2019年10月5日土曜日

アナーキーへの苦情の文化

ジジェクは、私の知るかぎりでも、2000年前後から次のようなことをしきりに言ってきた。

「大他者の不在」という新しい状態の、最も目を引く面は…自分の行き詰まりを打破してくれるような公式を提供してくれるものと思われる、数々の「小さな大他者たち small big Others」としての「倫理委員会 ethical committees」である。…この大他者の後退の第一の逆説は、いわゆる「苦情の文化 culture of complaint」に見ることができる。その根底にある論理はルサンチマンである。(ジジェク「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」2001年)

ーーここでの「小さな大他者たち」とは、「父の諸名 les Noms-du-Père」のことである。

父の名は、少なくとも最初の近似物として、「大他者は存在する」というシニフィアン [le signifiant que l'Autre existe] である。父の名の治世は、精神分析において、フロイトの治世に相当する。…ラカンはそれを信奉していない。ラカンは父の名を終焉させた。

したがって、斜線を引かれた大他者のシニフィアンS(Ⱥ)がある。そして父の名の複数化pluralisme des Nom-du-Père がある。名高い等置、「父の諸名 les Noms-du-Père」 と「騙されない者は彷徨う les Non-dupes-errent」である(同一の発音)…この表現は「大他者の不在 L'inexistence de l'Autre」に捧げられている。…これは「大他者は見せかけに過ぎない l'Autre n'est qu'un semblant」ということである。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique,Séminaire- 20/11/96)

そして「大他者の不在」とは、別の言い方なら、ラカンが「父についての覚書 Note sur le Père」(1968年)で言った《父の蒸発 évaporation du père》であり、あるいは《エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe 》(S18、1971年)である。もっと一般的な言い方なら「家父長制の崩壊」だ。

この大きな他者の失墜ゆえの「小さな大他者たちとしての倫理委員会」である。実際、ますますこの「小倫理委員会」が連立するようになったのは多くの人が気づいているだろう。たとえば喫煙を限定する規制、家庭内暴力を禁止する規範、セクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範など。

「小倫理委員会」同士の対決もある。だが仲裁役はいない。仲裁役とは「大他者は存在する」の時代はまさに「大他者」だったのだから。この大他者は、国や時代よって、宗教的言説、イデオロギー的言説、文化的言説、政治的言説等がその役目を果たした。いまそれらがまったくなくなったとは言わないが、たとえば1960年代以前には何らの形で存在していた大他者の影はきわめて薄くなった。この大他者は「礼儀」という文化的言説あるいは宗教的言説でもよい(宗教の原義レリギオは「つつしみ」という意味である)。

他方、ラカンはわれわれの「父なき時代」の特徴として、《下品であればあるほど巧くいくよ plus vous serez ignoble mieux ça ira 》(Lacan, S17, 17 Juin 1970)と言った。

中井久夫は次のように言っている。

中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間 2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離、斎藤環/中井久夫/浅田彰)

もっとも1970年以降、何もなくなったわけではない。資本の言説が生き残っている。ラカンの言説とは「社会的つながり lien social」という意味であり、つまり資本のつながり・金のつながりが主流となった時代にわれわれは生きている。

危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972)

主人の言説の時代にもアナーキーとしての資本の論理がなかったわけではない。だが支配的言説は父=主人だったということである。

ここではこう図示しておこう。



ーー底部がいわゆる釈迦の掌であり、上部が釈迦の掌の上で踊る猿である。主人の言説の時代にも、さらにその最低部には資本の言説があり、主人の言説はそれを飼い馴らす機能があったが、主人が消滅するとにより最低部の資本の言説が裸で露出したという観点がマルクス的には正当かもしれないが、ここではそれを敢えて図示はしなかった。

なにはともあれこういった社会構造的変化が1970年前後にあったというのがラカンによる「文化共同体病理学Pathologie der kulturellen Gemeinschaften 」である。フロイトは『文化の中の居心地の悪さ』(1930年)でこの社会的な病理学のすすめをした。

主人、つまり大他者はいなくなったのだから、人はみなプロレタリアである。

社会的症状は一つあるだけである。すなわち各個人は実際上、皆プロレタリアである。Y'a qu'un seul symptôme social : chaque individu est réellement un prolétaire,(LACAN La troisième 1-11-1974)

ーー人がみなプロレタリアなのは、たとえば一国の長でもそうである。

ラカンや中井久夫はこの移行期を1970年に見ているが、それがことさらハッキリしたのは、冷戦終了以降である。

柄谷行人はこう言っている。

私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

土台が変わったのである。土台が抑圧的家父長制であった時代にのみ脱構築(ディコンストラクション)はその機能を果たした。ところが現在、脱構築は支配的イデオロギーである。たとえば芸術家の脱構築的−価値転覆的アナーキー自体が、「インパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった」。

これがジジェク が次のように言っている意味である。

ドゥルーズとガタリによる「機械」概念は、「転覆的 subversive」なものであるどころか、現在の資本主義の(軍事的・経済的・イデオロギー的)動作モードに合致する。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク 『毛沢東、実践と矛盾』2007年)

どうしたらいいんだろうね、アナーキーに対抗するためにアナーキーでいいわけはないのだから。そんなものは、《資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するもの》でしかないのだから。


欲動の本源的アナーキー [l'anarchie de ses pulsions élémentaires](Lacan, S1, 05 Mai 1954)
欲動は「無頭の主体」のモードにおいて顕れる。la pulsion se manifeste sur le mode d’un sujet acéphale.(ラカン、S11、13 Mai 1964)


たとえば「公文書破棄」やら「自衛隊日報隠蔽」やら、直近では「あいトリ補助金不交付審議の議事録なし」等々の安倍政権の振る舞いは、「昭和天皇の肖像をバーナーで焼き、燃え残りを足で踏みつけること」とひどく似ていないかね? ああ、同じ穴のムジナだと思っちゃたよ。

ジジェクはこうも言っている。

現在の状況のもとでとくに大切なことは、支配的イデオロギーと支配しているかに見えるイデオロギーとを混同しないように[not to confuse the ruling ideology with ideology which seems to dominate]特に注意することだ。(ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』2002年)
資本主義社会では、主観的暴力(犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』2007年)

ーー現在の支配的イデオロギーは、資本の欲動なのである。

欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006年)

いつまでも小文字の倫理委員会で、安倍政権のアナーキーで対抗するわけにもいかないしな。あれは資本の欲動の傀儡でしかない。土台を変えなくちゃな。

フランクフルト学派代表かつユダヤ系ドイツ人ホルクハイマーは1939年にこう言った。

資本主義について批判的に語りたくない者はファシズムについても沈黙すべきである。Wer aber vom Kapitalismus nicht reden will, sollte auch vom Faschismus schweigen."(マックス・ホルクハイマー Max Horkheimer「ユダヤ人とヨーロッパ Die Juden und Europa.」1939年)

ーー彼は当時、ナチの「ファシズム」から逃れるために米国に亡命し、コロンビア大学で教鞭をとっていた。

「資本主義について批判的に語りたくない者はすべての体制批判について沈黙すべきだ」とまで言うつもりはない。でも少なくもアナーキー的行政に対する「苦情の文化」に加担している方々は、このホルクハイマーの言葉をよく考えてみることをおすすめする。