アリアドネはアニマ、魂である Ariane est l'Anima, l'Ame(ドゥルーズ 『ニーチェと哲学』)
ーーアリアドネは《魂の状態の中に刻印される inscrits dans un état d'âme 》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
ニーチェにおいて「神の死」は、「永遠回帰 Éternel Retour」のエクスタシー的刻限と同様に、(散乱する諸アイデンティティの)「魂の調子 Stimmung」への応答である。(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』)
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そこのアリアドネに意地悪言っていいか。
現実界は、「書かれぬことを止めないもの」じゃなくて「書かれることを止めないもの」なんだ。
以下、左項と右項がまったく相反する現実界の定義であり、最後にミレールによる注釈(これを「まともな」臨床ラカン派で現在否定する人はない)。
現実界についての相反する二種類の定義
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私の定式: 不可能性は現実界である ma formule : l'impossible, c'est le réel. (Lacan, RADIOPHONIE、AE431、1970)
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症状は現実界について書かれることを止めない。le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン, La Troisième, 1974)
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不可能性:書かれぬことを止めないもの Impossible: ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire (Lacan, S20, 13 Février 1973)
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現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (S 25, 10 Janvier 1978)
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現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
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現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
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書かれることを止めないもの un ne cesse pas de s'écrire。これが現実界の定義 la définition du réel である。…
書かれぬことを止めないもの un ne cesse pas de ne pas s'écrire。すなわち書くことが不可能なもの impossible à écrire。この不可能としての現実界は、象徴秩序(言語秩序)の観点から見られた現実界である。le réel comme impossible, c'est le réel vu du point de vue de l'ordre symbolique (Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse IX Cours du 11 février 2009)
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これはジジェクさえ2012年の時点でもまだ分かっていなくて、一般の人だったらいっそうやむえないんだけど、ようするに言語から見たら現実界は「書かれぬことを止めないもの」だけれど、身体の現実界(欲動の現実界)から見たら「書かれることを止めないもの」。
ボクも2年前ぐらいまではわかっていなかった。
セミネール20アンコールの3月と5月のあいだに裂け目があって、1973年5月以降が身体のラカン。
フロイトの無意識のエスの反復強迫(=永遠回帰)が、書かれることを止めないものこと。
「自動反復 Automatismus」=「無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es 」(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
さらにエス概念の起源ニーチェに遡れば、例えば次の文。
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)
海は夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくるだろ?
君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理性 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)
私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (Lacan, S20. 15 Mai 1973)
ここで真のフェミニスト、カミール・パーリアを「ここでの文脈とは関係なしに」掲げておこう。
女の身体は冥界機械 [chthonian machine] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。
元来、女の身体は一つの使命しかない。受胎である。…
自然は種に関心があるだけだ。けっして個人ではない。この屈辱的な生物学的事実の相は、最も直接的に女たちによって経験される。ゆえに女たちにはおそらく、男たちよりもより多くのリアリズムと叡智がある。
女の身体は海である。月の満ち欠けに従う海である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放 letzten Befreiung と非責任性Unverantwortlichkeit への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年)
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※付記
ほかにもニーチェはこう言っている。
人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
傷つけることを止めないもののみが記憶に残る。nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis (ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)
この二文は、フロイト ・ラカン的にいえば、「トラウマへの固着は書かれることを止めない」あるいは「身体の上への刻印は書かれることを止めない」。
トラウマは自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年)
症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel,(Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 1974.11.30)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
あるいはプルースト=バルト的に「身体の記憶は書かれることを止めない」でもよい。
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
ーーレミニサンスは、無意志的記憶の回帰。
この書(スワン家のほうへ)は極めてリアルな書 livre extrêmement réel だが、 「無意志的記憶 mémoire involontaire」を模倣するために、…いわば、恩寵 grâce により、「レミニサンスの花柄 pédoncule de réminiscences」により支えられている。 (Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)
私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶 le corps et la mémoireによって、身体の記憶 la mémoire du corpsによって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)
トラウマとは喜ばしいトラウマもあるとするのが中井久夫。ボクはこの定義をとる。
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)