穴が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.
…すべての穴は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第9節1885年)
“Lust”は手元の手塚富雄訳では「悦楽」と訳されているが、「穴」と訳するとその意味が鮮明化する。
フロイトは”Libido”は”Lust”だと言っている。
学問的に、リビドーLibido という語は、日常的に使われる語のなかでは、ドイツ語の「Lust」という語がただ一つ適切なものである。(フロイト『性欲論』1905年ーー1910年註)
そして”Libido”は”jouissance”である。
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
前回示したように、「享楽は穴である la jouissance est le trou」とすることができる。「享楽は去勢」であり、「去勢は穴」である。ゆえに「享楽は穴」である。
享楽は去勢である。la jouissance est la castration.(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽欠如の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi. […]c'est la façon la plus élémentaire de comprendre […] la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 9/2/2011)
巷間でしばしば使用される「享楽」という語はほとんどの場合「剰余享楽」のことである。たとえば日本では享楽社会論なる題をもった書物がある。あれは剰余享楽社会論であり、つまりは穴埋め社会論である。このことに注意すれば穴と穴埋めという語でほとんどが解決する。
対象aは、「喪失・享楽控除の効果」と「その喪失を穴埋めする剰余享楽の欠片」の効果の両方を示す。l'objet a qui inscrit à la fois l'effet de perte, le moins-de-jouir, et l'effet de morcellement des plus-de-jouir qui le compensent. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その穴埋めとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)
話を戻せば、享楽は欲動のリアルのことであり、この観点からも穴である。
欲動のリアルle réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
以上により Lust = Libido = jouissance = trou である。
まったき厳密さで常にこうだと言うつもりはないが、ほとんどこうであるとが言える。少なくともいままで曖昧に使用されてきたこれらの言葉を穴に還元すれば多くのことがスッキリと把握しうる。
たとえばこうである。
死への道は、穴と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
穴の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)
そしてふたたびニーチェである。
穴が欲しないものがあろうか。穴は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。穴はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が穴のなかに環をなしてめぐっている。――
_was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌 Das Nachtwandler-Lied 」第11節)
ここでこう補おう、ーー《完全になったもの、熟したものは、みなーー死ぬことをねがう!"Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!" 》(酔歌 」第9節)
いやあ、まことにまことにピッタンコである。ミナサンも蚊居肢散人のように読む技術を学ばねばナリマセン。
ここで読む技術の劣っている方々のために、ラカンを中心にもういくつかのサンプルを掲げておきマス。
フロイトならこうデス。
ミレールならこうデス。
ーー《身体は穴である。corps…C'est un trou》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
ラカンに戻レバ、
ーー《現実界は…穴=トラウマを為す[fait « troumatisme ».]》(Lacan, S21, 19 Février 1974)
読むことを技術として稽古するためには、何よりもまず、今日ではこれが一番忘れられているーーそしてそれだから私の著作が「読みうる」ようになるまではまだ年月を要するーーひとつの事だ必要だ。――そのためには、読者は殆んど牛にならなくてはならない。ともかく「近代人」であっては困るのだ。そのひとつの事というのはーー反芻することだ……(ニーチェ『道徳の系譜』序 第8節)
ここで読む技術の劣っている方々のために、ラカンを中心にもういくつかのサンプルを掲げておきマス。
大他者の穴[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
フロイトならこうデス。
すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれは穴 Libidoと名付ける。[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden](フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
ミレールならこうデス。
大他者の穴…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)
ーー《身体は穴である。corps…C'est un trou》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
純粋な身体の出来事としての女性の穴 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)
穴は身体の出来事である[ la jouissance est un événement de corps]…穴はトラウマの審級にある [l'ordre du traumatisme] 。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
ラカンに戻レバ、
穴は現実界である [la jouissance c'est du Réel]。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
ーー《現実界は…穴=トラウマを為す[fait « troumatisme ».]》(Lacan, S21, 19 Février 1974)
私はこの穴Ⱥのシニフィアン[S(Ⱥ)]にて、女性の穴に他ならないものを示している。[ce S(A) je n'en désigne rien d'autre que la jouissance de Lⱥ femme](ラカン、S20、13 Mars 1973)
以上にてキットおかわりにったことでしょう。享楽=エロス=穴デス。
反復は穴回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
冒頭に示したように 《すべての穴は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! 》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第9節1885年)デス。
したがって、永遠回帰とは穴回帰とすべきではナイデショウカ?
何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の穴回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。総体としてに真の生である das wahre Leben als das Gesamt。生殖を通した生 Fortleben durch die Zeugung、セクシャリティの神秘を通した durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit 生である。生殖による、性の密儀による総体的永生としての真の生である。das wahre Leben als das Gesamt. -Fortleben durch die Zeugung, durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit. (ニーチェ「私が古人に負うところのもの」『偶像の黄昏』1888年)
この書物はごく少数の人たちのものである。おそらく彼らのうちのただひとりすらまだ生きてはいないであろう。それは、私のツァラトゥストラを理解する人たちであるかもしれない。今日すでに聞く耳をもっている者どもと、どうした私がおのれを取りちがえるはずがあろうか? ――やっと明後日が私のものである。父亡きのちに産みおとされる者もいく人かはいる。…
いざよし! このような者のみが私の読者、私の正しい読者、私の予定されている読者である。残余の者どもになんのかかわありがあろうか? ――残余の者どもはたんに人類であるにすぎない。――人は人類を、力によって、魂の高さ Höhe der Seeleによって、凌駕していなければならない、――軽蔑Verachtungによって・・・(ニーチェ「反キリスト」序言)
穴の底下りをしていたら偶然にも魂の高みにでてしまったという「錯覚に閉じ篭っている」蚊居肢子にとって、肝心なのは上にも引用した「穴の弁証法」デス。
穴の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)
人は土台を問うことを忘れてしまってはナリマセン。土台とはプラトンのコーラ=母胎であり、女ノ穴デス。
いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ。(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)
女ノ穴には二種類あることにお気をつけを!
象徴界の中の穴
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現実界は見せかけ(象徴界)のなかに穴を為す。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant. (Lacan, S18, 20 Janvier 1971)
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現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
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真の穴
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症状(固着としての症状)は、現実界について書かれることを止めない。le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (Lacan, La Troisième, 1974)
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欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt (=固着)との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
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これはちょっと難しいですから無視していただいてよろしいです→参照:現実界のオートマトン)
蚊居肢子も最近になってようやくなんとなくつかみかけてきたことでマッタキ自信をもつにはいたっていません。大切なのは二つの穴があるということです。それさえなんとかわかっていたらヨロシイデス。
さる元巫女の麗しき女性の方からすこし前プレゼントをいただしきましたが、この穴はどちらの穴なのかを蚊居肢子はいまだ思案中デ結論ガデマセン。
でもどんな穴だって弁証法をすれば死にいたるでせう。
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir 2, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte ](Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
ラカンはセミネール11で《二つの欠如が重なり合う Deux manques, ici se recouvrent》といっているけれど、これは後期ラカンからいえば、たぶん二つの穴です(ほんとは最低限四つぐらいは穴があるのだけれどーー象徴的穴、想像的穴、現実界的穴、原穴ーー、いまは厳密さを期していません)。
一方の欠如は、《主体の誕生 l'avènement du sujet 》によるもの。つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢による欠如。そして、《この欠如は別の欠如を覆うようになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》といっています。
この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》、《生存在の誕生 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された《己れ自身の部分として喪失した欠如 Ce manque c'est ce que le vivant perd de sa part de vivant 》とあります。この喪失を胎盤、あるいは羊膜(ラメラ)といっています。
ここに穴の弁証法があるのです。女の穴が象徴界の穴であろうと、その先には《すべてを呑み込む湾門であり裂孔le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer 》としてのブラックホールがあるノデス。ブラックホールとは中国語では黒洞です。
外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。(芥川龍之介『羅生門』)
外には黒洞ばかりが歩いているのです。
女というものは存在しない。女たちはいる。。La femme n'existe pas. Il y des femmes,(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)
いったい巫女の穴とはどの穴ナノダロウカ?
蚊居肢子の頭脳ではいまだ解決不能なのです・・・
なにはともあれ人の本来の生において原穴が大切デス。
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? », 2014セミネール)
「女が欲することは、神も欲する。Ce que femme veut, Dieu le veut.」(ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838)、これは「母が欲することは、神も欲する Ce que la maman veut, Dieu Ie veut」と読み換えるべきである。(PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains, A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex , 2009)
原穴の根には、「種がすべて」がアリマス。
十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放 letzten Befreiung と非責任性Unverantwortlichkeit への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年)
すなわち人はみな穴回帰運動をもっているノデス。
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯穴回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
人は土台を問うた老子を読むべきではナイデショウカ?
谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章「玄牝之門」)
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子「玄牝之門」福永光司訳)
老子なんかイヤダワ、とおっやられる方は、次善の策としてマンダラゲの詩人を読むことをおすすめシマス。
時間はとまつてしまった
永遠だけが残ったこの時間のない
ところに顔をうずめてねむつている
「汝を愛するからだ おお永遠よ」
もう春も秋もやつて来ない
でも地球には秋が来るとまた
路ばたにマンダラゲが咲く
ーー西脇順三郎「坂の五月」