2012年の段階でのジジェクの現実界定義は次のものであり、これはわたくしの知る限り、現在に至るまで変わっていない。
現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体[the non‐All of the symbolic]である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。
存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰り[the Real is an impasse of formalization]だから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ[the Real is nothing but an impasse of formalization]。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体以外の何ものでもない[The Real is nothing but the non‐All of formalization](ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
「現実界は形式化の行き詰まり」だとジジェクは連発しているが、これは現実界①のみの定義である。
二つの現実界
|
|
現実界①
|
現実界②
|
現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
|
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
|
現実界①とは科学的現実界(参照)であり、現実界②は身体の現実界(臨床的現実界)である。ジジェクの定義には現実界②が欠けているのである。
私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (Lacan, S20. 15 Mai 1973)
ラカンはセミネール11からセミネール20の3月前後までの約10年のあいだ、現実界①を模索した。だがその後の5月には、上の②の定義がある。この1973年3月から5月のあいだに裂け目がある。
以下、もう少し詳しくみよう。
左項に「真理」とあるが、これは「嘘」のことである。
そして欲望/欲動(享楽)における欲望とは、《欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance 》(Miller, L'économie de la jouissance, 2011)である。
さてこの前提で次の文章群を読もう。
ーー先に掲げたミレール2005年の「テユケー/オートマトン」の項の対比が、下段引用文の左右に相当する。オートマトンとは、フロイトの「自動反復 Automatismus」である。
ミレールの文に「止まないもの qui ne cesse pas」あるいは「行使されることを止めないもの ne cesse pas de s'exercer」とあり、「反復強迫」を指しているが、これが晩年のラカンの現実界②である。先に引用した文をひとつ再掲すれば、《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire 》(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
以下、もう少し詳しくみよう。
左項に「真理」とあるが、これは「嘘」のことである。
真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant。(JACQUES-ALAIN MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)
そして欲望/欲動(享楽)における欲望とは、《欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance 》(Miller, L'économie de la jouissance, 2011)である。
さてこの前提で次の文章群を読もう。
現実界① テュケーの現実界
|
現実界② 欲動の現実界
|
シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants、その近代数学的機械 mathématique moderne, des machines …それがオートマトン αύτόματον [ automaton ]であり…他方、テュケー τύχη [ tuché ]は現実界との出会い rencontre du réel と定義する。(ラカン、S11, 05 Février 1964)
|
症状は、現実界について書かれることを止めない。 le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン「三人目の女 La Troisième』」1974)
|
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
|
|
テュケーtuchéの機能、出会いとしての現実界の機能 fonction du réel ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » である。(ラカン、S11、12 Février 1964)
|
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)「夢の臍 Nabel des Traums 」を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
|
現実界② 固着による反復強迫
|
|
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界(現実界的無意識 l'inconscinet réel )の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレールColette Soler, Avènements du réel, 2017年)
|
|
私は昨年言ったことを繰り返そう、フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme - 19/11/97)
|
|
フロイトにとって症状は反復強迫 compulsion de répétition に結びついたこの「止まないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫に見出されると。
フロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動要求の絶え間なさを常に示している。欲動は「行使されることを止めないもの ne cesse pas de s'exercer」である. (J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique - 26/2/97)
|
われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) の記述がある。
そして『制止、症状、不安』11章「補足 B 」には、本源的な文がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求はリアルな何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, - 2/2/2011)
|
この欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する契機 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
|
ーー先に掲げたミレール2005年の「テユケー/オートマトン」の項の対比が、下段引用文の左右に相当する。オートマトンとは、フロイトの「自動反復 Automatismus」である。
ミレールの文に「止まないもの qui ne cesse pas」あるいは「行使されることを止めないもの ne cesse pas de s'exercer」とあり、「反復強迫」を指しているが、これが晩年のラカンの現実界②である。先に引用した文をひとつ再掲すれば、《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire 》(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
臨床的な意味での現実界はフロイトの固着(リビドー固着)なのである。これをフロイトはトラウマへの固着とも呼んでいる。
固着とは身体的なものが心的なものに移行されずエスのなかに居残るという意味である。
トラウマへの固着
|
|
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」…これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)
|
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1916年)
|
反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, -2/2/2011 )
|
自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識 eigentliche Unbewußteとしてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
フロイトはこの身体的なものの置き残しを「異物」と呼んだり、「リビドー固着の残滓」と呼んだりもしている。
ジジェクは哲学者だから科学的現実界だけでいいのではないかという観点もあるかもしれない(わたくし自身、政治的観点あるいはマルクス解釈を読む上で大きくジジェクに信頼を寄せている)。だが、たとえば文化共同体病理学分析においても固着が欠かせないはずである。
異物としての症状
|
|
トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
|
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
|
フロイトには「真珠貝が真珠を造りだすその周りの砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 」という名高い隠喩がある。砂粒とは現実界の審級にあり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒への防衛反応であり、封筒あるいは容器、ーー《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66、1966)ーーすなわち原症状の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている。
フロイトはヒステリーの事例にて、「身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「身体からの反応 」とは、いわゆる「欲動の根 Triebwurzel」、あるいは「固着 Fixierung」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,、2004)
|
|
リビドー固着の残滓
|
|
分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道」、1916年)
|
|
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…
いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓[Reste der früheren Libidofixierungen]が保たれていることもありうる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
|
ジジェクは哲学者だから科学的現実界だけでいいのではないかという観点もあるかもしれない(わたくし自身、政治的観点あるいはマルクス解釈を読む上で大きくジジェクに信頼を寄せている)。だが、たとえば文化共同体病理学分析においても固着が欠かせないはずである。
どの共同体にも歴史上の外傷的出来事にたいする固着がある。たとえば戦争トラウマへの固着である。これは必ずその文化内で反復強迫する。最近、白村江の戦いをいくらか調べてみたのだが、すくなくとも100年はあの戦のトラウマへの固着がある。
ここでは日本の太平洋戦争トラウマには敢えて触れずにドイツの事例をだそう。ナチストラウマへの固着が現在に至るまでドイツの政治を影で動かしているはずである(たとえばドイツにはナチのポピュリズムへの反省から国民投票制度がない)。それはいまだ《書かれることを止めない》ーーのではないだろうか?
なにはともあれ、《現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない》という定義①だけでは、多くの事象を取り逃してしまう。たとえばこの定義で次の反復強迫現象をどうやって取り扱うというのだろう?
精神科の大先輩の話ですが、軍医として太平洋戦争に参加している人です。一九七七年にジャワで会った時には、戦争初期のジャワでの暮らしが、いかに牧歌的であったかという話を聞かせてくれました。先生はその後ビルマに行かれたのですが、そちらに話を向けても「あっ、ビルマ。ありゃあ地獄だよ」と言ってそれでおしまいでした。
ところが一九九五年の阪神淡路大地震のあとお会いした時には、「実は、今でもイギリスの戦闘機に追いかけられる夢を毎晩見るんだ」ということを言われました。震災について講演に行くと、最前列に座っているのが白髪の精神科の長老たちで、これまであまり側に寄れなかったような人たちですが、講演がすんだら握手を求めに来て「戦争と一緒だねえ」というようなことを言われるわけですね。神戸の震災によって外傷的な体験というものが言葉で語ってもいいという市民権を得たのだなと思いました。それまでずっと黙っておられたのですね。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
そもそも、フロイトの「反復強迫=死の欲動」概念は、戦争神経症への観察がその重要な起源の一つなのである。
フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)
………
なお、ボロメオの輪において二つの穴が示されている図がある。
象徴界のなかの穴が現実界①であり、「真の穴」が、固着による穴(原抑圧の穴)としての現実界②である。
私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
現実界は…穴=トラウマを為す[fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)