままの男性的エクリチュールである。
ラカン派においてはこれをファルス享楽と呼ぶ。
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(女性の享楽 jouissance féminine) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
他方、女性のエクリチュールとは身体のエクリチュールである。
例えば、中上健次のエクリチュールは、実に身体的であり、世界との受動的-女性的交感が際立って伝わってくる意味で、女性のエクリチュールと呼ばれることが多い。
トンネルを抜けるとすぐに川の蛇行にあわせてカーブがあった。川は光っていた。水の青が、岩場の多い山に植えられた木の暗い緑の中で、そこだけ生きて動いている証しのように秋幸には思えた。明るく青い水が自分のひらいていた二つの眼から血管に流れ込み、自分の体が明るく染まっていく気がした。そんな感じはよくあった。土方仕事をしている時はしょっちゅうだった。汗を流して掘り方をしながら秋幸は、自分が考えることも判断することもいらない力を入れて堀りすくう動く体になっているのを感じた。土の命じるままに従っているのだった。硬い土はそのように、柔かい土はそれに合うように。秋幸はその現場に染まっている。(中上健次『枯木灘』)
中上健次の美はこの「染まりやすさ」にある、というのはもはやクリシェかもしれないが、初期の作品からこの美があることは間違いない。《水の中にはいっていると、皮膚がなくなってしまい、体がとろけたようになってしまう》(『一番はじめの出来事』)、《ぼくは寝そべったまま、耳の穴に舌を入れてくすぐってくる海の波音を感じていた》(『眠りの日々』)。
中上健次は私の家に泊っていった時、ホモの家に来たみたいだな、と言ったものですが、私はといえば、彼を、まったくこれは中上のオバだ、と思いましたし、第一、彼の書く小説は、ある意味で女性的です――そして、それが秀れた小説の特徴なのです。(金井美恵子 『小説論』)
と記していて松浦寿輝の文を想い出したので、それをも掲げておこう。
たとえばブルターニュ地方への旅を回顧し、世界と素肌で触れ合い自然と一体化した悦びを語りながら、そのとき自分は海になり、空になり、岩になり、岩に滲み入る水になってしまったと述べる小説家フローベールは、カテゴリー的認識の崩壊を代償とすることで初めて得られるこうした無媒介的な官能の豊かさを文章行為の現場においても全面化させることで、あの尋常ならざるエクリチュールを実現しえたわけだ。『サランボー』や『ブーヴァールとペキュシェ』の作者は、言葉を主体的に操作し成型すること──すなわちあたかも粘土を捏ねて自分の好きな形を作 るように言葉を捏ね上げるといった「能動的」な作業など、うまくやりおおせた試しがない。 彼はむしろあたりに瀰漫し自分めがけて蝟集する言葉の群れに全身の皮膚をさらし、それにひたすら犯されつづける途を選んだのであり、作家としての彼の生涯は、言葉のなまなましい抵抗感に犯されることの苦痛が倒錯的な快楽に反転する瞬間を辛抱強く待ちつづけることに捧げられたと言ってよい。(松浦寿輝「死体と去勢──あるいは「他なる女」の表象」)
たとえばバタイユは言語によるカテゴリー化を嫌った。彼の名高い『不可能なもの』の最初の題名は『ポエジーへの憎悪 La Haine de la poésie 』である。多くの詩が、美文的な《美しいボエジーにすぎない》ものに陥ってしまっているという批判である。
わたくしはこの主張をニーチェの《美しいメロディ》批判とともに読むことを好む。
・芸術家はいまや俳優となり、その芸術はますます虚言の才能として発達してゆく。…芸術の俳優的もののうちへのこの総体的変化は、まさにまぎれもなく生理学的退化の一つの現われ(もっと精確には、ヒステリー症状の一形式)である。
・わが友らよ、私たちが理想に本気であるなら、私たちは誹謗しよう、私たちは旋律を誹謗しよう! 美しい旋律にもまして危険なものは何ひとつとしてない! それにもまして確実に趣味を台なしにするものは何ひとつとしてない! (ニーチェ『ヴァーグナーの場合』1888年のトリノ書簡)
さて話を戻して繰り返せば、「女性として書く」とは、基本的には男性的エクリチュールである。とくにイマジネールな愛の不毛性に陥ったとき、それが甚だしくなる。
女性たちのなかにも、ファルス的な意味においてのみ享楽する女たちがいる。このファルス享楽は、シニフィアンに、象徴界に結びつけられた享楽である。この場所におけるヒステリーの女性は、男に囚われたまま、男に同一化したままの(男へと疎外されたままの)女である。…
ファルスとしての女は、他者の欲望 désir de l'Autre へと女性の仮装 mascarade を提供する。女は欲望の対象の見せかけを装い fait semblant、そしてその場からファルスとして自らを差し出す。女は、自らが輝くために、このファルスという欲望の対象を体現化することを受け入れる。しかし彼女は、完全にはその場にいるわけでない。冷静な女なら、それをしっかりと確信している。すなわち、彼女は対象でないのを知っている elle sait qu'elle n'est pas l'objet。もっとも、彼女は自分が持っていないもの(ファルス)を与えることに戯れるかもしれない elle puisse jouer à donner ce qu'elle n'a pas。もし愛が介入するなら、いっそうそうである。というのは、彼女はそこで、罠にはまることを恐れずに、他者の欲望を惹き起こす存在であることを享楽しうる jouissant d'être la cause du désir de l'autre から。彼女の享楽が使い果たされないという条件のもとでだが。
彼女は、パートナーの幻想が彼女に要求する対象であることを見せかける。見せかけることとは、欲望の対象(想像的ファルス)であることに戯れることである。彼女はこの場に魅惑され、女性のポジション内部で、享楽する jouisse。しかし彼女は、この状況から抜け出さねばならない。というのは、彼女はいつまでも、見せかけの対象a(想像的ファルス)の化身ではありえないから。Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010)