2019年10月14日月曜日

失われた時の記憶と胎内の記憶

表題を「失われた時の記憶と胎内の記憶」としたが、まずは「トラウマの記憶=身体の記憶」がここでの核心である。

そもそも以下の定義文を読むとき、芸術体験とは、トラウマの記憶以外の何ものでもないはずである。真の芸術体験とは必ず身体の記憶であり、反復強迫する。そうでないものなど芸術体験ではない。ひとのことは知らないが、そうでない芸術体験などありうるのだろうか?

もっともわたくしの場合、芸術といえばなによりもまず音楽のことを考えていることを白状しておかなくてはならない。







トラウマの記憶=異物
トラウマ(心的外傷)ないしはトラウマの記憶 [das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe]は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
リビドーのトラウマへの固着=身体の出来事
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1916年)
幼児期に起こるトラウマは自己身体の上への経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」…これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)
分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道」1916年)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30/3/2011)
享楽の固着=身体の出来事
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu, 2018)
身体の記憶=失われた時の記憶
私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶 le corps et la mémoireによって、身体の記憶 la mémoire du corpsによって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)
喜ばしい外傷性記憶
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)








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エロスとタナトスの匂いーー母胎の入り口の香りにも通じる匂い
カビや茸の匂いーーこれからまとめて菌臭と言おうーーは、家への馴染みを作る大きな要素だけでなく、一般にかなりの鎮静効果を持つのではないか。すべてのカビ・キノコの匂いではないが、奥床しいと感じる家や森には気持ちを落ち着ける菌臭がそこはかとなく漂っているのではないか。それが精神に鎮静的にはたらくとすればなぜだろう。

菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。
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菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。こういう死の観念のない世界がいくらでもある。ロメオとジュリエットの墓は、収納ケースのたくさんある地下室である。そこでは死体は乾いてミイラになるのであろうが、さらに砂漠の中での徹底的に乾燥した死となると、これは実にわれわれから遠い。旧約やイスラムの死とはそういうものだろうが、私などがあの苛烈な宗教に馴染めないとしたら、死にまつわる匂いのこの違いも一役買っているかもしれない。われわれの宗教は、逆に、菌臭のただよう世界にしか安住できないのかもしれない。神道が、すでに、森の奥の空き地に石を一つ置いたものを拝むところから始まっている。樹脂と腐葉土の匂いの世界を聖としたのである。

京都の街々、家々を思うと、いかにも底深い腐葉土の上に建てられているという感じがある。いたるところに過去のものがカビ類に洗われて骨格だけをとどめながら埋もれているのは周知のとおりである。菌臭のただようひんやりした露地は、それが地表にたまたま現れたもので、いずれまた地下に沈みこんでゆく運命である。

とりわけ、寺院というものは、京都であれ熊野であれ信州であれ、特別に腐葉土の深いところに建てられているように感じる。平安以後、日本の仏教は山岳仏教になったというが、寺は菌臭の深いところを求めて次第に山にはいったのではないか。それ以前に建ったナラの寺だけは、なぜか、菌臭が不足しているように思う。からりと明るい。ギリシャ神殿の面影があっても可笑しくない。唐招提寺など、裏の森にはいって初めて鎮静的なものが私を包みこむように感じる。それまでは何か外国にいる感じがする。寺の雰囲気を抹香臭いというが、あれは単に線香の匂いではあるまい。線香の匂いも寺の持つ鎮静的な菌臭の一部である。話は逆で、寺の匂いと馴染むものが線香の匂いとして採用されたのではないか。

菌臭は、単一の匂いではないと思う。カビや茸の種類は多いし、変な物質を作りだすことにかけては第一の生物だから、実にいろいろな物質が混じりあっているのだろう。私は、今までにとおってきたさまざまの、それぞれ独特のなつかしい匂いの中にほとんどすべて何らかの菌臭の混じるのを感じる。幼い日の母の郷里の古い離れ座敷の匂いに、小さな神社に、森の中の池に。日陰ばかりではない。草いきれにむせる夏の休墾地に、登山の途中に谷から上がってくる風に。あるいは夜の川べりに、湖の静かな渚に。

実際、背の下にふかぶかと腐葉土の積み重なるのを感じながら、かすかに漂う菌臭をかぎつつ往生するのをよしとし、大病院の無菌室で死を迎えるのを一種の拷問のように感じるのは、人類の歴史で野ざらしが死の原型であるからかもしれない。野ざらしの死を迎える時、まさに腐葉土はふかぶかと背の下にあっただろうし、菌臭のただよってきたこともまず間違いない。

もっとも、それは過去の歴史の記憶だけだろうか。菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)
子宮の中は実際にはそれほど居心地がよくない
子宮の中は実際にはそれほど居心地がよくなくて、私たちは胎児の時からけっこう不意打ちを食らい、脅え、驚かされているらしいが、理想化され、夢見られている「子宮」は「居心地のよさ」の理想、「フィット・イン」そのものである。

「死」を一種の胎内回帰とするのは、死の理不尽さを和らげようとする人間の夢想である。「死」を一種の「フィット・イン」と夢想し、われわれは「安らかに眠る」ことを死者のために祈る。「小さい死」である眠りの心地よさは翌朝の蘇りに欠かせない。(中井久夫「居心地」初出1994年 『家族の深淵』所収)

母胎内の無時間性
母子の時間の底には無時間的なものがある。母の背に負われ、あるいは懐に抱かれたならば、時間はもはや問題ではなくなる。父子にはそれはない。父親と過ごす時間には過ぎゆくものの影がある。長い時間の釣りでさえ、ハイキングでさえ、終わりがある。終わりの予感が、楽しい時間の終末部を濃く彩る。

友人と過ごす時間には、会うまでの待つ楽しさと、会っている最中の終わる予感とがある。別れの一瞬には、人生の歯車が一つ、コトリと回った感じがする。人生の呼び戻せなさをしみじみと感じる。それは、友人であるかぎり、同性異性を問わない。恋人と言い、言われるようになると、無時間性が忍び寄ってくる。抱き合う時、時間を支配している錯覚さえ生じる。もっとも、それは、夫婦が陥りがちな、延びきったゴムのような無時間性へと変質しがちで、おそらく、離婚などというものも、この弾力性を失った無時間性をベースとして起るのだろう。

この無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年初出『時のしずく』所収)
胎内の記憶
胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。母が堕胎を考えると胎児の心音が弱くなるというビデオが真実ならば、母子関係の物質的コミュニケーションがあるだろう。味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。

触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口―身体―指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。

聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。

視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年初出『時のしずく』所収)




※付記







母胎回帰運動(原ナルシシズム運動)
人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズム(自己身体エロス)から、不安定な外界の知覚に進む。haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt  (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
自我の発達は原ナルシシズム(原自己身体エロス)から出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
かつて必ずそこにいた場所
風景あるいは土地の夢で、われわれが「ここへは一度きたことがある」とはっきりと自分にいってきかせるような場合がある。さてこの「既視感〔デジャヴュ déjà vu〕」は、夢の中では特別の意味を持っている。その場所はいつでも母の性器 Genitale der Mutter である。事実「すでに一度そこにいたことがある dort schon einmal war」ということを、これほどはっきりと断言しうる場所がほかにあるであろうか。ただ一度だけ私はある強迫神経症患者の見た「自分がかつて二度訪ねたことのある家を訪ねる」という夢の報告に接して、解釈に戸惑ったことがあるが、ほかならぬこの患者は、かなり以前私に、彼の六歳のおりの一事件を話してくれたことがある。彼は六歳の時分にかつて一度、母のベッドに寝て、その機会を悪用して、眠っている母の陰部に指をつっこんだFinger ins Genitale der Schlafenden ことがあった。(フロイト『夢解釈』1900年)
女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)