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2019年10月29日火曜日

天秤的恋と風呂敷的恋の相違

「サピア・ウォーフの仮説 Sapir-Whorf hypothesis」というのがあって、バルトが日本文化論『記号の国』で触れているので知ったのだが、その仮説とは「人間の思考はその人間の母語によって決定される」 、「言語が異なれば、その話者が持つ外界認識も異なる」というものである。

人間は単に客観的な世界に生きているだけではなく、また、通常理解されるような社会的行動の集団としての世界に生きているだけでもない。むしろ、それぞれに固有の言語に著しく依存しながら生きている。そして、その固有の言語は、それぞれの社会の表現手段となっているのである。こうした事実は、“現実の世界”がその集団における言語的習慣の上に無意識に築かれ、広範にまで及んでいることを示している。どんな二つの言語でさえも、同じ社会的現実を表象することにおいて、充分には同じではない。. (Sapir, Mandelbaum, 1951)

もっともこの考え方はニーチェに既にある、と言ってよい。

ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。…(ニーチェ『善悪の彼岸』1886年)

バルトは『記号の国』を上梓した2年後の『テキストの快楽』で、ニーチェを引用しつつこう言っている。

《……それぞれの国民は、自分の頭上に、正確に分割された概念の空を持っている。そして、真理の要請のもとに、以後、すべて概念の神は自分の天空以外の場所では求められないようになることを望んでいる》(ニーチェ)。すなわち、われわれは、皆、言語活動の真実の中に、つまり、それの地域性の中に捉えられており、近隣同士の恐るべき敵対に引き込まれているのだ。(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)

『記号の国』にはこうある。

(私たちの言語では)主体と神は、追いはらっても追いはらっても、もどってくる。わたしたちの言語のうえに跨がっているからである。これらの事実やほかのさまざまな事実などから、確信することになる。社会を問題にしようと主張するときに、そうするための(道具になる)言語の限界そのものをまったく考えずに問題にしようとしても、いかに愚かしいことであろうか、と。それは、狼の口のなかに安住しながら狼を殺そうと望むようなものだからである。したがって、わたしたちにとっては常軌を逸している文法を習ってみること。そうすれば、すくなくとも、わたしたちの言葉のイデオロギーそのものに疑念をいだくようになる、という利点はもたらされるであろう。(ロラン・バルト『記号の国』1970年)

《狼の口のなかに安住しながら狼を殺そうと望むようなもの》とあるが、日本人と欧米人では、違った狼の口に住っているはずである。

次の文で、バルトは日本語を《言葉の空虚な大封筒》(パロールの空虚な大封筒 une grande enveloppe vide de la parole)と言っているが、これは(バルトは時枝の名に触れてはいないにもかかわらず)明らかに「時枝の風呂敷」のことである。

日本語には機能接尾辞がきわめて多くて、前接語が複雑であるという特徴から、つぎのように推測することができる。主体は、用心や反復や遅滞や強調をつうじて発話行為を進めてゆくのであり、それらが積み重ねられたすえに(そのときには単なる一行の言葉ではおさまらなくなっているだろうが)、まさに主体は、外部や上部からわたしたちの文章を支配するとされているあの充実した核ではなくなり、言葉の空虚な大封筒のようになってしまうのである、と。したがって、西欧人にとっては主観性の過剰のようにみえること(日本人は、確かな事実ではなく印象を述べるらしいから)も、かえって、空虚になるまで細分化され微粒化されて言語のなかに主体が溶解し流出してゆくようなこといなってしまうのである。(『記号の国』)

欧米語と日本語の相違とは、天秤と風呂敷である。

時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である! (私はこの指摘を知って雷に打たれたごとく感じた)。「行く」という行為、「美しい」という形容が同心円の中心にある。対人関係や前後の事情によって「誰が?」「どこへ?」「何が?」「どのように?」が明確にされていない時にのみ、これを明言する。(中井久夫「一つの日本語観」『記憶の肖像』所収)

ここで「乞いしてるわ」で記した恋の話をしよう。一神教文化と多神教文化では同じ恋を語っていてもまったく異なった事態を言っている可能性があると疑ったことはないのか。たとえば天秤的恋と風呂敷的恋の相違があるのではないか、と。

わたくしが言いたいのは、西欧の詩文等がいかに美しかろうと、日本語環境で生きてゆくつもりなら、西欧かぶればかりでは現実乖離した、ただ夢見るばかりの人生になってしまうのではないか、ということである。

これは欧米の詩文を捨て去り日本語の詩文ばかりを読めといっているわけではまったくない。人は、光学的欺瞞を避けるためにパララックスが必要である、ということを言っている。

以前に私は一般的人間理解を単に私の悟性 Verstand の立場から考察した。今私は自分を自分のでない外的な理性 äußeren Vernunft の位置において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視点 Gesichtspunkte anderer から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差 starke Parallaxen(パララックス) を生じはするが、それは光学的欺瞞 optischen Betrug を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢Träume eines Geistersehers』1766年)

このパララックスとは、別の言い方なら、「同時に自己であり他人である力」というユーモアの精神である。

たとえばこう読もう。

恋せじと御手洗河にせしみそぎ 神はうけずぞなりにけらしも(古今集・恋一・501).

かしこにひとの四年居てあるとき清くわらひけるそのこといとゞくるほしき(宮沢賢治「恋」)

けやきの木の小路を/よこぎる女のひとの/またのはこびの/青白い/終りを/⋯/路ばたにマンダラゲが咲く(西脇順三郎『禮記』)

宇野さんの小説の何か手紙だったかの中に「女がひとりで眠るということの佗しさが、お分りでしょうか」という意味の一行があった筈だが、大切な一時間一時間を抱きしめている女の人が、ひとりということにどのような痛烈な呪いをいだいているか、とにかく僕にも見当はつく。…

…女の人にとっては、失われた時間というものも、生理に根ざした深さを持っているかに思われ、その絢爛たる開花の時と凋落との怖るべき距りに就て、すでにそれを中心にした特異な思考を本能的に所有していると考えられる。事実、同じ老年でも、女の人の老年は男に比べてより多く救われ難いものに見える。思考というものが肉体に即している女の人は、その大事の肉体が凋落しては万事休すに違いない。(坂口安吾「青春論」1942年)


そしてこう読めばよいのである。


恋愛は拷問または外科手術にとても似ているということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。(⋯⋯)たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは体刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である。(ボードレール、Fusées) 
純粋に愛することは、隔たりへの同意である。自分と愛するものと間にある隔たりを何より尊重することである Aimer purement, c'est consentir à la distance, c'est adorer la distance entre soi et ce qu'on aime. (シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵 La pesanteur et la grâce』)