ある言葉に一連の記憶が池の藻のようにからまりついていて、ながい時間が過ぎたあと、まったく関係のない書物を読んでいたり、映画を見ていたり、ただ単純に人と話していたりして、その言葉が目にとまったり耳にふれたりした瞬間に、遠い日に会った人たちや、そのころ考えたことなどがどっと心に戻ってくることがある。(須賀敦子『遠い朝の本たち』)
二年前の記録をいくらか読んでみようとしたけど
ぜんぜんだめだね、なまなましすぎて。
何度か引用しているにもかかわらず、
ま、ようするに真の主体=去勢ってことだ。
つぎのものは最近ひろったばかりで、
ちょっとムズカシ系だけど、
なまなましくなくなるのはまだ二十年ぐらいかかりそうだよ
そのときまでおれ生きてるかな
こういったことはDMで書くべきなんだろうけど
もうけっしてそうしないようにしたのはしってるだろ?
DMにしたらまたあの一ヶ月の死闘が始まるにきまってるんだから
そもそもこの二年間、
きみにやつあたりしてきたのは自覚してるよ
きみにやつあたりしてきたのは自覚してるよ
ひどいこともいっぱい書いた
偽の理由でね、
はやく男をみつけて結婚しろってやつだ
でも2017年11月16日のきみの贈物だよ、なによりもまず
クルッタのは。
でも2017年11月16日のきみの贈物だよ、なによりもまず
クルッタのは。
世界がひびわれたのは。
デュラスのいっているやつだ。
何度か引用しているにもかかわらず、
ボク自身、充分には引き受けていなかった次のミレール文、
これは「限りなく正しい」のだろうな
すくなくとも二人のあいだでは。
ーーま、ボクは14歳のときおどろくべき滑稽な恋愛をしたのだけどさ
あれは完全に女になって少女に惚れたんだ
生涯一度の恋かもな
18歳でその少女とヤッタあとはオトコになっちまったよ、
で、59歳になってまたオンナになりかかったのさ
ええっと、それでっとーー
ちょっともうつづけようがないな、この先は
その後ひろった補足として読める文を掲げておくよ。
私たちは愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。
愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。
ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかに置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼岸にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢 castration」を引き受けねばならない。
そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジション position féminin からのみ真に愛する。愛することは女性化することである Aimer féminise。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽un peu comiqueである。(Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010)
ーーま、ボクは14歳のときおどろくべき滑稽な恋愛をしたのだけどさ
あれは完全に女になって少女に惚れたんだ
生涯一度の恋かもな
18歳でその少女とヤッタあとはオトコになっちまったよ、
で、59歳になってまたオンナになりかかったのさ
ええっと、それでっとーー
ちょっともうつづけようがないな、この先は
その後ひろった補足として読める文を掲げておくよ。
標準的な読み方によれば、女はファルスを差し引いた男である。すなわち、女は完全には人間でない。彼女は、完全な人間としての男と比較して、何か(ファルス)が欠けている。
しかしながら、異なった読み方によれば、不在は現前 presence に先立つ。すなわち、男は、ファルスを持った女である。そのファルスとは、先立ってある耐え難い空虚を塞ぐ詐欺、囮である。ジャック=アラン・ミレールは、女性の主体性と空虚の概念とのあいだにある独特の関係性に注意を促している。
《我々は、「無」le rien と本質的な関係性を享受する主体を、女たちfemmesと呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女である主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。》 (Miller, Des semblants dans la relation entre les sexe, 1997)
ここから次の結論を引き出せないでどうしていられよう? すなわち、究極的には、主体性自体(厳密なラカン的意味での $ 、すなわち「斜線を引かれた」主体の空虚)が女性性である。(ジジェク、FOR THEY KNOW NOT WHAT THEY DO、1991年→第二版序文、2008年より)
ま、ようするに真の主体=去勢ってことだ。
つぎのものは最近ひろったばかりで、
ちょっとムズカシ系だけど、
オトコは詐欺師の審級にあるってとこが
ひとつのキモだから引用しとくよ
ひとつのキモだから引用しとくよ
「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme) 」が関与している。そして女の表象の排除とは、人が女の普遍的概念[concept universel de la femme]をもっていないということである。それは、ラカンの発言「人はみな狂っている Tout le monde est fou」を正当化する。
この正当化されたレベルにおいて、主体において、女性の主体と性関係 le sujet de la femme et du rapport sexuel において、各人は性関係の構築をする[chacun a sa construction]。すなわち各人は性的妄想を抱く[chacun a son délire sexuel]。したがって特に、「すべての女は狂っている Toutes les femmes sont folles」とラカンは言った。これは、女性性の普遍的概念が欠けているゆえである。女たちは女が何であるか知らないのである[elles ne savent pas qui elles sont]。
しかしラカンはまたこうも言う、「女たちはまったく狂っていない elles ne sont pas folles du tout」と。というのは女たちは自分が知らないことを知っているから[elles savent qu'elles ne savent pas]。他方、男は知っている。男は男であることが何であるかを信じている[Tandis que les hommes savent, croient savoir ce que c'est qu'être un homme]。そしてこの知は唯一、「詐欺師の審級 le registre de l'imposture」において得られる。…
私は、フロイトのテキストを拡大し、…「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…
話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女というものの排除 la forclusion de la femme、これが「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」の意味である。(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008)
で、こういったことしておれはなにをしたいんだろうな
たぶんなにかをごまかそうとしてんだろうよ
でも贈物があるかぎりはきみを乞いつづけるさ
たぶんなにかをごまかそうとしてんだろうよ
でも贈物があるかぎりはきみを乞いつづけるさ
かりに乞いつづけなくってもずっと見てるさ
けっして会わなくてもね。
今月だったか先月だったかからちょっと荒れてるだろ、
きみにたいして。
遅発性外傷傷害さ、
けっして会わなくてもね。
今月だったか先月だったかからちょっと荒れてるだろ、
きみにたいして。
遅発性外傷傷害さ、
遅発性の外傷性障害がある。震災後五年(執筆当時)の現在、それに続く不況の深刻化によって生活保護を申請する人が震災以来初めて外傷性障害を告白する事例が出ている。これは、我慢による見かけ上の遅発性であるが、真の遅発性もある。それは「異常悲哀反応」としてドイツの精神医学には第二次世界大戦直後に重視された(……)。これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』)
プルーストみたいに一年後じゃなくて二年後のね
ある言葉だったな、須賀敦子がいってるように。
それがなんだか言わないでおくけど。
で、この文って他人がみたらはずかしくないかな
ま、どうでもいいか、そんなこと
私の全人間の転倒。(……)私はかがんで、ゆっくり、用心深く、靴をぬごうとした。ところが半長靴の最初のボタンに手をふれたとたんに、何か知らない神聖なもののあらわれに満たされて私の胸はふくらみ、嗚咽に身をゆすられて、どっと目から涙が流れた。(……)私はいま、記憶のなかに、あの最初の到着の夕べのままの祖母の、疲れた私をのぞきこんだ、やさしい、気づかわしげな、落胆した顔を、ありありと認めたのだ、それは、いままで、その死を哀悼しなかったことを自分でふしぎに思い、気がとがめていたあの祖母、名前だけの祖母、そんな祖母の顔ではなくて、私の真の祖母の顔であった。(……)こうした私は、彼女の腕のなかにとびこみたいはげしい欲望にかきたてられ、たったいまーーその葬送後一年以上も過ぎたときに、しばしば事実のカレンダーを感情のそれに一致させることをさまたげるあの時間の錯誤のためにーーはじめて祖母が死んだことを知ったのだ。(プルースト「ソドムとゴモラ」)
で、この文って他人がみたらはずかしくないかな
ま、どうでもいいか、そんなこと