2019年12月29日日曜日

フェティッシュ「最上級者への道」版




マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年)
対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)
Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる comporte un manque、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)



マルクス版三つのフェティッシュ 
(自動的フェティッシュ、商品フェティッシュ、貨幣フェティッシュ)
貨幣のフェティッシュの謎 Das Rätsel des Geldfetischsは、ただ、商品のフェティッシュの謎 Rätsei des Warenfetischs が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』第一巻)
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert…が完成されている。(⋯⋯

ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物件化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)
諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。

これに反して、流通 G-W-G (貨幣-商品-貨幣)では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。

価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的主体 ein automatisches Subjekt に転化する。

自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。

しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値 Mehrwert としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。

なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖 Selbstverwertung であるからである。(マルクス『資本論』第1巻第2章第4節)
剰余価値=剰余享楽
剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン、ラジオフォニー, AE434, 1970年)
この対象(私が対象aと呼ぶもの que j'appelle l'objet petit a)、それはフェティシュfétiche とマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである。(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」AE207、1966年)
剰余価値は欲望の原因であり、経済がその原理とするものである。経済の原理とは「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、飽くことをしらない原理である。la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.(Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)
ラカン版三つのフェティッシュ  
(黒いフェティッシュ、仮象フェティッシュ  、ファルスのフェティッシュ )
享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir となる。(ラカン, Kant avec Sade, E773, 1963年) 
欲望の原因としてのフェティッシュ le fétiche cause le désir ⋯⋯フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan, S10, 16 janvier 1963)
セミネール4において、ラカンは「無 rien」に最も近似している 対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、- φ (去勢)がある au centre de l'objet petit a se trouve le - φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた仮象(見せかけ)でもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての仮象 semblant comme le fétiche でもある。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)

ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallusとは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)
しかし言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうかMais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche?。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(クリスティヴ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)



◼️商品は人間語を語る

商品は語る
もし、商品自身が話したら、彼等は次のように云うだろう。「多分、人々の興味の対象は、我々の使用価値であろう。だが、それは我々の物ではない。ただ、我々に属する物は、我々の価値である。我々の商品としての自然な交流がそれを証明している。お互いの目には、我々はただ交換価値以外の何者でもない。」 (マルクス『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズムとそれに係わる秘密」)
『資本論』第一巻を開けば十分である。そうすればわれわれは知ることができる。商品のフェティッシュ的特性のマルクスによる最初のステップは、厳密にシニフィアン自体の水準の問題に宛てられて構成されていることを。(Lacan, Le Séminaire, livre VI, Le désir et son interprétation,  Éditions de La Martinière、1958年)
人間語と商品語の相同性
マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)
マルクスが商品のフェティシズムを語るとき、…外観と価値の論理的オートノミーとのあいだのミニマムな移行[minimal shift between the appearance and the logical autonomy of value ]を描写している。人間語と商品語の不可分性は、ラカンの定式「メタランゲージはない」の先鞭を付けている。別の言い方をすれば、差異システムのオートノミーを限界づける規範はないということである。…言語は単一義的ではなく多義的であり、関係ではなく非関係とい範例的事例である。…言語システムと経済システムは開かれた集合を形成する。結果としてメタランゲージ(大他者の大他者)の非存在と大他者の非存在は同一である。(サモ・トムシックSamo Tomšič 『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』2015年)
言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系あるいは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あるいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)
メタランゲージはない
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ). (ラカン、S24, 08 Mars 1977)

メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre,
真理についての真理はない il n'y a pas de vrai sur le vrai.

…見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)
シニフィアンは、対象を指示しない記号である le signifiant est un signe qui ne renvoie pas à un objet …シニフィアンはまた不在の記号である Il est lui aussi signe d'une absence…

シニフィアンは、他の記号と関係する記号である c'est un signe qui renvoie à un autre signe。 言い換えれば、二つ組で己れに対立する pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン、S3、 14 Mars 1956)
主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって代理表象されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値 valeur d'échange として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体 le sujet de la valeur d'échange は何に対して表象されるのか? ーー使用価値 valeur d'usage である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 plus-valueと呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。

主体は己自身と同一化しえず、もはやたしかに享楽しえないne jouit plus 。何かが喪われているだ。それが剰余享楽plus de jouir と呼ばれるものである。(ラカン、セミネ ールⅩⅥ、D'un Autre à l'autre, 13 Novembre 1968)





※付記


フェティッシュの魔術
貨幣や信用が織りなす世界は、神や信仰のそれと同様に、まったく虚妄であると同時に、何にもまして強力にわれわれを蹂躪するものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。(……)

脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)
マルクスは商品の奇怪さについて語ったが、われわれもそこからはじめねばならない。商品とはなにかを誰でも知っている。だが、その「知っている」ことを疑わないかぎり、商品の奇怪さはみえてこないのである。たとえば、『資本論』をふりまわすマルクス主義者に対して、小林秀雄はつぎのようにいっている。

《商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。》(「様々な意匠」)

むろん、マルクスのいう商品とは、そのような魔力をもつ商品のことなのである。商品を一つの外的対象として措定した瞬間に、商品は消えうせる。そこにあるのは、商品形態ではなく、ただの物であるか、または人間の欲望である。言うまでもなく、ただの物は商品ではないが、それなら欲望がある物を商品たらしめるのだろうか。実は、まさにそれが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)
価値形態論は次のように展開されている。先ず、「単純な価値形態」において、商品Aの価値は商品Bの使用価値によって表示される。そのとき、商品Aは相対的価値形態、商品Bは等価形態におかれている。マルクスは単純な価値形態を次のような例で示している。

(相対的価値形態)    (等価形態)
二〇エレのリンネル =   一着の上衣

この等式が示すのは、二〇エレのリンネルは、自らに価値があるということができず、一着の上衣と等値されたあとで、はじめてその自然形態によって価値を示されるほかない、ということである。一方、一着の上衣は、いつでも前者と交換できる位置にいる。等価形態が、一枚の上衣にあたかもそれ自身のなかに交換価値(直接的交換可能性)が内在しているかのように見えさせるのだ。《商品が等価形態にあるということは、その商品が他の商品と直接に交換されうるという形態にあるということなのである》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節)。

貨幣の謎はこうした等価形態にひそんでいる。マルクスはそれを商品のフェティシズムと呼んだ。むろん、この単純な等式においては、一着の上衣がつねに等価形態にあるわけではない。二〇エレのリンネルもまた等価形態に立ちうるからである。

《もちろん、リンネル20エレ=上衣1着 あるいは、二〇エレのリンネルは一着の上衣に値するという表現は、上衣1着 =リンネル20エレ あるいは一着の上衣は二〇エレのリンネルに値するという逆の関係も、含んではいる。だが、そうではあるけれど、上衣の価値を相対的に表現するには、この等式を逆にしなければならず、そしてそうすると、たちまち上衣にかわってリンネルが、等価になるのである。したがって同じ商品が、同じ価値表現で、同時に両方の形態え登場することはできないのである。両形態は、むしろ対極的に排除しあうのだ。

いまや、ある商品が、相対的価値形態にあるか、それとも対置された等価形態にあるかは、もっぱらそれが価値表現において、そのつど占める位置に、つまりその商品が自分の価値が表現される商品であるか、それとも自分に価値が表現される商品であるかに、かかっている。》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節)

大切なのは、或る物が商品であるか貨幣であるかは、それがおかれた「位置」によるということである。或る物が貨幣となるのは、それが等価形態におかれるからである。その或る物は、金や銀であろうと、相対的価値形態におかれるときは、商品である。《相対的価値形態と等価形態は、たがいに依存しあい、交互に制約しあう不可分の要因であるが、しかし、同時に、互いに排斥しあう、あるいは対置される両端である》(同前)。単純な価値形態においては、リンネルは相対的価値形態にあるのか等価形態にあるのか決定できない。具体的にいうと、リンネルの所有者がリンネルと上着を交換したとき、リンネルで上着を買ったと考えているなら、リンネルは等価物であるが、他方、上着の所有者は上着でリンネルを買ったと考える。つまり、上着等価物であるということがありうるのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
・資本の蓄積運動は、人間の意志や欲望から来るのではない。それはフェティシズム、すなわち商品に付着した「精神」によって駆り立てられている (driven) 。資本主義社会は、最も発達したフェティシズムの形態によって組織されている。

・株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。…ヘーゲルの「絶対精神」と同様に…株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。(柄谷行人、Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016、私訳)




◼️コモンセンス版


言語=法=貨幣
広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
貨幣共同体とは、伝統的な慣習や情念的な一体感にもとづいているのでもなければ、目的合理的にむすばれた契約にもとづいているのでもない。貨幣共同体を貨幣共同体として成立させているのは、ただたんにひとびとが貨幣を貨幣として使っているという事実のみなのである。…

貨幣で商品を買うということは、じぶんの欲しいモノをいま手にもっている人間が貨幣共同体にとっての「異邦人」ではなかったということを、そのたびごとに実証する行為にほかならない。いささか大げさにいえば、それは貨幣を貨幣としてあらしめ、貨幣共同体を貨幣共同体として成立させた歴史の始原のあの「奇跡」を、日常的な時間軸のうえでくりかえすことなのである。(岩井克人『貨幣論』1993年)
言語、法、貨幣の媒介があって、個々の人間ははじめて普遍的な意味での人間として、お互いに関係を持つということが可能となります。

言語があるからこそ、生活体験をともにしてこなかった他人とも、同じ人間としてコミュニケーションが可能になります。

また、法があるからこそ、個人の腕力や一族の勢力が異なった他者であっても、同じ場所で生活することが可能になります。

そして、貨幣があるからこそ、どのような欲望をもっているか知らない他人とでも、交換をするが可能になります。

人格の問題は、このようなお互いが関係を持つことができる人間社会が成立した中で、はじめて発生することになります。

そして、そこではじめて二重性(ヒトであってモノである)をもった存在としての人間が出てくるのだろうと思います。(岩井克人『資本主義から市民主義へ』2006年)