2019年6月8日土曜日

真のフェチ作家ジャコメッティ

ジャコメッティは、まさに最後まで『ドキュマン』の記事を保持していた。それは、バタイユが1929年から1930年に出版したもので、ジャコメッティの作品に捧げられた最初の記事(ミシェル・レリスによる)が含まれている。(Christian Klemm, Alberto Giacometti, MOMA出版、2001)




私はジャコメッティの彫刻を愛している J'aime la sculpture de Giacometti…これらは真のフェティッシュ vrais fétichesである。つまりわれわれに似た、われわれの欲望の具象化された形態 forme objectivée de notre désir である。

…私に期待しないでほしい、この作品を疑問の余地なく彫刻と呼ぶことを。私は「さまよい DIVAGUERU」と呼ぶことを好む。なぜなら、これらの美しいオブジェクトを私は見つめて触ることができるから。そして私のなかにある多くの記憶の発酵 fermentationを揺り動かすのだ。…(ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929)

ーー《最初のフェティッシュの発生 Auftreten des Fetischの記憶の背後に、埋没し忘却された性発達の一時期が存在している。フェティッシュは、隠蔽記憶 Deckerinnerung のように、この時期の記憶を代表象し、したがってフェティッシュとは、この記憶の残滓と沈殿物 Rest und Niederschlag である。》(フロイト『性欲論』1905、1920年注)




(ミシェル・レリスにとって)フェティッシュは、光を発し熱のこもった対象あるいは瞬間だ。全体のコンテクストから逃げさるものでありながら、それにもかかわらず全体性の効果を生む。フェティッシュは外在的で、欲望の具象化された結晶である。遠くにありかつ奇跡的に近くにある何ものか、内部と外部のあいだにある裂け目を消し去る何ものかである。フェティッシュへの固着によって生み出されたエロス的な十全感は、しかしながら、性的経験に限らない。それは強度のリアリティ感を、最も共有的な知覚と遭遇をもたらしてくれる。(Clifford, "The Tropological Realism of Michel Leiris",1986)


ーー《親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S7、03 Février 1960)

ラカンの外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物(異者としての身体 corps étranger) のようなものである。…外密はフロイトの不気味なもの Unheimlich でもある。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)

この外密=フロイトのモノとは対象aの初期ヴァージョンであり--《対象a とは外密であるl'objet(a) est extime》(S16、 1969)ーー、後に示すが、「真の」フェティッシュと相同的である。





レリスは、このジャコメッティ小論の冒頭近くでこう書いている。

われわれ人間存在の基盤 base de notre existence humaineにあるフェティシズム fétichisme は、偽装されていない形態 forme non déguiséeとしての条件をめったに見出せない。…われわれは「変質されたフェティシズム fétichisme transposé」へのしがみつきに至っている。それは、われわれの最も深い動因にたいする貧しい見せかけsemblantに過ぎず、この「粗悪なフェティシズムmauvais fétichisme」は、われわれの活動の大いなる部分を占めている。実質的に「真のフェティシズム fétichisme véritable」にとっての余地はないのだ。…

芸術作品の領野において、われわれはこの「真のフェティシズムvrai fétichisme」の要求に相応しいどんなオブジェクト(絵画あるいは彫刻)もほとんど見出せない。「真のフェティシズム」とは、われわれ自身の愛(真に愛するもの réellement amoureux)、自己の内部から外部へと投射されたもの projeté du dedans au dehors だ。(ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929)

「変質されたフェティシズム fétichisme transposé」(「粗悪なフェティシズムmauvais fétichisme」)と「真のフェティシズム fétichisme véritable」が対比されて語られている。


フェティシズムとはもともと太古の呪物崇拝が起源である。わたくしは名高い芸術批評家としてのレリスをわずかばかりーーほとんど名だけーー知っているのみだったが、彼は文化人類学者でもあってこちらが本職だったようだ。彼は1934年に既に『L'Afrique fantome』を上梓している。





ここでは簡潔な記述のあるWIKIのフェティシズムの項から抜き出しておこう。

フェティシズムという言葉を使い始めたのはフランスの思想家ド・ブロス(Charles de Brosses)だといわれる。ド・ブロスは1760年に『フェティッシュ諸神の崇拝』(Du culte des dieux fetiches)を著した。ここで扱われているのはアフリカの住民の間で宗教的な崇拝の対象になっていた護符(フェティソ:Fetico)であった。これは呪物崇拝と呼ばれる。

心理学者のアルフレッド・ビネーが1887年の論文で肌着、靴など(本来、性的な対象でないもの)に性的魅力を感じることをフェティシズムと呼ぶよう提唱した。次いでクラフト=エビングが『性的精神病理』第4版(1889年)の中でフェティシズム概念を採用した。この著書はフェティシズム、同性愛、サディズム、マゾヒズムを主に論じたもので、世紀末によく読まれた本である。フロイトも性の逸脱現象としてこの用語を用いた。フロイトは足や髪、衣服などを性の対象とするフェティシズムは幼児期の体験に基づくものと考えた(『性の理論に関する三つの論文』1905年)。

このほか、カール・マルクスもド・ブロスを読み、ノートを取っていた。『経済学・哲学草稿』(1844年頃執筆、死後の1932年公刊)で資本主義経済批判を展開し、経済を円滑にする手段として生まれた貨幣自体が神の如く扱われ、人間関係を倒錯させていると述べた。また『資本論』第1巻(1867年)の「商品の物神的性格とその秘密」という章で、「商品」の持つフェティシズム(物神崇拝)を論じた。マルクスのフェティシズム論(物神崇拝論)は20世紀になって注目されるようになった。

ラカンはこのマルクスのフェティッシュを、対象a(剰余享楽)とした。

対象a、それはフェティシュfétiche とマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)

最も基本的な認識でありながら、いまだ充分には理解されていないことは、フェティッシュとは「欲望の条件」なのであり、欲望する主体はみなフェティシストであるということである。それはレリスが言う通り、《われわれ人間存在の基盤 base de notre existence humaineにあるフェティシズム fétichisme 》なのであり、1929年の段階でこう書き得たこと自体、こよなく貴重である。


現代ラカン派では、欲望の条件としてのフェティッシュにかかわる倒錯を《一般化倒錯》と呼ぶ。一般化倒錯とは、一般化妄想(《人はみな妄想するTout le monde est fou》(ラカン、1978))と構造的には等価の意味をもつ(参照)。



ーーヒトには耐え難い穴(トラウマ)があり、その穴を穴埋めするのが一般化妄想であり一般化倒錯である。


ここで何度か掲げている二種類の対象aの記述があるジャック=アラン・ミレールの注釈を掲げておこう。これが、レリスのいう「変質されたフェティシズム fétichisme transposé」(「粗悪なフェティシズムmauvais fétichisme」)/「真のフェティシズム fétichisme véritable」の二つのフェティシズムと「完全に合致する」とはわたくしは言わない。ただし限りない近似性をもっている。

ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。

ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。…

不安セミネールでは、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマagalma」である。…

前者の(倒錯者の)対象a(「欲望の原因」)は主体の側にある。…

後者の(神経症における)対象a(「欲望の対象」)は、大他者の側にある。神経症者は自らの幻想に忙しいのである。神経症者は幻想を意識している。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appâtである。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004年、摘要訳)

ようするにこうなる。



ラカン自身の発言をもつけ加えておこう。

フェティッシュ自体の対象の相が、「欲望の原因 cause du désir」として現れる。…
フェティッシュとは、ーー靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかはーー、欲望されるdésiré 対象ではない。…そうではなくフェティッシュは「欲望を引き起こす le fétiche cause le désir」対象である。…

フェティシストはみな知っている。フェティッシュは、「欲望が自らを支えるための条件 la condition dont se soutient le désir」だということを。(ラカン、S10、16 janvier 1963)
・神経症者は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって。défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche

・(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre 1962)


さらにミレールとジジェクの注釈を掲げよう。

対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche でもある。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993年)
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)
倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム sinthome(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)


ラカンは「黒いフェティッシュ」という表現も使っている。

享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir となる。(ラカン、E773、Kant avec Sade 1963年)
純粋対象、黒いフェティッシュpur objet, fétiche noir. (S10, 16 janvier 1963)


享楽ーーここでの享楽とは《傷ついた享楽 jouissance blessée》(ソレール、2011)のことであるーーの原象徴化の試みが「黒いフェティッシュ」である。それはまた、S(Ⱥ)=Σ(サントーム)とも記される(参照)。






究極の享楽とは生きる存在からは常に既に控除されている。これが、《傷ついた享楽 jouissance blessée》であり、《トラウマ化された享楽 jouissance traumatisée》(ミレール、2011)の意味である。それを取り戻すには母なる大地との融合しかない、つまり死しか。

ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin である⋯⋯。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)(フロイト『三つの小箱』1913年)

したがってラカンはこう言うのである。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

他方、最晩年のラカンが《享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 》( Lacan parle à Bruxelles、1977)というときは、傷ついた享楽のことを言っている。


そして上図に示したサントームΣ(享楽固着)=黒いフェティッシュをさらに隠蔽し覆うのが、囮としてのフェティッシュである。





ひょっとしてすべての芸術作品をこの観点から見うるかもしれない。ジジェクはこの見方から、あのベンヤミンのアウラまで批判している。

ベンヤミンは、対象を取りかこむアウラは、眼差しを送り返す合図だと注意を促した。彼が素朴にもつけ加えるのを忘れたのは、アウラの効果が起こるのは、この眼差しが覆われ、「上品化」されたときだということだ。この覆いが除かれれば、アウラは悪夢に変貌し、メドゥーサの眼差しとなる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)


ところで究極のメドゥーサとはなんだろうか。

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)


すくなくともある時期(1927-1934)のジャコメッティの作品はすべてこれをめぐっている、--などということはわたくしは口が裂けてもいわない・・・





ジャコメッティの「宙吊りになった玉 Boule suspendue」、…女の溝 creux fémininで刻まれたこの木製の玉は、クロワッサンの上にヴァイオリオンの細い弦で宙吊りになっている。三日月型の縁は空洞 cavité に触れかかっている。見る者は、本能的に強制されて隆起物の上の玉を滑らせる。しかし弦の長さは二物の間の接触を部分的にしか許さない。(サルバドール・ダリ Salvador Dalí, « Objets surréalistes », Le Surréalisme au service de la révolution, 1931)

ジャコメッティはこのダリとブルトンによる「宙吊りになった玉 Boule suspendue」絶賛により、ブルトングループに入った。だが1933年6月25日の父の死によるメランコリー、翌年1934年に具象芸術への復活の試みがあり、それをブルトンに咎められてブルトンからただちに去った。

だがブルトンは終生、1930年もしくは1931年に手に入れた 「宙吊りになった玉」を第二期シュルレアリスム運動の護符として書斎中央に飾って手放さなかったようだ。ここで第二期というのは、1929年に数多くのメンバーの離反がありーー専制君主的ブルトンに嫌気がさした離反とされるが、その一人はレリスであるーー、ブルトンは新しいメンバーを探し求めていたからである。





話を戻せば、たとえばバタイユが批判した《美しいポエジー》、ニーチェが排除しようとした《美しいメロディ》は、黒いフェティッシュの上覆いとしてのまがいものにすぎない。

バタイユの名高い『不可能なもの』の最初の題名は、『ポエジーへの憎悪 La Haine de la poésie 』である。彼は、多くの詩が美文的な《美しいポエジーにすぎない》ものに陥ってしまっているという批判をした。

この美しいポエジー批判に先だって、ニーチェによる《美しいメロディ》批判がある。

・芸術家はいまや俳優となり、その芸術はますます虚言の才能として発達してゆく。…芸術の俳優的もののうちへのこの総体的変化は、まさにまぎれもなく生理学的退化の一つの現われ(もっと精確には、ヒステリー症状の一形式)である。

・わが友らよ、私たちが理想に本気であるなら、私たちは誹謗しよう、私たちは旋律を誹謗しよう! 美しい旋律にもまして危険なものは何ひとつとしてない! それにもまして確実に趣味を台なしにするものは何ひとつとしてない! (ニーチェ『ヴァーグナーの場合』1888年のトリノ書簡)


もっとも人生を楽しくすごすためには囮、すなわち「まがいもの」のほうが好ましいという立場をとる人たちをバカにするつもりはない。ときには慰安も必要なのである。

そしてここで最も重要なのは、黒いフェティッシュとは個人的なものなのである。それは、ラカンのいう《身体の出来事 un événement de corps》、バルトのいう《身体の記憶 la mémoire du corps》の審級にあり、つまりは個人の発達史における「身体の上への刻印」にかかわる。人はみなこの個人的な出来事あるいは記憶を共有しているわけではけっしてない。ある人がある作品に黒いフェティッシュを見出し惚れ込んでも、別の人はそうでない。ようするに普遍的な黒いフェティッシュはない。だから他人の愛を安易にバカにしてはならないのである。わたくしは時にこれをやってしまうことがあるが、ようするにそれが言わんとしていることは、《私の身体はあなたの身体と同一ではない mon corps n'est pas le même que le vôtre》。(『彼自身によるロラン・バルト』)である。


とはいえ、まとまった芸術批評において、形式的分析ばかりやって、この個人的な身体の出来事のレベルの記述がまったくなされていないものは、たんなるオベンキョウ家向けのものととして笑ってやりすごすことにしている。

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。

それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。

それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)


最も基本的レベルに戻って言えば、リルケのドゥイノの冒頭にあるように、《美は恐ろしきものの始まり Denn das Schöne ist nichts als des Schrecklichen Anfang》である。囮のほうはキレイにすぎない。

美には傷以外の起源はない Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

ジュネのいう《どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷 la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi》が肝腎である。個人の単独性における傷なのであって、それゆえ美に対する感じ方も各人異なる。

一般論として言えば次のことである。

美は現実界(=トラウマ界)に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)




この「見えないオブジェ L'Objet invisible」⋯⋯⋯この空虚・この不在は、われわれ各人のなかにある何ものかに他ならない il n'est rien d'autre que ce creux, cette absence qui est en chacun de nous。以前の情景でも今の情景でもない。私の過去でも私の現在でもない。そうではなく、この逃れ去るものは、私が抱え続け・私を抱えて続けている空虚である。(ポンタリス Jean-Bertrand Pontalis,『夜の境界 En marge des nuits』2010年)