2019年7月8日月曜日

嘘つきの蚊居肢子は言った

ロラン・バルトは『彼自身』で、「人が自らのことを書くとき、わたくしJe は私 moi ではない」という意味合いのことを言ったけれど、これは、Jeという「言表行為の主体 sujet de l'enonciation」とmoiという「言表内容の主体 sujet de l'énoncé」の裂け目のことを言っている。前者Jeは主語、後者のmoi とはイマジネールな私にすぎない。

谷川俊太郎は、詩のなかで「書いた私と書かれた私」と言っているけど同じことだ。


これを読んでいるのは書いた私だ
いや書かれた私と書くべきか
私は私という代名詞にしか宿っていない
のではないかと不安になるが
脈拍は取りあえず正常だ

ーー谷川俊太郎「朝」(『詩に就いて』2015年)


こういった議論は実に古典的なもので、カントのアンチノミーの議論がそれを最も明示的に言ったのだけれど、例えばヘーゲルもこう言っている。

AはAと同じではない[A nicht gleich A]。…「私」が「私」と同じだったら、どうして「私」を反復する必要があるんだい?(ヘーゲル『大論理学(Wissenschaft der Logik』)

ヘーゲルの親友ヘルダーリンだったらこうだ。

私が、私は私だというとき、主体(自己)と客体(自己)とは、切り離されるべきものの本質が損なわれることなしには切り離しが行われえないように統一されているのではない。逆に、自己は、自己からのこの切り離しを通してのみ可能なのである。私はいかにして自己意識なしに、「私!」と言いうるのか?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」)

ニーチェだったらこう言う。

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)


ラカンは、エピメニデスの名高いアポリア「すべてのクレタ人は嘘つきだと一人のクレタ人が言った」やデカルトの「我思う、故に我在り Cogito ergo sum」に触れつつこう言っている。

教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立ち止まらないからにすぎない。

「私は思う Je pense」に「私は嘘をついている Je mens」と同じだけの要求をするのなら次の二つに一つが考えられる。まず、それは「私は考えていると思っている Je pense que je pense」という意味。

これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」 、 「彼女は私を愛していると私は思う Je pense qu'elle m'aime」と言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。…

もう一つの意味は「私は考える存在である Je suis un être pensant」である。この場合はもちろん、 「我思う」から自分の存在に対して思い上がりも偏見もない立場をまさに引き出そうとすることをそもそも台無しにすることになる。

私が「私はひとつの存在です Je suis un être」と言うと、それは「疑いもなく、私は存在にとって本質的な存在である Je suis un être essentiel à l'être, sans doute」ということで、ただのおもいあがりである。(ラカン、S9, 15 Novembre 1961)

仮面の背後」の最後で引用した古井由吉の文は、これらのヴァリエーション。

自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。(古井由吉『「私」という白道』)
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル観念のエロス』)


バルトの『彼自身』の表紙裏には、《ここにあるいっさいは、小説の登場人物によって語られているものと見なされるべきである》とある。

そして「moi, je」(自我と私)の項にはこうある。

「自我」がもはや「自身」でない以上、私が「自我」について語っていけない理由はないではないか。pourquoi ne parlerais-je pas de «moi». puisque «moi» n'est plus «soi»?

人称代名詞と呼ばれている代名詞、すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私」は想像界を発動し、「あなた」と「彼」はパラノイア(妄想)を発動する[ « je » mobilise l'imaginaire, « vous » et « il » la paranoïa]。しかしそれと同時に、読み取り手によっては、ひそかに、モアレの反射のように、すべてが逆転させられる可能性もある。「moi, je」と言うとき、「私 je」は私 moiではない[« je » peut n'être pas moi]、ということがありうる。…

私は、サドがやっていたように、私に向かって「あなた vous」と言うことができる。それは、私自身の内部で、エクリチュールの労働者、製作者、産出者を、作品の主体(“著者”)から切り離すためだ。(……)そして、「彼」と呼んで自身について語ることは、私は私の自我について《あたかもいくぶんか死んでいるもののように》、妄想的強調という薄い霧の中に捉われているものであるかのように語っている、という意味にもなりうるし、それはさらにまた、私は自分の登場人物に対して距離設定(異化 Verfremdung)をしなければならないブレヒトの役者の流儀によって私の自我について語っている、という意味にもなる。(『彼自身によるロラン・バルト』)

自分語りをするにせよ、それは嘘に過ぎないということをしっかり受けとめて語るべきだね、と嘘つきの蚊居肢子は言った。SNSという現代の病「moi = je」の世界に対して反時代的に振舞うために。

日記というものは嘘を書くものね。私なんぞ気分次第でお天気まで変えて書きます。(円地文子)