2019年6月9日日曜日

女の海の永遠回帰

古代のほとんどあらゆる文明の起源には月女神があった。

月女神Kali Maの本質は「創造→維持→破壊」の周期を司る三相一体(trinity)にある。月は夜空にあって、「新月→満月→旧月」の周期を繰り返している。これが宇宙原理である。自然原理、女性原理も「創造→維持→破壊」の三相一体に従っている。母性とは「処女→母親→老婆」の周期を繰り返すエネルギー(シャクティ)である。この三相一体の母権制社会の宗教思想は、紀元前8000年から7000年に、広い地域で受容されていたのであり、それがこの世の運命であると認識していたのだ。

三相一体の「破壊」とは、Kali Maが「時」を支配する神で、一方で「時」は生命を与えながら、他方で「時」は生命を貪り食べ、死に至らしめる。ケルトではMorrigan,ギリシアではMoerae、北欧ではNorns、ローマではFate、Uni、Juno、エジプトではMutで、三相一体に対応する女神名を有していた。そして、この三相体の真中の「維持」を司る女神が、月母神、大地母神、そして母親である。どの地域でも母親を真中に位置づけ、「処女→母親→老婆」に対応する三相一体の女神を立てていた。(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」( 松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf


もうすこし誰もがわかるように実感的に言えば、次のアランの文がよい。

太陽のかちほころ七月のきょうこのごろ、わたしは、なぜ月がかくもながいあいだ専横にも君臨して来たのかを考えてみた。これはおそらく、太陽は見るものの眼をきずつけ、自己自身よりもむしろ他のものの姿をしめすものであるに反し、一方横柄な月は夜の世界に君臨して、自己自身しかしめさぬからである。かくして、月の相貌の規則正しい推移がつねに政治的謀慮や、期待や、危惧や、野心や、そうじて眠りをさまたげるものに結びつくようになったのだ。われわれの生存は、月の満ち欠けによりも、はるかにずっと太陽の運行に依存している。しかし、太陽の像はいわば分散的なものだ。光、熱、みどり、収穫、これらがみな太陽だ。これに反して、月はただひとり姿をみせ、いわば孤立している。ただ観ものたるにすぎぬものであり、潮の満干のわずかな海岸ではとくにそうである。一連の外観のほかはなにも告げないこのかがやかしい相貌にむかって、精神はといかける。月は中空に一種きわめて感動的な詩をえがき、そしてこれが想像の人たちを説得する。月はこうした人たちを他の浜辺、他の民衆たちにむすびつける。月はいろんな企図や欲望をいだかせる。それゆえにこそ、素朴かつ敬虔な心はなによりもまず、孤独の姿によって力づよく、なにの徴しとは分からぬながら強烈にもなにかの徴しである、この熱なき星をあがめることとなったのである。(アラン『プロポ集』「外的秩序と人間的秩序」より、杉本秀太郎他訳)


つまりは月の永遠回帰(新月→満月→旧月)であり、海の永遠回帰(潮の満干)である。人はみなこれを知っている。

もうひとつよく知っているのは、女の海の永遠回帰、つまり月経である。女たちのほうが男たちよりも月や海が似合うのは必然である。


男は知つている 
しやつきりのびた女の 
二本の脚の間で 
一つの花が 
はる 
なつ 
あき 
ふゆ 
それぞれの咲きようをするのを 
男は透視者のように 
それをズバリと云う 
女の脳天まで赤らむような 
つよい声で  

ーー滝口雅子「男について」より(『鋼鉄の足』1960年)


女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。

元来、女の身体は一つの使命しかない。受胎である。…

自然は種に関心があるだけだ。けっして個人ではない。この屈辱的な生物学的事実の相は、最も直接的に女たちによって経験される。ゆえに女たちにはおそらく、男たちよりもより多くのリアリズムと叡智がある。

女の身体は海である。月の満ち欠けに従う海である。女の脂肪組織[fatty tissues] は、緩慢で密やかに液体で満たされる。そして突然、ホルモンの高潮で洗われる。

…受胎は、女のセクシャリティにとって決定的特徴を示している。妊娠した女はみな、統御不能の冥界の力に支配された身体と自我を持っている。

望まれた受胎において、冥界の力は幸せな捧げ物である。だがレイプあるいは不慮による望まれない受胎においては、冥界の力は恐怖である。このような不幸な女たちは、自然という暗黒の奈落をじかに覗き込む。胎児は良性腫瘍である。生きるために盗む吸血鬼である。


…かつて月経は「呪い」と呼ばれた。エデンの園からの追放への参照として。女は、イヴの罪のために苦痛を負うように運命づけられていると。

ほとんどの初期文明は、宗教的タブーとして月経期の女たちを閉じ込めてきた。正統的ユダヤ教の女たちはいまだ、ミクワー[mikveh]、すなわち宗教的浄化風呂にて月経の不浄を自ら浄める。

女たちは、自然の基盤にある男においての不完全性の象徴的負荷を担っている。経血は斑、原罪の母斑である。超越的宗教が男から洗い浄めなければならぬ汚物である。この経血=汚染という等置は、たんに恐怖症的なものなのか? たんに女性嫌悪的なものなのか? あるいは経血とは、タブーとの結びつきを正当化する不気味な何ものかなのか?

私は考える。想像力ーー赤い洪水でありうる流れやまないものーーを騒がせるのは、経血自体ではないと。そうではなく血のなかの胚乳、子宮の切れ端し、女の海という胎盤の水母である。

これが、人がそこから生まれて来た冥界的母胎である。われわれは、生物学的起源の場処としてのあの粘液に対して進化論的嫌悪感がある。女の宿命とは、毎月、時間と存在の深淵に遭遇することである。深淵、それは女自身である。
……
女に対する(西欧の)歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。男性による女性嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性や論理は、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安から生まれたものである。……

西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)


女たちは男たちに比べて格段に体感しているはずである、あのエスの声(冥界の声)を。

君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理性 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen:(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)


「女の海の声」、これこそ「生の永遠回帰」の最も顕著な徴である。

何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。総体としてに真の生である das wahre Leben als das Gesamt。生殖を通した生 Fortleben durch die Zeugung、セクシャリティの神秘を通した durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit 生である。生殖による、性の密儀による総体的永生としての真の生である。das wahre Leben als das Gesamt. -Fortleben durch die Zeugung, durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit. (ニーチェ「私が古人に負うところのもの」4『偶像の黄昏』1889年)


別の言い方をすれば、「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい」である。

十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放 letzten Befreiung と非責任性Unverantwortlichkeit への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年)


この永遠の生の回帰こそ、フロイトにおける究極のエロスであり、ラカンの享楽である→「おまえたちはエロスについて何も知らない」。