2019年10月17日木曜日

ブーメラン的プロジェクトの時間のすすめ

世界はどのように動いているのか。矢のようじゃない。ブーメランのようにだ。……終わりは最初にあるんだ。(ラルフ・エリソン)

That […] is how the world moves: Not like an arrow, but a boomerang. […] The end is in the beginning.”ーーInvisible Man by Ralph Ellison




……

いわゆるカタストロフィの哲学者デュピュイの言葉の断片をこのところいくら読み直してみたがーー、ここでの「読み直し」とはプルースト的意味での「再読」であるーー、

カンブルメール夫人が、「再読すべきだわ、ショーペンハウアーが音楽について述べていることを」といっているのを耳にはさむと、彼女ははげしい口調でこう言いながらその文句に私たちの注意をうながした「再・読とは傑作ねえ! 何よ! そんなもの、とんでもない、だまそうとしたってだめなの、私たちを」老アルボンはゲルマントの才気の形式の一つを認めてにっこりした。(プルースト「見出された時」)

要するに3日漬け程度での知で勝手なことを言わせてもらえば、デュピュイの核心のひとつは次の文である。

たとえ知識があろうとも、 それだけでは誰にも行動を促すことはできない。(ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』2005)

カタストロフィの知があっても、ほとんど誰も行動を起こさないのである。

「カタストロフィ」と「デュピュイ」という語彙でウエブ上の日本語文献を検索したって、解釈ばかりしている知識人ばかりにしか遭遇しない。

哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのは世界を変えることである。Die Philosophen haben die Welt nur verschieden interpretirt; es kommt aber darauf an, sie zu verändern.(マルクス『フォイエルバッハにかんするテーゼ』第11)


現在において瞭然と予見できるカタストロフィとは何か。

ジジェクはごく最近、デュピュイに大きく依拠しながらそのヘーゲル小論でこう記している。

現在、われわれにつき纏うアポカリプス的出来事の数多くのヴァージョンがある。ふたたび核戦争(米国対イランあるいは米国対北朝鮮)。そしてまたグローバル環境カタストロフィの行く末。さらに少なくとももう二つのアポカリプス的カタストロフィが容易に想像てきる。財政的な経済メルトダウンとデジタルアポカリプスだ。後者は、われわれの生を統制し支えているデジタルネットワークの崩壊である。(ジジェク 、Hegel, Retroactivity & The End of History, 2019)

世界的にはまずこの四つなのである。

核戦争
環境カタストロフィ
財政的な経済炉心融解
デジタルアポカリプス

ーーほかにも遺伝子操作にかかわるアポカリプス、致死的ヴィールスの蔓延カタストロフィ等が思いつくだろうが、それらは環境カタストロフィに含めたっていい。

日本のインテリ諸君は、世界なんてだいそれたことは後回しにして、まず日本共同体内部でのアポカプリスから始めたらよいのである。

たとえば、

第二次関東大震災
財政的炉心融解

ーーこれは《運命として未来に刻印されている》。

カタストロフィ的出来事は運命として未来に刻印されている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。……たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事がアクチュアルになること――それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生みだしているのである。(Jean=Pierre Dupuy, Petite métaphysique des tsunami, 2005)
L'événement catastrophique est inscrit dans l'avenir comme un destin, certes, mais aussi comme un accident contingent : il pouvait ne pas se produire, même si, au futur antérieur, il apparaît comme nécessaire.

Cette métaphysique, c'est celle des humbles, des naïfs, des « non-habiles », comme aurait dit Pascal – qui consiste à croire que, si un événement marquant se produit, par exemple une catastrophe, il ne pouvait pas ne pas se produire ; tout en pensant que, tant qu'il ne s'est pas produit, il n'est pas inévitable. C'est donc l'actualisation de l'événement – le fait qu'il se produise – qui crée rétrospectivement de la nécessité.

地震のほうがデュピュイがいう以上の未来における宿命的刻印だろうが、中井久夫は、阪神大震災後、第二次関東大震災を想定しつつこう言っている。

東京の場合には富も権力も情報も非常に集中しているために、どのようにして他の地方が東京を救援するかという問題は、実際検討されているのだろうか。私にはわからない。われわれが冷静でいられたのは、やがて救援があるということを疑わなかったからである。(中井久夫『精神科医の見た二都市 1995年2,3月』)

ようするにディストピア的「固定点 point fixe」から見れば、日本の中枢機能の分散が必要に決まっている。だがーーいったんその動きがあったにせよーーいつのまにか都心復帰となっている。これが日本という国である。

例えば、現在の黙示録的状況[apocalyptic situation]、未来の究極的地平は、ジャン=ピエール・デュピュイJean‐Pierre Dupuyが呼ぶところのディストピア的「固定点 point fixe」(dystopian “fixed point,” )であり、エコロジカル瓦解、世界経済的・社会的カオス等のゼロ点である。もしそれが無限に延期されても、このゼロ点は、われわれの現実がそれに為すがままになって向かい続ける「潜在的アトラクター」である。

未来のカタストロフィと闘う方法は、このディストピア的「固定点 point fixe」に向けての「駆動力drifting」を中断する行為を通してのみ存在する。行為とは、「来るべきラディカルな他者性を生み出すリスクを引き受けることである。

われわれはここで「前途に見込みがない(未来はないno future)」というスローガンが如何ようにも解釈されることを見る。それは、より深い水準では、変化の不可能性を示しているのではない。そうではなく厳密に、われわれに覆い被さっているカタストロフィ的「未来」を突破するために闘争すべきであることを示している。それによって、「来るべきべき」新しい何ものかのための空間を開くのである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

潜在的アトラクターとあるが、これはラカン派的には穴としての対象a、ブラックホールである。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

ラカン派でしばしば使用されるトーラス円図の、中心がこの潜在的アトラクター(固定点)、左項が斜線を引かれた過去、右項が斜線を引かれた未来としてもよいかもしれない。



とはいえ若干の差異はある。デュピュイの一番新しい提示は、わたくしの知るかぎりで、次のものである。




彼のこういった思考はかつてからほとんど変わっていない。

プロジェクトの時間(投企の時間 le temps du projet )は支配的議論の原理を覆す。過去は取り消せないものではない。過去は固定化されていない。現在の行為が、過去の上に反事実的力をもつ。[Le passé n'est pas irrévocable, il n'est pas fixe, l'action présente a un pouvoir contrefactuel sur le passé.](Jean-Pierre Dupuy, 「啓蒙カタストロフィ主義のために ーー不可能性が確実になるとき Pour un catastrophisme éclairé Quand l'impossible devient certain」2004ーー邦題「ありえないことが現実になるとき―賢明な破局論にむけて」)

ーー「contrefactuel 反事実的」とは意味が掴みにくく訳しにくい言葉だが、まずは「起こらなかったが、起こりえた事についての思考」と捉えたらよいだろう。

ジジェク2019にはデュピュイの思考の核の簡潔なまとめがある。

標準的視野によれば、過去は固定化されている[the past is fixed]。既に起こったことが起こったのであり、やり直しはきかない。そして未来は開かれている[the future is open]。未来は予期できない偶然性によって決まる。

われわれが提案していることは、この標準的視野の転倒である。すなわち過去は開かれている[the past is open]。過去は遡及的な再解釈に開かれている。他方、未来は閉じられている[the future is closed]。その理由はわれわれは(因果的)決定論の世界に生きているから。これは、未来は変えられないことを意味しない。それが意味するのは、未来を変えるためには、われわれは先ず過去を(「理解する」のではなく)変化させなければならないことだ。過去を再解釈すること。過去の支配的視野によって暗示された未来とは別の、異なった未来に向けて開かれているように過去を再解釈すること。(ジジェク、Hegel, Retroactivity & The End of History, 2019)




過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(中井久夫「統合失調症の精神療法」初出1989年『徴候・記憶・外傷』所収)


さきほど画像として貼り付けたデュピュイ2018年と同じ小論には、『ツナミ』にあらわれたギュンター・アンダースの「ノアの寓話」がふたたび強調されて出現している。

ここでは要約してその部分を示す。

世界は滅びるという予言が聞き入れられないことに落胆したノアは、ある日、身内を亡くした喪の姿で街に出る。ノアは古い粗衣をまとい、灰を頭からかぶ った。これは親密な者を失った者にしか許されていない行為である。誰が死んだのかと周りの者たちに問われ、「あなたたちだ、その破局は明日起きた」と彼は答える。「明後日には、洪水はすでに起きてしまった出来事になっているだろうがね。洪水がすでに起きてしまったときには、今あるすべてはまったく存在しなかったことになっているだろう。洪水が 今あるすべてと、これからあっただろうすべてを流し去ってしまえば、もはや思い出すことすらかなわなくなる。なぜなら、もはや誰もいなくなってしまうだろうからだ。そうなれば、 死者とそれを悼む者の間にも、なんの違いもなくなってしまう。私があなたたちのもとに来たのは、その時間を裏返すため、明日の死者を今日のうちに悼むためだ。明後日になれば、手遅れになってしまうのだからね」。その晩、大工と屋根職人がノアの家を訪れ、「あの 話が間違いになるように」箱舟の建造を手伝いたいと申し出る。……(ギュンター・アンダース、ノアの寓話)

デュピュイの「プロジェクトの時間 Le temps du projet」の核心とは、ギュンター・アンダースが記した《私があなたたちのもとに来たのは、その時間を逆転させるため、明日の死者を今日のうちに悼むためだ If I have come before you, it is to reverse time, it is to weep today for tomorrow's dead.》における「時間を裏返す」ことである。

そのときはじめて行為が生まれる。

行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもある。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもある。(ジジェク「メランコリーと行為」2001年)

日本において、大洪水やらといっているマルクス研究者やら「投企の時間」がお好きらしいデュピュイファンのインテリ諸君は、オハナシしているだけじゃなくって、2040年あたりに財政的メルトダウンのディストピア的「固定点 point fixe」を設定してみたらどうかね、そうしたら「理論的には」行為が起こるよ。

未来のイメージを得ることが必要だ。そのイメージは、嫌悪を催させるのに足るほどカタストロフィ主義的で、実現を防ぐための行動を開始させるのに足るほど信憑性がなければならない。ただし、実現が防ぎうるのは、不測の事態が起こる場合を除く」デュピュイ「アポカリプスを前にしての合理的選択 Rational Choice before the Apocalypse」2007年)




デュピュイの提唱する破局への対処法…。まずそれが運命であると、 不可避のこととして受けとめ、そしてそこへ身を置いて、 その観点から (未来から見た) 過去へ遡って、 今日のわれわれの行動についての事実と反する可能性(「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入することである。
われわれは受け入れてなくてはならない、可能性の水準においては、われわれの未来は運命づけられており、カタストロフィは起こるだろうことを。それはわれわれの運命である。そしてこの受容の背景に対して、運命自体を変える行為の遂行を動員すること。このようにして、過去のなかに新しい可能性を挿入するのだ。

逆説的ながら、大惨事をさけるための唯一の道は、それを不可能なこととして受け入れることである。バディウにとってもまた、出来事への忠誠性の時間は、前未来 futur antérieurである。つまり時間を超えて未来に追いつき、向きあって、実現してほしい未来がすでにそこにあるかのように、いま行動するということだ。(ジジェク 『ポストモダンの共産主義』 2009年)

ーーま、ジジェクもこう何度も繰り返していて実際に行為が生まれているわけではないが、彼は常に行為へむけて人々を挑発している思想家であることはまちがいない。

財政的ディストピアにかんして言えば、行政側にまかしておいたらこんな案しか出てこないよ。

出所:第1回 産業構造審議会 2050経済社会構造部会 2018.9


これを実現させないためには、2040年時点で概算2000万人ほどの移民が最低限必要ナノデアル(さきほどの人口構成推移表を参照されたし。移民にて2000万人現役世代が増えても、2020年の水準に戻るのみである[高齢者一人当たりを支える労働人口、1.9人])。

(ま、現在の若い諸君は将来75歳まで働くのがお好きなのかもしれないから、この案を全面的に否定するつもりはないが。)

移民なしだったら実際のところこれしか手がないのではないか。

かりに近い将来、消費税等の増税が効果的に導入できたり(経済学者や行政当局からしばしば口にされるのは消費税25%相当の増税である)、あるいは良質のインフレなどが僥倖的に実現して現在の1000兆円超の債務の問題が帳消しになったって(インフレ税)、人口構成上の問題は決して消えない。つまり現役世代はほとんどマンツーマン近くの人口割合になってしまう高齢者人口を支えるために現在以上の過重な負担をしなくてはならない。

移民がいやだったら高齢者を中心にしたコミューン社会のビジョンしかないね、どうだい、マルキスト諸君? 高齢者一人当たり仕送り10万円(年金だけではなく健康保険も含め)ぐらいでなんとか生きながらえてもらえる新しき「姥生き山的」共同生活コミューンさ。世界的な財政的経済的炉心融解がある前に、日本が先立って新しいモデルを提案するよい機会じゃないだろうかね。


六月  茨木のり子  

どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終わりには一杯の黒ビール
鍬を立てかけ 籠をおき
男も女も大きなジョッキをかたむける

どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮れは
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

どこかに美しい人と人の力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる


こういった話はとっくのまえから、たとえば世界的にもエコノミスト誌等で示されていることだが、デュピュイ曰くの《たとえ知識があろうとも、 それだけでは誰にも行動を促すことはできない》ゆえに、事実上、現在まで放りっぱなしなのである。

日本の高齢者比率は長いあいだ世界最高を維持しており、今なお比率は高まっている。2010~50年期に、日本の被扶養者率は40ポイント上昇し、2050年までには、被扶養者数と労働年齢の成人数が肩を並べるだろう。過去を振り返っても、このような状況に直面した社会は存在しない。(『2050年の世界 英『エコノミスト』誌は予測する』2012年)