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2019年10月20日日曜日

原ナルシシズムと原マゾヒズムの相違はなにか


去勢ー出産とは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
去勢以外の真理はない。il n'y a de vrai que la castration  (Lacan, S24, 15 Mars 1977)
原ナルシシズム
原マゾヒズム  
出生とともに喪われる絶対的な自己充足をもつ原ナルシシズム(フロイト)
原初に喪われた対象としてのモノ=母という原マゾヒズムの対象(ラカン)
母との分離による喪われた自己身体への原ナルシシズム的リビドー備給(フロイト)
死への道という原マゾヒズム (ラカン)
原マゾヒズム=自己破壊欲動=死の欲動(フロイト)


………

後期フロイト、後期ラカン、そしてラカンの最大の注釈者ミレールを読むと、次のことに気づく(わたくしの知りうる範囲でという意味であるが)。

フロイトは、精神分析において決定的な役割を果たしたものとして、原ナルシシズムを強調し、ラカンは、原マゾヒズムを強調している。

ミレールは不思議なことに原マゾヒズムについて近年はほとんど触れていない(ネット上で拾える文献に限っては)。そして主にナルシシズム(自体性愛=自己身体の享楽)、あるいは去勢を強調している。《去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。》 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)、《去勢は、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。》(Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)

ここでの問いは、原ナルシシズムと原マゾヒズムの相違はなにかである。

ナルシシズムとは自己愛、マゾヒズムは他者に対して受動的なポジションに置かれることとするなら、一見まったく異なった意味をもっていると通常は思われる。

だが実はどちらとも去勢にかかわる。たとえばフロイトはこう言っている。

疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、第7章、死後出版1940年)

自己身体だと思っていた母の乳房が、原ナルシシズム的リビドー備給の対象なのである。

フロイト、ラカン両者にとって、原去勢とは、出産外傷である。

出産行為 Geburtsakt は、それまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴するsymboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象représenteしている。(ラカン、S11、20 Mai 1964)

フロイトはこの出生=原去勢によって原ナルシシズム状態が喪われるとしている。

人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズム absolut selbstgenügsamen Narzißmusから、不安定な外界の知覚に進む。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)

他方、ラカンににとって原マゾヒズムとは喪われた対象にかかわる。

反復は享楽回帰に基づいている 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない 。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

喪われた対象とは、定義上、去勢によって喪われた対象である。ようするに原ナルシシズムも原マゾヒズムも原去勢にかかわるのである。

喪われた対象としてのモノについて、前期ラカンは《モノは母である。das Ding, qui est la mère》 ( S7, 1959)といい、後期ラカンは、《フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ》(S23, 1976)と言った。

ラカンはさらにこう言っている。

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)

原マゾヒズムとは、究極的にはこのモノとしての原母の現実界的穴に対して受動的立場に置かれてその引力の力に吸収されようとすることと捉えうる(フロイトとって引力とはエロスのことである)。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 」であり…「原穴の名 」である。
Mère, au fond c’est le nom du premier réel, […]c’est le nom du premier trou (コレット・ソレール、Colette Soler, Humanisation ? , 2014)

以下、文献を列挙するが、原マゾヒズムあるいは原ナルシシズム的リビドーとは両方とも、出生によって喪われた自己身体を取り戻す運動とすることができるように思う。別の言い方なら、母胎内における絶対的原ナルシシズム状態を回復しようとする運動である。

この絶対的原ナルシシズム状態とは、次の文に依拠するなら、絶対的原自閉状態でもある。

ナルシシズム的とは、ブロイラーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう。narzißtischen — Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)



出生によって喪われた絶対的原ナルシシズム
人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。
 haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt  (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)
自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
エスや超自我のなかにリビドーの振舞いの何ものかを言うのは困難である。リビドーについてわれわれが知りうるすべては、自我に関わる。自我のなかにすべての利用可能なリビドー量 Betrag von Libido が蓄積される。われわれはこれを絶対的な原ナルシシズムbesetzen, narzisstische Libido と呼ぶ。この原ナルシシズムは、自我がリビドーを以て対象表象 Vorstellungen von Objekten に備給 besetzenし、ナルシシズム的リビドー narzisstische Libido を対象リビドー Objektlibido に移行 umzusetzen させるまで続く。そしてその対象リビドーから原形質物 Protoplasmakörperの偽足のように、またもう一度退く。唯一、盲目的な愛vollen Verliebtheitに陥った時にのみ、リビドーの主要な量は対象に転移übertragenし、対象はある範囲で自我の場に置かれる。生において重要なリビドーの特徴は、その可動性である。すなわち、ひとつの対象から別の対象へと容易に移動する。これは、特定の対象へのリビドーの固着と対照的である。リビドーの固着 Fixierung der Libidoは生涯を通して、しつこく持続する。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
喪われた子宮内生活、あるいは喪われた母
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間の子宮内生活 Die Intrauterinexistenz des Menschen は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界realen Außenwelt の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)
身体の上への刻印(固着)とナルシシズム的屈辱
幼児期に起こる病因的トラウマ ätiologische Traumenは、…自己身体の上の経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen であり、…疑いなく、初期の自我の傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残滓Reste が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)
分離された自己身体への原ナルシシズム的リビドー備給
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、第7章、死後出版1940年)
精神分析における決定的役割をもつナルシシズム的リビドー
(精神分析において)決定的な役割を演じたのは、ナルシシズム概念が導入されたことである。すなわち、自我自身がリビドーに備給されている besetzt こと、事実上、自我はリビドーのホームグラウンド ursprüngliche Heimstätte であり、自我は或る範囲で、リビドーの本拠地 Hauptquartier であることが判明したことである。

このナルシシズム的リビドー narzißtische Libido は、対象に向かうことによって対象リビドー Objektlibido ともなれば、ふたたびナルシシズム的リビドーの姿に戻ることもある。
ナルシシズムの概念が導入されたことにより、外傷神経症 traumatische Neurose、数多くの精神病に境界的な障害 Psychosen nahestehende Affektionen、および精神病自体の精神分析による把握が可能になった。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年)





原マゾヒズム=自己破壊欲動=死の欲動=享楽
フロイト
ラカン
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!⋯⋯⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
われわれにとって唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。(ラカン、S13、June 8, 1966)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance  。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしかえない。…ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうる。…この退行が起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

享楽は現実界である。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)






自己身体の享楽=原ナルシシズム=自体性愛=自閉症的享楽
鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) [去勢]という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エネルギーのなかに備給されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く備給されたまま reste investi profondément である。

ーー自己身体の水準において au niveau du corps proper

ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S1005 Décembre 1962
自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. Jacques-Alain Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 02/05/2001) 
ナルシシズムの深淵な真理 la vérité profonde de ce que nous appelons le narcissismeである自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)


去勢についての文献は、「去勢以外の真理はない」を参照のこと。