2019年10月4日金曜日

ツイッターってのはホントにやめたほうがいいよ

Xについて何か発言すれば、意見を言えば、自分はちゃんとXを意識している、Xについて考えている、他者に向かってそう言いたい人が、ウエブのおかげで増えているのかと思う。行動はしなくても、コトバにすれば免責される、そんな気持ちがひそんでるんじゃないかな。(谷川俊太郎、2015年12月24日)
あらゆる言葉のパフォーマンスとしての言語は、反動的でもなければ、進歩主義的でもない。それはたんにファシストなのだ。なぜなら、ファシズムとは、なにかを言うことを妨げるものではなく、なにかを言わざるを得なくさせるものだからである。(ロラン・バルト「コレージュ・ド・フランス開講講義」--『文学の記号学』1978年)

ま、ツイッターってのはホントにやめたほうがいいよ、あの装置はことさら《なにかを言わざるを得なくさせるもの》だから。せいぜい被災者情報をすばやく拡散できるメリットぐらいだな。そんなものはほかの仕組みでできる。

鳥語装置がファシズム装置だととっくに気がついている「まともな」インテリたちがーーまともなインテリってのはいまだ数少ないかもしれないがーーツイッターやり続けているのは、販促活動にすこぶる役に立つからでしかないよ。

次善の策として全員匿名システムにしたらどうだろうな? そしたらファシズム的相や販促活動的相の醜悪さはいくらか軽減されるかも。これは高橋悠治が似たようなことをいっていたが。

ツイートの別な使い方。「ボット」のように、自由間接話法の、だれとも知れない声の仮の置き場所として使えないか(壁の向うのざわめき 高橋悠治)

とはいえ匿名というのは逆の相もあるからな。

一般的にいって、匿名状態で解放された欲望が政治と結びつくとき、排外的・差別的な運動に傾くことに注意しなければならない。 (柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム 」2006)

RTやらフォヴォシステム自体が悪いんだろうか。ま、はっきりしたことを言うつもりはないが、いまの鳥語装置は醜悪な面ばかりがボクには目につくね。

ネトウヨだけの問題じゃないんだ。むしろ最近ではリベラルインテリがネトサヨに成り下がってその「大衆扇動的=ファシズム的」要素の醜悪さが際立って露顕しているようにみえる(このところ山本太郎やら消費税やらあいトリやらをめぐってひさしぶりにツイート、というかTWILOGでこっそり眺めてみた印象が主だから、おそらく見方が偏っているだろうことを祈るがね)。



大衆は怠惰で短視眼である die Massen sind träge und einsichtslos。大衆は、欲動を断念することを好まず、いくら道理を説いてもその必要性など納得するものではなく、かえって、たがいに嗾しかけあっては、したい放題のことをする。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』1927年ーー旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』第1章)
集団にはたらきかけようと思う者は、自分の論拠を論理的に組みたてる必要は毛頭ない。きわめて強烈なイメージをつかって描写し、誇張し、そしていつも同じことを繰り返せばよい。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動 Affektivität は異常にたかまり、彼の知的活動 intellektuelle Leistung はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止 Triebhemmungen が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。

この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原初的集団 primitiven Masse における情動興奮 Affektsteigerungと思考の制止 Denkhemmung という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)
大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」1960年『考えるヒント』所収)


ーーだいたい短い紋切型の言葉で(大きな問題について)何が言えるものでもないよ、《短く書こうとするとアフォリズムになりやすい 気のきいたことばは疑わしい》(ことばを区切る 高橋悠治)


あるツイートが信頼されるのはすぐれた指摘をしているせいではまったくない。そうではなく「記号の記号」の流通の海を巧みに泳いでいる者のみが信用される。

大衆化現象は、まさに、…階層的な秩序から文化を解放したのである。そしてそのとき流通するのは、記号そのものではなく、記号の記号でしかない。(……)読まれる以前にすでに記号の記号として交換されているのである。(……)

問題は、欠落を埋める記号を受けとめ、その中継点となることなのではなく、もはや特定の個人が起源であるとは断定しがたい知を共有しつつあることが求められているのである。新たな何かを知るのではなく、知られている何かのイメージと戯れること、それが大衆化現象を支えている意志にほかならない。それは、知っていることの確認がもたらまがりなす安心感の連帯と呼ぶべきものだ(……)。そこにおいて、まがりなりにも芸術的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない、ともにその名を目にしてうなずきあえる記号であれば充分なのである。だから、それを解読の対象なのだと思ってはならない。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)

ーー蓮實の「凡庸な芸術家の肖像」とは、「凡庸な知識人の肖像」と読み替えるべきである。

ほかにもたとえばツイッターにおいて冒頭に引用した谷川俊太郎が《行動はしなくても、コトバにすれば免責される》等と言っているようなことがことさら目立つな、これは別の言い方なら似非能動性装置だ。

危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』2006年)

参加を拒否すること、ひとりでいること、これしかないな。

「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。 孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。(辺見庸講演「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」2013.10.19)

つまり日本的共感の共同体のおみこしの熱狂と無責任から免れるためには、ひとりでいることしかない。

国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)

《私は人を先導したことはない。むしろ、熱狂が周囲に満ちると、ひとり離れて歩き出す性質だ》(古井由吉『哀原』女人)という態度がことさら日本では必要だね。

サビナは学生時代、寮に住んでいた。メーデーの日は全員が朝早くから行進の列をととのえる集会場に行かねばならなかった。欠席者がいないように、学生の役員たちは寮を徹底的にチェックした。そこでサビナはトイレにかくれ、みんながとっくに出ていってしまってから、自分の部屋にもどった。それまで一度も味わったことのない静けさであった。ただ遠くからパレードの音楽がきこえてきた。それは貝の中にかくれていると、遠くから敵の世界の海の音がきこえてくるようであった。

チェコを立ち去ってから二年後、ロシアの侵入の記念日にサビナはたまたまパリにいた。抗議のための集会が行なわれ、彼女はそれに参加するのを我慢することができなかった。フランスの若者たちがこぶしを上げ、ソビエト帝国主義反対のスローガンを叫んでいた。そのスローガンは彼女の気に入ったが、しかし、突然彼らと一緒にそれを叫ぶことができないことに気がつき驚いた。彼女はほんの二、三分で行進の中にいることがいたたまれなくなった。

サビナはそのことをフランスの友人に打ちあけた。彼らは驚いて、「じゃあ、君は自分の国が占領されたのに対して戦いたくないのかい?」と、いった。彼女は共産主義であろうと、ファシズムであろうと、すべての占領や侵略の後ろにより根本的で、より一般的な悪がかくされており、こぶしを上につき上げ、ユニゾンで区切って同じシラブルを叫ぶ人たちの行進の列が、その悪の姿を写しているといおうと思った。しかし、それを彼らに説明することができないだろうということは分かっていた。そこで困惑のうちに会話を他のテーマへと変えたのである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』1984年)

ま、クンデラ=サビナのいう《こぶしを上につき上げ、ユニゾンで区切って同じシラブルを叫ぶ人たちの行進の列》が根源にある悪だとまで言うつもりはない。つまりデモに参加するな、などと言うつもりは毛ほどもない。だがデモの熱狂を常に疑うことだな。それが辺見庸の言っている《みんなといても「ひとり」を意識しましょう》だ。

最後にもう一度バルトを引用しよう。

彼は喜んで政治的《主体》になってもいいと思う。が、政治的《話し手》はご免だ(《話し手》とは、自分の弁説をよどみなく繰り出し、述べ立て、同時にそれが彼の言述であることを告示し、それに署名しておく人間のことだ。)そして、自分の《反復される》一般的な言述から政治の現実をはがし取ることが彼にはどうしてもできないから、けっきょく政治性から彼は排除されているのだ。しかし彼は、少なくとも、排除されているという事実を、自分が書くものの《政治的》意味につくり変えることができる。さながら彼は、ある矛盾現象を体現する歴史的な証人であるとでもいうかのように。それは、《敏感で、貪欲で、沈黙した》政治的主体(これらの修飾語群を分離させてはいけない)、という矛盾現象である。

政治的な言述ばかりが、反復され、一般化し、疲弊するわけではない。どこかに言述の突然変異がひとつ生じると、たちまちそこに、いわば公認ラテン語訳聖書が成立し、そのあとに、動きを失った文がぞろぞろお供について、うんざりさせる行列ができるものときまっている。その現象は珍しくもないが、それが政治的言述に現れたとき、とりわけ彼にとって許しがたいものと思われるのだ。なぜかというと、政治的言述における反復は、《もうたくさんだ》という感じを与えるからである。政治的な言述は、自分こそ現実に対する根本的な知識あるは科学であるという主張を押しつけるので、私たちのほうでは、幻想のあやかしによって、その政治的言述に最終的な権力を認めてしまう。それは、言語活動をつや消しに見せ、すべての討論をその実質の残滓に還元してしまうという権力である。そうだとすれば、政治的なものまでがことばづかいという地位に割りこみ、“おしゃべり”に変身するのを、どうしても歎かずに黙認しておけるだろうか?

(政治的な言述が反復におちいらずにすむ、いくつかのまれな条件がある。すなわち、第一は、政治的言述がみずから言述性のひとつの新しい方式を打ち立てる場合である。マルクスがそうであった。さもなければ、第二はもっと控えめな場合で、著述者が、ことばづかいというものについて単に《知的理解》さえもっているなら――みずからの生む効果についての知識によって――厳密でありながら同時に自由な政治的テクストを生み出せばいい。そういうテクストは、すでに言われていることをあらためて発明し変容させるかのように働き、自身の美的な特異性のしるしについて責任をもつことになる。それが、『政治・社会論集』におけるブレヒトの場合である。さらに第三の場合を考えてみるなら、それは政治的なものが、暗い、ほとんど信じられぬほどの深みにおいて、言語活動の材質そのものに武装をほどこし変形させてしまうときである。それが“テクスト”、たとえば“法”のテクストである。)(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)

いやあシツレイ! 自分の見解を支える《弁説をよどみなく繰り出し、述べ立て、同時にそれが彼の言述であることを告示》しちまって。