2019年10月18日金曜日

過去は未来によって変更される

前回から引き続く。

表題の「過去は未来によって変更される」とは、「過去は現在によって変更される」でもよい。現在は過去から見れば、未来なのだから。

これがジャン=ピエール・デュピュイの最もベースにある考え方である。

プロジェクトの時間(投企の時間 le temps du projet )は支配的議論の原理を覆す。過去は取り消せないものではない。過去は固定化されていない。現在の行為が、過去の上に反事実的力をもつ。[Le passé n'est pas irrévocable, il n'est pas fixe, l'action présente a un pouvoir contrefactuel sur le passé.](Jean-Pierre Dupuy, 「啓蒙カタストロフィ主義のために Pour un catastrophisme éclairé 」2004)

ここでの「反事実的 contrefactuel」とは、ヘーゲルの「遡及的 Rückwirkung」(遡及性)のことである(フロイト用語なら「事後的-遡及的 Nachträglichkeit」)。

標準的視野によれば、過去は固定化されている[the past is fixed]。既に起こったことが起こったのであり、やり直しはきかない。そして未来は開かれている[the future is open]。未来は予期できない偶然性によって決まる。

われわれ(デュピュイと私)が提案していることは、この標準的視野の転倒である。すなわち過去は開かれている[the past is open]。過去は遡及的な再解釈に開かれている。他方、未来は閉じられている[the future is closed]。その理由はわれわれは(因果的)決定論の世界に生きているから。これは、未来は変えられないことを意味しない。それが意味するのは、未来を変えるためには、われわれは先ず過去を(「理解する」のではなく)変化させなければならないことだ。過去を再解釈すること。過去の支配的視野によって暗示された未来とは別の、異なった未来に向けて開かれているように過去を再解釈すること。(ジジェク、Hegel, Retroactivity & The End of History, 2019)


前回、デュピュイ2018年から次の文を貼り付けた。



ここにある図は遡及性用語を使ってこう書き直せる。




ーーこれは思考自体としてはとくに新しくはない。ただしデュピュイは未来にカタストロフィ点を置いて、この現在の置かれた状況を変化させようとする視点をもったことが新しい。

カタストロフィ的出来事は運命として未来に刻印されている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。……たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事がアクチュアルになること――それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生みだしているのである。[C'est donc l'actualisation de l'événement – le fait qu'il se produise – qui crée rétrospectivement de la nécessité.](Jean=Pierre Dupuy, Petite métaphysique des tsunami, 2005)


エリオットはすでにこう言っている。

一つの新しい芸術作品が創造された時に起ることは、それ以前にあった芸術作品のすべてにも、同時に起る。すでに存在している幾多の芸術作品はそれだけで、一つの抽象的な秩序をなしているのであり、それが新しい(本当の意味で新しい)芸術作品がその中に置かれることによって変更される。この秩序は、新しい芸術作品が現われる前にすでに出来上っているので、それで新しいものが入って来た後も秩序が破れずにいる為には、それまでの秩序全体がほんの少しばかりでも改められ、全体に対する一つ一つの芸術作品の関係や、比率や、価値などが修正されなければならないのであり、それが、古いものと新しいものとの相互間の順応ということなのである。そしてこの秩序の観念、このヨーロッパ文学、及び英国の文学というものの形態を認めるならば、現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない。しかしこれを理解した詩人は多くの困難と、大きな責任を感じなければならないことになる。(エリオット「伝統と個人的な才能」吉田健一訳)

この吉田健一訳の《現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更される》の箇所の原文は"the past should be altered by the present as much as the present is directed by the past"である。

デュピュイ用語で言い直せば、「現在は過去によって因果的に決まるのと同じくらい、過去は現在によって遡及的に変更される」となる。冒頭に記したようにここでの「現在」は「未来」に代替してもよい。するとそのままデュピュイの図となる。





ボルヘスが次のように言っているのはこの意味である。

おのおのの作家は自らの先駆者を創り出す。彼の作品は、未来を修正すると同じく、われわれの過去の観念をも修正するのだ。(ボルヘス「カフカの先駆者」)

ここでさらにプルーストを引こう(この文はドゥルーズが愛した箇所でもあり、彼はここから「芸術のシーニュ signes de l'art」の重要性を強調した)。

独創的な画家にしても、独創的な芸術家にしても、いずれも眼科医のような方法をとる。そんな画家とか芸術家とかが、絵や散文の形でおこなう処置は、かならずしも快いものではない。処置がおわり、眼帯をとった医師はわれわれにいう、ーーさあ、見てごらん。するとたちまち世界は(世界は一度にかぎり創造されたわけではない、独創的な芸術家が出現した回数とおなじだけ創造されたのだ)、われわれの目に、古い世界とはまるでちがって見える、しかも完全にはっきり見える。しかも完全にはっきり見える。女たちが街のなかを通る、以前の女たちとはちがう、つまりそれはルノワールの女たちというわけだ。われわれがかつて女だと見るのを拒んだあのルノワールの女たちというわけなのだ。馬車もまたルノワールである、そして水も、そして空も。はじめて見た日どうしても森とは思えず、たとえば無数の色あいをもっているがまさしく森に固有の色あいに欠けているタペストリーのようだった、そんな森に似た森のなかを、われわれは散歩したくなってくる。そのようなものが、創造されたばかりの、新しい、そしてやがて滅びるべき宇宙なのである。その宇宙は、さらに独創的な新しい画家や作家がひきおこすであろうつぎの地質的大変動のときまでつづくだろう。(プルースト『ゲルマントのほう』)

プルーストにとってルノワールは世界を変えたのである。過去の作品の見方さえ変えた。現在を変え未来の作品も変えた。これがボルヘスとエリオットの言っていることであり、デュピュイの「プロジェクトの時間」と相同的な考え方がここにある。