2019年9月27日金曜日

人はみな言語による操り人形である

斎藤環がグレタ・トゥンベリについてこう囀っている。

斎藤環@pentaxxx 2019年09月25日
彼女が大人の傀儡とも病んでいるとも思わない。傀儡は紋切り型の死んだ言葉しか言えないから。彼女の言葉は彼女自身のものだ。これが冷笑されてセクシー小泉が半笑いで許されいている状況にはくみしたくないな。正しいと思えたときに正しいと言えなければ人間には何もない、って言葉を思い出したよ。 https://twitter.com/nhk_news/status/1176481749427208194

ーーこの斎藤環の鳥語自体がひどく紋切り型に読めてしまうのだが、ボクの偏見かね?

ま、すくなくとも原理を問うことを忘れてしまった退行の世紀の精神科医の言葉だな。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)


というわけで、「退行の世紀21世紀版紋切型辞典」二項目追加である。

【操り人形】:傀儡は紋切り型の死んだ言葉しか言えない

ーー「彼女の言葉は彼女自身のものだ」ともあるが「自分の言葉」なるものを話していたら、操り人形でないってわけかな? すくなくとも人はみな「見えない制度」の操り人形のはずだがね。

重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983年)
資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』2007年)

ーーま、もっともそんなレベルの話をしているわけじゃないって返されるのだろうがね。


【ポリコレ】:正しいと思えたときに正しいと言えなければ人間には何もない

ーー二番目については、ここでも斉藤環が尊敬しているらしい中井久夫の言葉を引用しておこう。

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなおしてみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年)

………

ここでみなさんにタマキちゃんの言葉がトッテモ紋切型か否かを判断していただくために、クンデラと蓮實の注釈を示しておこう。

フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、先入見の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの先入見のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの先入見はコンピューターに入力され、マス・メディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。(クンデラ『エルサレム講演』)
あらゆる項目がそうだとは断言しえないが、『紋切型辞典』に採用されたかなりの単語についてみると、それが思わず誰かの口から洩れてしまったのは、それがたんに流行語であったからではなく、思考さるべき切実な課題をかたちづくるものだという暗黙の申し合わせが広く行きわたっていたからである。その単語をそっと会話にまぎれこませることで一群の他者たちとの差異がきわだち、洒落ているだの気が利いているだのといった印象を与えるからではなく、それについて語ることが時代を真摯に生きようとする者の義務であるかのような前提が共有されているから、ほとんど機械的に、その言葉を口にしてしまうのだ。そこには、もはやいかなる特権化も相互排除も認められず、誰もが平等に論ずべき問題だけが、人びとの説話論的な欲望を惹きつけている。問題となった語彙に下された定義が肯定的なものであれ否定的なものであれ、それを論じることは人類にとって望ましいことだという考えが希薄に連帯されているのである。(蓮實重彦『物語批判序説』)

フローベール自身からも一つだけ抜き出しておこう(1852年暮れの年上の女友達への手紙における紋切型辞典の構想)

ぼくは、誰からも容認されてきたすべてのことがらを、歴史的な現実に照らし合わせて賞讃し、多数派がつねに正しく、少数派はつねに誤っていると判断されてきた事実を示そうと思う。偉大な人物の全員を阿呆どもに、殉教者の全員を死刑執行人どもに生贄として捧げ、それを極度に過激な、火花の散るような文体で実践してみようというのです。従って文学については、凡庸なものは誰にでも理解しうるが故にこれのみが正しく、その結果、あらゆる種類の独自性は危険で馬鹿げたものとして辱めてやる必要がある、ということを立証したいのです。……そもそもこの弁証論の目的は、いかなる意味での超俗行為をも断固として排撃することにあるのだと主張したい。(フローベール書簡、1852年)

というわけで冷笑家の系列の言葉たちであり、21世紀のいまでは古いってんだろうがね、退行の21世紀のああいったクリシェが、18世紀以前に戻ってしまってとっても古いというのは自覚的でないんだろうよ。

………

そもそも16歳の少女グレタ・トゥンベリの言葉が何ものかの操り人形(傀儡)ではないという事態があり得るのかね。ここではごく標準的な頭脳なら、「子供を使った政治主張」の疑いを抱くだろうという話はしないでおくが(参照:グレタ・トゥンベリ16歳 環境団体のパペットに振り回される国際社会とメディア)。

20世紀版「紋切型」辞典によれば、「人はみな言語による操り人形である」なんだがな。

もはや、われわれには引用しかないのです。言語とは、引用のシステムにほかなりません。(ボルヘス 『砂の本』1975年)
フロイト的経験の光の下では、人間は言語によって囚われ拷問をこうむる主体である。à la lumière de l'expérience freudienne l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage (ラカン、S3、16 mai 1956)
動物園の動物はじめ飼育動物が一種の神経症状態になっていることがわかっているが、いささか気になることは、人間は自分で自分を動物園にとじこめて飼育している奇妙な動物である、というモリスの指摘である。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986年『記憶の肖像』所収)
ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012年)


さらにもっとむかしの「紋切り型」辞典には、人はみな役者だとあるがな。

この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ[All the world's a stage, And all the men and women merely players.](シェイクスピア「お気に召すまま」1603年)
かれらのうちには自分で知らずに俳優である者と、自分の意に反して俳優である者とがいる。――まがいものでない者は、いつもまれだ。ことにまがいものでない俳優は。(ニーチェ「卑小化する徳」『ツァラトゥストラ』第3部、1894年)

ああいった鳥語装置に囚われの身のおバカな精神科医の21世紀「退行版」紋切型ってのは、吐き気をもよおすしかないね、きみらはそうじゃないらしいがな、よっぽどニブイんだろうよ。

やめよ、おまえ、俳優よ、贋金造りよ、根柢からの嘘つきよ。おまえの正体はわかっている。

おまえ、孔雀のなかの孔雀よ、虚栄心の海よ。何をおまえはわたしに演じてみせたのだ。よこしまな魔術師よ、……

おまえの口、すなわちおまえの口にこびりついている嘔気だけは、真実だ。(ニーチェ「魔術師」『ツァラトゥストラ』第4部、1885年)

最後にさらに「他人の言葉」をこう引用させてもらってよろしいだろうか?

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』1888年)