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2019年10月6日日曜日

一般化享楽と一般化症状

ミレールに依拠しつつ、女性の享楽 jouissance féminineは一般化享楽 jouissance généralisée だとする論に行き当たったので(Silvia Tendlarz,THE MIRACLE OF LOVE: FROM FEMININE SEXUALITY TO JOUISSANCE AS SUCH,2017)、ここでは最近の主流臨床ラカン派における「なんでも一般化」の一環として、「一般化享楽」と「一般化症状」の備忘をしておく。

一般化とは「人がみな持っている」という意味である。一般化妄想、一般化トラウマ、一般化倒錯、一般化排除、一般化去勢等々である。

たとえばこういうことである。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique,« Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ミレール、Vie de Lacan、2010)


晩年のラカンの「女性の享楽」とは、生物学的男女とは基本的には関係がない「身体の享楽」の意味であり、これが事実上、享楽自体である。



一般化享楽 jouissance généralisée(女性の享楽=享楽自体)
ラカンは女性の享楽 jouissance féminine の特性を男性の享楽 jouissance masculine との関係で確認した。それは、セミネール18 、19、20とエトゥルディにおいてなされた。だが第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される[ la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
性別化の式のデフレ
性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路」を把握しようとした。これは英雄的試みだった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学」へと作り上げるために。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉することなしでは為されえない。

Dans les formules de la sexuation, par exemple, il a essayé de saisir les impasses de la sexualité à partir de la logique mathématique. Cela a été une tentative héroïque pour faire de la psychanalyse une science du réel au même titre que la logique mais cela ne pouvait se faire qu'en enfermant la jouissance phallique dans un symbole. 

⋯⋯結局、性別化の式は)、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃」のちに介入された「二次的構築物」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 」 、「論理なき現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。

…sexuation. C'est une conséquence secondaire qui fait suite au choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique. La logique arrive seulement après (J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)




ーー性別化のデフレを付記したが、これがミレール派において決定的なようだ。哲学的ラカン派はこのミレールに現在に至るまで強く反発している(ジジェク、ロレンゾ・チーサ等)。日本においても、臨床ラカン派でさえほとんど認知していないようで、彼らのほとんどはアンコールまでの「女性の享楽」である。

だがアンコール以降の後期ラカンを受け入れるなら(そして後期フロイトを読み込むなら)、これは当然そうならねばならないとわたくしは思う。


さて次に一般化症状である。


一般化症状=固着(リビドーの固着、享楽の固着)=サントーム
ラカンのサントームとは、たんに症状のことである。だが一般化された症状である。Le sinthome de Lacan, c'est simplement le symptôme, mais généralisé,  (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)
症状とはラカンが固着に与えた名である。Le symptôme est le nom que Lacan donne à la fixation (Pierre-Gilles Guéguen, Options lacaniennes de mars 1994)
ラカンが導入した身体は享楽される身体ではない。そうではなく、自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]、つまり自体性愛的身体 [un corps auto-érotique]である。この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を作る[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel]。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る[qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない[celui qui ne se referme pas]。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
サントーム=身体の出来事=女性の享楽
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽はトラウマの審級にある la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps (Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)
サントームという享楽 la jouissance du sinthome (Discontinuité - Continuité Jean-Claude Maleval, 2018)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
サントーム=享楽の固着=身体の反復強迫
現実界のなかのこのS1[Ce S1 dans le réel] が、おそらく、フロイトが固着と呼んだものである。私はこの用語をまさにこの今、想起する。無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
反復的享楽 La jouissance répétitive、…ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1 [S1 sans S2]を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)
サントームは現実界であり、現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition.(MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する要素 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)




享楽の固着は、現在、臨床ラカン派でとてもしばしば使われる表現である。ここではコレット・ソレールからふたつ抜き出しおこう。

…しかしながらまた享楽の固着の穴埋めがある il y a cependant aussi le bouchon d'une fixion de jouissance (Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
空虚と喪失が始まりにある。人が前進するとき、享楽の固着がある。それは空虚ではなく、喪失である。Le vide et la perte sont au début. Quand on avance, il y a des fixations de jouissance. C'est pas du vide, c'est de la perte.

…(つまり)享楽の固着とそのトラウマ的作用である fixations de jouissance et cela a des incidences traumatiques. (Entretiens réalisés avec Colette Soler entre le 12 novembre et le 16 décembre 2016)

固着がトラウマ的なものであるのは、身体的なものが心的なものに移行されずにエスのなかに(あるいは現実界のなかに)居残るせいである。

享楽の固着はフロイト用語のリビドー固着(欲動の固着)だが、フロイトはトラウマへの固着とも呼んだ。

トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)

この反復強迫のメカニズムとはこうである。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)


女性の享楽(身体の享楽)は、サントームの享楽であると同時に、自閉症的享楽とも呼ばれる。

自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 2000)
サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉症的享楽に帰着する。
Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)