2019年12月30日月曜日

自己を語る遠まわしの方法 

フロイトは、人が内的脅威から逃れる唯一の方法は、外部の世界にその脅威を「投射」することだと何度もくり返しているが、プルーストが次のように言っているのも同様の機制である。

ところで、自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)


最も分かりやすい事例は、子供の「しっぺ返し」だろう。

他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、まったく同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905年)

こういったことはツイッターなどでもしばしば観察されるが、当人はそれにまったく気づいていないことが多い、ーー「滑稽だな。いかにもあなたらしい滑稽だ。そうしてあなたはちっともその滑稽なところに気がついていないんだ」(夏目漱石『明暗』 第百八十三章)

社交心理学としても読めるプルーストの小説のなかには、実に「愉快な」指摘がふんだんにある。ここでは「うそ」に関していくつか掲げよう。

あらゆるかくしごとのなかで、一番危険をはらんでいるのは、あやまちを犯した当人が、頭のなかで、そのあやまちをかくそうとする作為である。当人の頭にそのあやまちがつねにこびりついていることは、そのあやまちが世間一般にどれだけ知れれていないか、またある完全なうそがどれだけ安易に信じられるかを、当人に推察できなくさせるとともに、他面で、大した危険はないと見くびってしゃべる言葉のなかに、どの程度まで真相をもらす告白が食いこみはじめるかをも、当人に理解できなくさせるのである。(プルースト「ソドムとゴモラ」)
うそは人間において本質的なものである。うそは人間においておそらく快楽の追及とおなじほど大きな役割を演じているだろう、しかも、うそは快楽の追及に従属するのである。人は自分の快楽をまもるためにうそをつく。人は生涯にわたってうそをつく、人は自分を愛してくれる人たちにさえうそをつく、そういう人たちであればこそとりわけうそをつく、おそらくそういう人たちにだけうそをつくだろう。われわれにとっては、正直いって、そういう人たちだけが、自分の快楽をまもるためにおそろしいのであり、しかもそういう人たちだけから、尊敬を受けることが望ましいのである。(プルースト「逃げさる女」)
人がうそをついていることに気づかなくなるのは、他人にうそばかりついているからだけでなく、また自分自身にもうそをついているからなのである(プルースト「ソドムとゴモラ」)

もっともプルーストはこうも書いている。

身ぶり、談話、無意識にあらわされた感情から見て、この上もなく愚劣な人間たちも、自分では気づかない法則を表明していて、芸術家はその法則を彼らのなかからそっとつかみとる。その種の観察のゆえ、俗人は作家をいじわるだと思う、そしてそう思うのはまちがっている、なぜなら、芸術家は笑うべきことのなかにも、りっぱな普遍性を見るからであって、彼が観察される相手に不平を鳴らさないのは、血液循環の障害にひんぱんに見舞われるからといって観察される相手を外科医が見くびらないようなものである。そのようにして芸術家は、ほかの誰よりも、笑うべき人間たちを嘲笑しないのだ。(プルースト「見出されたとき」)

わたくしはまだ修行が足りないのである、「笑うべき人間たちを嘲笑」してしまうから。

プルーストが言うようにこれらは人間の一般法則なのであり、例えば、わたくしが他人を嘲笑する場合、嘲笑すべき自らの投射ではないかとまず疑うべきなのだろう。

常にまず自らを取調べなければならない。

他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)

自分のメタ私は他人のメタ私より見えないのだろうから。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」)


基本はこうでありながら、しかし、ーーと言いたいのである。

とくに「信者」マインドをもっている人物は、自らを取調べることがきわめて稀だと。

それはかつてキリスト教信者がみずからのなかの「魔女性」を魔女に投射したように、あるいはヒトラー信者がみずからのなかの「ユダヤ性」をユダヤ人に投射したように。彼らは「自己の取り調べ」なきまま熱狂しただけの「善人」である。


たとえば山本太郎信者であった人たち、そのうちの一部に最近「転向」がみられる。すこしまえまでは熱烈に好意をよせていたのだが、今度は熱烈な非難である。

本来、熱烈な好意を捧げて山本太郎をあそこまで育ててしまった自らをまず非難しなければならないはずであるがーーそれはより根底としては、集団神経症的「ポピュリズム」構造自体のメカニズム批判にまで至るはずだーー、その「自己の取調べ」をうっちゃったまま、タロウ非難に反転しているようにしかみえないのであり、「修行が足りない」わたくしはどうしたって笑わずにはいられないのである。