2019年10月12日土曜日

ドゥルーズという「精神分析界の天才」

ジジェクの現実界定義の誤謬」に引き続く。

何度か示しているけど、ドゥルーズってのは実に惜しまれるね、1960年代後半にフロイトの核心を掴みかかっていたのにーーニーチェの永遠回帰やプルーストの無意志的記憶に大いに助けをかりてーー、1970年代になってアンチオイディプスの彼岸には自由があるなんていうトンデモナイ寝言を言い出してしまって。

『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの l'involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの force à penser、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章、第2版、1970年)

あの寝言がなかったら現代ラカン派がようやく1990年代後半になって掴みはじめたフロイト・ラカンの核心を30年以上先行して把握した「精神分析界の天才」として燦然と輝くべき存在だったのに。


固着によって強制された運動の機械
強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)

強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)

トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…フロイトののコンテキストにおける「自動反復=自動機械」 « automatisme » という考え方は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)
晩年のラカンの現実界(固着としての症状)
症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン「三人目の女 La Troisième』」1974)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界(現実界的無意識 l'inconscinet réel )の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレールColette Soler, Avènements du réel, 2017年)
固着による自動反復
私は昨年言ったことを繰り返そう、フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme - 19/11/97)
フロイトにとって症状は反復強迫 compulsion de répétition に結びついたこの「止まないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫に見出されると。

フロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動要求の絶え間なさを常に示している。欲動は「行使されることを止めないもの ne cesse pas de s'exercer」である. (J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)
われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) の記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 B 」には、本源的な文がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求はリアルな何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un,  - 2/2/2011)
この欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する契機 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


ボクの頭脳では十分に納得できているわけではないが、次の図も貼り付けておこうか。





先の先の引用群と同じことだがこうも付け加えておこう。

現実界のなかのこのS1[Ce S1 dans le réel] が、おそらく、フロイトが固着と呼んだものである。私はこの用語をまさにこの今、想起する。無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
ラカンがサントームと呼んだものは、反復的享楽であり「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。…それはただ、S2なきS1[S1 sans S2]=固着を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'être et l'un、23/03/2011)
サントームの道(固着)は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)

ーーこれらはぜんぶ「強制された運動の機械 machines à movement forcé 」のことさ。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

ラカン派ではようやくハッキリしてきたんだよな、2010年前後から。ということはドゥルーズは40年先行してたって言ったていいさ。

で、現在のドゥルーズ研究者はいまだ寝言期のドゥルーズだけが好きらしいようにみえるけど、チガウカイ?

ドゥルーズってのは、永遠回帰と無意志的記憶と死の本能の三幅対を示した次の文にしかないよ。

エロスは共鳴 la résonance によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶 mémoire involontaireのエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le tempsの形式である。(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)