これはそのとき引用していなかった文だ。
私が彼を愛してゐるのは、実際にあるがままの彼を愛してゐるのではなくして、私が勝手に想像し、つくりあげてゐる彼を愛してゐるのです。だが、私は実物の彼に会ふと、何らの感興もわかず、何等の愛情もそそられぬ。/そして、私は実体の彼からのがれたい余り彼のあらばかりをさがし出した。しかしそのあらを、私の心は創造してゐたのである。(矢田津世子1936年3月5日ノートーー近藤富枝『花蔭の人』より)
次は安吾の書信。
信頼ははかない虚構だといふ貴方のお言葉は真実です。知性と人間との関係は、前者が後者をエゴティストに設計したところから始まり、エゴティストは自らを信頼することによつて彼の信頼の全部が己に終ってゐるのでせうね。私達にとつて、他を信頼することは自己を棄てることであり、罪悪的な謙遜ですらありうることを私も否定はできません。
映像が実体を拒否するといふ貴方の御言葉に対しても、矢張り僕自らに共通するひとつの宿命を認めはします。然し私には分らないのです。貴方のお言葉が、ではなく、このこと自体の明確な判断がつきかねてゐます。 実体は映像に劣つてゐる、けれども、映像は実体に劣ってゐる………なぜなら私達自らが実体だから。さういふことが言へないこともないではないか? (坂口安吾 矢田津世子宛書信ーー1936(昭和11) 年3月16日 本郷区菊坂町八二菊富士ホテルより 淀橋区下落合四ノー九八六宛)
安吾はでも矢田津世子を惚れ続けていたんだろう。
「四年前に、私が尾瀬沼へお誘いしたとき、なぜ行こうと仰有らなかったの。あの日から、私のからだは差上げていたのだわ。でも、今は、もうダメです」 矢田津世子は、すべてをハッキリ言いきったつもりなのだが、その時の私は、すべてを理解することは出来なかった。(坂口安吾『三十歳』)
私はあの人をこの世で最も不潔な魂の、不潔な肉体の人だという風に考える。そう考え、それを信じきらずにはいられなくなるのであった。
そして、その不潔な人をさらに卑しめ辱しめるために、最も高貴な一人の女を空想しようと考える。すると、それも、いつしか矢田津世子になっている。気違いめいたこの相剋は、平凡な日常生活の思わぬところへ別の形で現れてもいた。(坂口安吾「三十歳 」1948年)
3年後にはこうある。
私がフラフラ状態で秋田市へつき、旅館に辿りついたとき、いきなり秋田の新聞記者が訪ねてきた。「秋田市の印象はいかがですか」 (……)
しかし、着いたトタンに当地の印象いかがとは気の早い記者がいるものだ。その暗さや侘しさがフルサトの町に似た秋田は切ないばかりで、わずかばかりの美しさも、わずかばかりの爽かさも、私の眼には映らない。
けれども私は秋田を悪く云うことができないのです。なぜなら、むかし私が好きだった一人の婦人が、ここで生れた人だったから。秋田市ではなく、横手市だ。けれども秋田県の全体が、あそこも、ここも、みんなあの人を育てた風土のようにしか思われない。すべてが私にとっては、ただ、なつかしいのも事実だから仕方がありません。汽車が横手市を通る時には、窓から吹きこむ風すらも、むさぼるばかりに、なつかしかった。風の中に私がとけてしまッてもフシギではなかったのです。秋田市が焼跡のバラック都市よりも暗く侘しく汚くても、この町が私にとってはカケガエのない何かであったことも、どう言い訳もなかったのです。
「秋田はいい町だよ。美しいや」
私は新聞記者にそうウソをついてやりました。すると彼は、たぶん、と私が予期していたように、しかし甚ださりげなく、また慎しみを失わずに、あの人の名を言いだした。
「あゝ。あの人なら、知ってるよ。たぶん、横手のあたりに生れた人だろう」
私は何食わぬ顔で、そう云ってやった。むろん私はその記者に腹を立てるところなどミジンもなかった。私はこの土地であの人の名をハッキリ耳にきくことによって、十年前に死んだ、その人と対座している機会を得たような感傷にひたった。着いたトタンにいきなり新聞記者が訪ねて来たことも、そしていきなりあの人の名をきいてしまったことも、私とこの土地に吹く風だけが知り合っている秘密のエニシであるということをひそかに考えてみることなどを愉しんだのである。(安吾の新日本地理秋田犬訪問記――秋田の巻――」1951年)
男というものはこういうもんだよ、ヤッテなかったらよけいそうかもしれない。
始めからハッキリ言つてしまふと、私たちは最後まで肉体の交渉はなかつた。然し、メチルドを思ふスタンダールのやうな純一な思ひは私にはない。私はたゞ、どうしても、肉体にふれる勇気がなかつた。(坂口安吾「二十七歳」)
これはなにも女がわるいといっているわけではない。発達段階における構造的問題だね→「女における「三次的愛」」