このブログを検索

2019年11月18日月曜日

愛は拷問である

愛のアトピア atopie de l'amour というか、愛をいかなる論究にも捉えがたいものにしている特質があって、それは、はっきりした対象指定ぬきに愛を語ることが究極的に不可能だということであろう。哲学的なものだろうと、格言的なものだろうと、抒情的なものだろうと、感傷的なものだろうと、およそ愛についてのディスクールには、常に、語りかけられている人物が存在するということなのだ。たとえその人物が亡霊 fantôme であったり、まだこれからあらわれる人物であるにしても、ともかく誰かのためでなければ、なんびとも愛について語りたいとは思わないのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)



「ぼくは思うのだが、きみはぼくを愛しているね Ich glaube es, daß Du mich liebst」。これは「ぼくはきみに愛される Ich werde von Dir geliebt」と言うのと、まったくべつのことだ。しかし、まあ、これは愛し合っている二人ではなく、二人の文法家ってところだね。 (カフカ、ミレナへの手紙1920年9月20日)
手紙は…幽霊との交わり Verkehr mit Gespenstern でありしかも受取人の幽霊だけではなく、自分自身の幽霊との交わりです。…

手紙を書くとは…むさぼり尽くそうと待っている幽霊たちの前で裸になることです Briefe schreiben aber heißt, sich vor den Gespenstern entblößen, worauf, sie gierig warten.。書かれた接吻は到着せず、幽霊たちによって途中で飲み干されてしまいます。(カフカ、ミレナへの手紙、1922年 3 月末 )

ーーカフカはミレナに拷問されていたはず。


恋愛は拷問または外科手術にとても似ているということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。(⋯⋯)たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは体刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である。(ボードレール、Fusées)


もしあなたが私を愛さなかったら、
わたしは誰にも愛されなかっただろう
もし私があなたを愛さなかったら、
わたしは誰も愛さなかっただろう

ーーベケット


恋する者 L'amoureux は錯乱 délire している(彼は「価値観を転倒せしめる」のだ)。ただし、その錯乱はおろかしい bête ものである。恋する者ほどおろかしい者があるだろうか。

…(おろかしさ、それは不意打ちを喰うということである。恋する者はたえず不意打ちを喰っている。彼には、変形させたり、検討を加えたり、保護したりしている余裕がない。おそらくは彼にも自分のおろかしさがわかっている。しかし、彼はそれを非難することをしない。あるいはまた、彼のおろかしさは、裂け目clivageというか倒錯というか、そのような働き方をする。彼はいう、いかにもおろかしいことだ、でもそれは真実なのだ。)(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)

この記事自体、拷問かもしれない。いや、かならずそうなるだろう。