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2019年10月7日月曜日

究極の反ラカンとしての「ラカニアンレフト」

ジジェクは、エルネスト・ラクラウのポピュリズムの定義をある範囲で認めつつも、次のようなある意味で強い批判をしている。


ポピュリズムが起こるのは、特定の「民主主義的」諸要求(より良い社会保障、健康サービス、減税、反戦等々)が人々のあいだで結びついた時である。(…)

ポピュリストにとって、困難の原因は、究極的には決してシステム自体ではない。そうではなく、システムを腐敗させる邪魔者である(たとえば資本主義者自体ではなく財政的不正操作)。ポピュリストは構造自体に刻印されている致命的亀裂ではなく、構造内部でその役割を正しく演じていない要素に反応する。(ジジェク「ポピュリズムの誘惑に対抗してAgainst the Populist Temptation」2006年)

このジジェクの観点は実に現在の日本的政治状況にあてはまる。左右どちらのポピュリズムも既存システムの致命的亀裂ーー「世界一の少子高齢化社会における財政赤字累積」--にはほとんど矛先をほとんどむけず、それを否認しつつ外部の敵を作って騒いでいるのみである。この「否認」についての一例は、「左派リベラルの「母のペニス」夢想」で記した。

そして外部の敵、たとえば「安倍罵倒、嫌韓等」という敵を作るとは、何よりもまず「投射」のメカニズムである。

内部の興奮(内的脅威)があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向(……)。

これが病理的過程の原因として、大きな役割が注目されている投射 Projektionである。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

わたくしは最近のジジェクの言っていることが全面的に正しいとするつもりは毛ほどもないが、冒頭に掲げた文はほとんど「限りなく正しい」。

………

最近、日本の政治学者のあいだで(とくに若手のなかで)ポピュリズムの顕揚があるようだ。その多くはラクラウやシャンタル・ムフ等に依拠しているらしい。どんなことを言っているのか詳しくは知らないが、ナイーブなポピュリズムの顕揚は、たんなるファシズムの顕揚に至るほかない(ナチが資本主義の構造的亀裂を「ユダヤ人」に投射したように)。

たとえばラカンに依拠しつつ『ラカニアンレフト』などという書が流通している。あれは、ジジェク観点では、アンチラカニアンレフトであり、究極の反ラカンである。わたくしはこの観点をどうしたって受け入れざるをえない(まともなラカン派ではみなそうであるべきように)。

ラカニアンレフトの)底に横たわる考え方は、息を呑むほど過度の単純化 breathtakingly simplistic(=究極のおバカ:蚊居肢散人意訳)である。ヤニス・スタヴラカキスは、完膚なきまでにラカンに反して、対象aを幻想における役割へと縮小させてしまっている。

対象aとは過剰なXであるが、スタヴラカキスは、魔術のように、大他者のなかの欠如の場を占める部分対象を享楽の不可能な十全性というユートピア的請け合いへと[into the utopian promise of the impossible fullness of jouissance]移行させている。このようにスタヴラカキスが提案していることは、欲望が対象aなしに・対象aの不安定化をもたらす過剰なしに機能する社会のビジョンである。(The Liberal Utopia , Against the Politics of Jouissance, Slavoj Zizek、2008)

ようするにスタヴラカキスは対象a(剰余享楽)について何も分かっていないし、享楽自体についてもゼロである、《 jouissance as such - that is missing from Stavrakakis' analysis》( Fabio Vighi, 2010)

ーー日本のラカン派のなかでは「とても優秀であるはずの」松本卓也くんがなぜこんなものにはまってしまったのか、理解の及びがたいところである。

スタヴラカキスはもちろん「女性の享楽」についてもまったくの誤謬を振り撒いている。

非全体としての女性の享楽ーーラカンマテームではS(Ⱥ)ーーとは、母なる超自我(参照)あるいは母の法に関係する。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…勝手気まま caprice articuléな法である。(Lacan, S5, 22 Janvier 1958)

ここではとても明瞭に書かれているGeneviève Morel の論から抜き出すが、これに異議を示す「まともなラカン派」が現在いるとは思えない。

「母の法」は女性の享楽の「非全体 pas-toute」の属性を受け継いでいる。それは限度なき法である。[Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.](Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome、2005)

さらに彼女は上の仏文版の英訳版ではいくらか異なったパッセージを付け加えているが、それは理論的ラカン派の巨頭のひとりジャン=クロード・ミルネール(最近、ジジェクとしばしば対談している)に依拠してである。




ジャン=クロード・ミルネールJean-Claude Milnerは、『デモクラシー的ヨーロッパの犯罪性向 Les penchants criminels de l'Europe démocratique』(2003年)にて、現代社会は、マイノリティーの要求において限度なきまでの要求に到っているいう意味での「非全体」である、と言っている。これは正当化しうる主張のように見える。(Geneviève Morel, The Sexual Sinthome 2006,PDF)

《現代社会は、マイノリティーの要求において限度なきまでの要求に到っている》
、これが一般人のポピュリズム的要求にも露出しており、勝手気ままな「母の法」の影響下にあるものである。別名、「距離のない狂宴」の法である。

母権的宗教においては、…しばしば、オルギア(距離のない狂宴)を伴うのである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年『時のしずく』所収)

ネットでだれかまともな批判をしていないかといくらか探せば、千葉雅也がこう言っている。

@masayachiba 千葉雅也 2018年9月21日

ラカニアンレフトって、わーっと情動的にお祭り享楽で抵抗しようぜという話で、僕的にはぜんぜんダメ。僕が批判するつながりすぎファシズム。大事なのは、権力者と自発的隷属者がなぜそうなっているのかの享楽的根本を分析し、そこを変えるように介入する享楽分析の政治。それが僕の『勉強の哲学』。

ーーラカン派プロパからこういう批判がまったくないようなのは、日本ラカン派共同体のかぎりない知的退行の一環である。

最後に最近のジジェクの発言を引用しておこう。

私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。

半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ we should stop with this multitudes、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" — Part II、19.01.2018

ーーマルチチュードとは、結局、浅田彰の訳「有象無象」にすぎない。

上の文でジジェクが言っているのは次の意味である。

真の「非全体 pas-tout」は、有限・分散・偶然・雑種・マルチチュード等における「否定弁証法」プロジェクトに付きものの体系性の放棄を探し求めることではない。そうではなく、外的限界の不在のなかで、外的基準にかんする諸要素の構築/有効化を可能にしてくれることである。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING, 2012)