①仮面を脱げ、素面を見よ、そんな事ばかり喚きながら、何処へ行くのかも知らず、近代文明というものは駆け出したらしい。ルッソオはあの「懺悔録」で、懺悔など何一つしたわけではなかった。あの本にばら撒かれていた当人も読者も気が付かなかった女々しい毒念が、次第に方図もなく拡がったのではあるまいか。(小林秀雄「当麻」1942年)
②作家は仮面をぬぎ、とことんまで裸の自分を見つめる生活を知らなければ、その作家の思想や戯作性などタカが知れたもので、鑑賞に堪へうる代物ではないにきまつてゐる。(坂口安吾『私は海をだきしめてゐたい』1947年)
ドゥルーズ の①と②でもいいけどさ。
①仮面の背後にはさらなる仮面がある。最も隠されたものでさえ未だ隠し場所なのである。何かの、あるいは誰かの仮面をはがして正体を暴くというのは、錯覚に過ぎない。Derrière les masques il y a donc encore des masques, et le plus caché, C'est encore une cachette, à l'infini. Pas d'autre illusion que celle de démasquer quelque chose ou quelqu'un.Pas d'autre illusion que celle de démasquer quelque chose ou quelqu'un.(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
②オイディプス的顰め面の背後で derrière la grimace œdipienne プルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑いーー蜘蛛になること、あるいは虫になること。
le rire schizo qui secoue Proust ou Kafka derrière la grimace œdipienne - le devenir-araignée ou le devenir-coléoptère. (ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス L'ANTI-ŒDIPE』、1972年)
ニーチェだっていいさ。
①すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。Jede Philosophie verbirgt auch eine Philosophie; jede Meinung ist auch ein Versteck, jedes Wort auch eine Maske.(ニーチェ『善悪の彼岸』289番)
②現代の者たちよ、顔に手足に五十の絵の具のしみをつけて、おまえたちはそこにすわっていた。そしてわたしを驚かせ、あきれさせた。
そしておまえたちのまわりには五十の鏡が置かれていた。それがおまえたちの色の叫喚に媚び、それをまねて叫び声をあげている。
まことに、現代の者たちよ、おまえたちの顔貌こそ、何にもまさる仮面なのだ ihr könntet gar keine bessere Maske tragen。だれにできよう、おまえたちが何者かを見分けることが。
過去の生んだ記号をからだいちめんに書きつけ、さらにその記号を新しい記号で上塗りしている。このようにしておまえたちは、あらゆる記号解読者も読み解けないほどに、巧みに自分自身を隠したのだ。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「教養の国」)
ラカン的には、象徴界・想像界(言語・イメージ)のレベルでは①だな。現実界(エス・欲動の身体)のレベルまで含めれば②だ。
ファルスの彼岸 au-delà du phallus には、身体の享楽 jouissance du corps がある。(ラカン、S20、20 Février 1973)
この世界は、思考を支える幻想 fantasme でしかない。それもひとつの「現実 réalité」には違いないかもしれないが、現実界の顰め面 grimace du réel として理解されるべき現実である。(ラカン、テレヴィジョン Télévision、AE512、Noël 1973)
現実はない。現実は幻想によって構成されている。(ラカン、S25、20 Décembre 1977)
ーーあくまでラカン的であればということであり、これが「正しい」とは言わないでおくけど。
ところでニーチェはこう言っている。
ーー《反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。》(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
偉大なニーチェ注釈者二人はこう言っている。
力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。…
しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)
ニーチェのエスについてフロイトはこう言っている。
ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我Ichと呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」»gelebt» werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächtenと。…
(この力を)グロデックに用語に従ってエスEsと名付けることを提案する。
グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつも使われている。(フロイト『自我とエス』1923年)
ところで次の古井由吉はどっちの話か(象徴界+想像界の話か、現実界の話か)わかるかい?
自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。(古井由吉『「私」という白道』)
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル観念のエロス』)
ーーま、精神分析的にややこしいことは言わないまでも、最低限こういう観点はなくっちゃな。