左翼はひどく悲劇的状況にある。…彼らは言う、「資本主義は限界だ。われわれは新しい何かを見出さねばならない」と。だがあれら左翼連中はほんとうにオルタナティヴのヴィジョンをもっているのか? 左翼が主として語っていることは、「人間の顔をした世界資本主義 global capitalism with a human face」に過ぎない。…私は左翼を信用していない Idon't trust leftists (Slavoj Žižek interview: “Trump created a crack in the liberal centrist hegemony” 9 JANUARY 2019)
さてここでの本題である。ジジェク にとって以下のことを考えている者のみが真の左翼である。そうでなければ腰抜け左翼である。「ごく常識的な」中井久夫と柄谷行人の引用を混ぜよう。
人間の顔をした社会主義/人間の顔をした世界資本主義
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フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』をバカにするのが流行だが、現実には左翼でさえフクヤマ主義者ではないだろうか。資本主義の継続、国家機構の継続を疑う者はいない。かつては「人間の顔をした社会主義」を求めたのに、今の左翼は「人間の顔をしたグローバル資本主義」で妥協する。それでいいのか?(ジジェク インタビュー、by AMY GOODMAN, 2008)
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私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)
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ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。
今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。(中井久夫「私の「今」」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
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私の興味をひいたのは、東側と西側が相互に「魅入られる」ということでした。これは「幻想」の構造です。ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「眼差し」自体なのです。西側を魅惑したのは、正統的な民主主義の勃発なのではなく、西側に向けられた東側の「眼差し」なのです。この考え方というのは、私たちの民主主義は腐敗しており、もはや民主主義への熱狂は持っていないのにもかかわらず、私たちの外部にはいまだ私たちに向けて視線をやり、私たちを讃美し、私たちのようになりたいと願う人びとがいる、ということです。すなわち私たちは私たち自身を信じていないにもかかわらず、私たちの外部にはまだ私たちを信じている人たちがいるということなのです。西側における政治的な階級にある人びと、あるいはより広く公衆においてさえ、究極的に魅惑されたことは、西に向けられた東の魅惑された「眼差し」だったのです。これが幻想の構造なのです、すなわち「眼差し」それ自体ということです。
そして東側に魅惑された西側だけではなく、西側に魅惑された東側もあったのです。だから私たちには二重の密接な関係があるのです。(Conversations with Žižek, with Glyn Daly、2004年)
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マルクスの死と福祉国家の死?
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二十世紀をおおよそ1914年(第一次大戦の開始)から1991年(冷戦の決定的終焉)までとするならば、マルクスの『資本論』、ダーヴィンの『種の起源』、フロイトの『夢解釈』の三冊を凌ぐものはない。これらなしに二十世紀は考えられず、この世紀の地平である。
これらはいずれも単独者の思想である。具体的かつ全体的であることを目指す点で十九世紀的(ヘーゲル的)である。全体の見渡しが容易にできず、反発を起こさせながら全否定は困難である。いずれも不可視的営為が可視的構造を、下部構造が上部構造を規定するという。実際に矛盾を含み、真意をめぐって論争が絶えず、むしろそのことによって二十世紀史のパン種となった。社会主義の巨大な実験は失敗に終わっても、福祉国家を初め、この世紀の歴史と社会はマルクスなしに考えられない。精神分析が治療実践としては廃れても、フロイトなしには文学も精神医学も人間観さえ全く別個のものになったろう。(中井久夫「私の選ぶ二十世紀の本」初出1997、『アリアドネからの糸』所収)
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一つのことが明らかになっている。それは、福祉国家を数十年にわたって享受した後の現在、…我々はある種の経済的非常事態が半永久的なものとなり、我々の生活様式にとって常態になった時代に突入した、という事実である。こうした事態は、給付の削減、医療や教育といったサービスの逓減、そしてこれまで以上に不安定な雇用といった、より残酷な緊縮策の脅威とともに、到来している。
… 現下の危機は早晩解消され、ヨーロッパ資本主義がより多くの人びとに比較的高い生活水準を保証し続けるだろうといった希望を持ち続けることは馬鹿げている。いまだ現在のシステムが維持可能だと考えている者たちはユートピアン(夢見る人)にすぎない。(ジジェク、A PERMANENT ECONOMIC EMERGENCY、2010年)
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人々が気づかないままに、階級格差を生み出す自動的フェティッシュ
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利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。…ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物象化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)
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M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation 》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、私訳)
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上の引用群の最初の「人間の顔をした社会主義/人間の顔をした世界資本主義」の項の内容を図示してみよう。
冷戦終了により世界はむき出しの市場原理の時代になった。それへの対抗策して現在のリベラル左翼は、彌縫策のみを打ち出すヒューマニスト的モラリストばかりが目立つ。これを「人間の顔をしたグローバル資本主義者」と呼ぶ。人はこの事実に目をふさぐべきではない。
たとえば最近の様子をみれば、結局「腰抜け左翼のひとり」にすぎないといわれても致し方ない浅田彰は20年前にこう言っている。
こういった背景のもとジジェクは次のように言う。
もちろんジジェクはレトリックだけで事実上、なにもできていないという批判があるのを知らないわけではない。
だがすくなくとも資本主義の「システム的暴力」に常に目を向けているのが「われわれの敵「左翼」」にて引用したバディウジジェク柄谷である。そしてもしラディカルさがあるなら始まりはそこにしかない。
資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(『可能なるコミュニズム』シンポジウム 2000.11.17 浅田彰発言)
さていまはどうなのだろう? 少なくとも、次の状況はますますひどくなっていはしないか。中流階級は消滅しつつあるとはしばしば語られている。
(現在の資本主義システムにおける)金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、私訳)
今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009)
こういった背景のもとジジェクは次のように言う。
資本主義社会では、主観的暴力(犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。…
われわれに求められるのは、前のめりにならないこと、つまり、このじかに目に飛び込んでくる「主観的」暴力、誰によってなされたかが明確にわかる暴力に目を奪われないことである。われわれに必要なのは、そうした暴力の噴出の背景、その概略をとらえることなのだ。(ジジェク『暴力』2008年)
もちろんジジェクはレトリックだけで事実上、なにもできていないという批判があるのを知らないわけではない。
だがすくなくとも資本主義の「システム的暴力」に常に目を向けているのが「われわれの敵「左翼」」にて引用したバディウジジェク柄谷である。そしてもしラディカルさがあるなら始まりはそこにしかない。
他方、「主観的暴力」、つまり「新しい右翼やレイシズムの輩出」、あるいは「より良い社会保障、健康サービス、減税、反戦等々」にばかりにその言動の焦点を絞っているのが、ジジェク観点からは、「腰抜け左翼」である。
結局、彼らはのほとんどは左翼ポピュリストなのである。
ポピュリズムが起こるのは、特定の「民主主義的」諸要求(より良い社会保障、健康サービス、減税、反戦等々)が人々のあいだで結びついた時である。(…)
ポピュリストにとって、困難の原因は、究極的には決してシステム自体ではない。そうではなく、システムを腐敗させる邪魔者である(たとえば資本主義者自体ではなく財政的不正操作)。ポピュリストは構造自体に刻印されている致命的亀裂ではなく、構造内部でその役割を正しく演じていない要素に反応する。(ジジェク「ポピュリズムの誘惑に対抗してAgainst the Populist Temptation」2006年)
『精神分析の倫理』のセミナールにおいてラカンは、「悪党 knave」と「道化 fool」という二つの知的姿勢を対比させている。
右翼知識人は悪党で、既存の秩序はただそれが存在しているがゆえに優れていると考える体制順応者であり、破滅にいたるに決まっている「ユートピア」計画を報ずる左翼を馬鹿にする。
いっぽう左翼知識人は道化であり、既存秩序の虚偽を人前で暴くが、自分のことばのパフォーマティヴな有効性は宙ぶらりんにしておく「宮廷道化師court jester」である。
社会主義の崩壊直後の数年間、悪党とは、あらゆる型式の社会連帯を反生産的感傷として乱暴に退ける新保守主義の市場経済論者であり、道化とは、既存の秩序を「転覆する」はずの戯れの手続きによって、実際には秩序を補完していた脱構築派の文化批評家だった。
だが現在、悪党/道化のカップルの間の関係、そして政治的右翼/左翼の対立は、右翼の悪党と左翼の道化の標準的形象の転倒がますます見られる。
「第三の道」の理論家は究極的には現在の悪党ではないか? 連中はシニカルな諦めの説教を垂れる輩たちだ。つまり世界資本主義の基本的機能における何ものかを実際に変革するあらゆる試みの必然的失敗を説く連中だ。
そして保守派は道化師ではないか。あれらの保守主義者の連中は…あたかも支配的イデオロギーの隠されたカードを示すかのようにして、底に横たわるメカニズムに光を照射する。抑圧されたそのメカニズム、はるかに魅惑させるメカニズムを機能したままにさせるために。
現在、左翼の悪党に直面して、かつてにもましてよりいっそう重要な事は、世界のオルタナティブの可能性の場を開いたままにしておくことだ。…
左翼には現在も選択肢がある。支配的な自由民主主義の地平(民主主義、人権、自由……)を受け入れて、そのなかでヘゲモニー闘争に加わるか、それとも、そこで使われることば自体を拒否し、あらゆるラディカルな変化のもくろみは全体主義への道につながっていると判決を下す現在のリベラルな脅迫をたんに退けるという、対抗的な姿勢に立つというリスクを冒すか、である。六八年のモットー、「現実的であれ、不可能を要求せよ![Soyons réalistes, demandons l'impossible!]」こそわたしの固い信念であり、政治的-存在論的前提である。リベラル民主主義の地平にとどまって、変化と再意味づけを唱える者こそ、その努力が、結局人類の顔に資本主義を貼り付ける美容手術以上の何かになると信じている以上、真のユートピア論者(ナイーブに夢見る人)なのである。 ……(ラクラウとムフの「ラディカルデモクラシー」は、…この地平に留まったままだ。Laclau's and Mouffe's 'radical democracy' […]remaining within its horizon. )……
そしてわたしが言いたいのはもちろん、現代の「狂気のダンス」、多様で移動するアイデンティティの爆発的氾濫もまた、新たなテロルによる解決を待っていると言うことだ。唯一「現実的」な見通しは、不可能を選ぶことで新たな政治的普遍性を基礎づけること、まったき例外の場を引き受け、タブーもアプリオリな規範(「人権」、「民主主義」)もなく、テロルを、権 力の容赦ない行使を、犠牲の精神を「意味づけなおす」のを妨害するものを尊重すること……もしこのラディカルな選択を、涙もろいリベラルが「ファシズムへの道Linksfaschismus」だと非難するなら、言わせておけ!(ジジェク「場を保つ HOLDING THE PLACE 」『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』所収、2000年)
以上が基本的なジジェクの態度である。わたくし自身、事実上「腰抜け左翼」にすぎないが、やはりときにはそれにひどく恥じ入る。その恥じ入る契機の多くは、ジジェクの言葉に触れるときである。
そして最低限、反「日本共産党」でなければならないと考える。わたくしは日本から離れているのであまり断言はしたくないが、今までの経緯から、これはとるべき最低限の態度だとわたくしは思う。
たとえば、僕はこの間まで大阪のほうにいたので、共産党が宣伝カーでいろいろしゃべっているのを見かけましたが、そのとき、驚いたことがある。「共産党とは共に産み出す党なのであります」と話しているのです。 それは、漢字の訳語から勝手に考えた、インチキな考えです。 (笑) 。また、「共産主義というのはイタリア語でコムーネ、つまり共同体なのであります」と言っていた。こんなことを街頭でしゃべってどうするんだ、と思いましたが(笑)、考えてみると、彼らは共産党という名前が嫌なのだと思います。共産党という名前が付いているけれども、どうもそれを隠したい。それなら、イタリア共産党のように名前を変えればいいのに、宮本賢治がいるからそうできない。だから、共産党の意味は、本当はこうこう、こうですよ、というわけです。
共産党はずっと、「平和とよりよき生活」という最小限綱領でやってきました。選挙で一般大衆の票が欲しいからです。しかし、それは「共産主義」という最大限綱領を隠すことです。 もちろん隠してもいいが、それがどういうものかをはっきりさせておかねばならない。共産主義になると、失業が無くなります、というようなことではだめです。一般に、新左翼でも、 最大限綱領を言わなくなりましたね。たとえば、某党派では、ダンスパーティーだといって人を勧誘する、という(笑)。ついていくと、二三度目には正体が分かってくるけれども、その時はもう抜けられなくなっているという、蟻地獄のような組織ですね。
とにかく、最小限綱領とは、誰もが賛成できるようなことから出発するということですね。しかし、それだけでやっていると、だめになります。活動家も非活性化する。最大限綱領とは 「理念」だ、といってもいいでしょう。この理念がないと、運動は続かないし、堕落してしまいます。たとえば、協同組合をやっていると、最小限綱領でやることができます。しかし、それでいいか、というと違います。協同組合運動は、その起源からいって、オーウェンのような社会主義運動の理念に根ざしています。また、マルクスもそれに注目していた。こうした起源あるいは理念を忘れてしまうと、協同組合運動はどんなに繁栄しても、活力がなくなってしまう。 (世界危機の中のアソシエーション・協同組合 柄谷行人と生活クラブとの対話、2009年)
実際、現在の共産党は選挙のたびに、なんと経済成長を主張する資本主義党に過ぎない。
日本の名目成長率がマイナスだった97年以降、欧米先進国の名目成長率の平均は、アメリカ4.5%、イギリス4.3%、フランス3.1%、ドイツ2.3%となっています。日本でも、国民の所得を増やし、経済の好循環を実現できれば、平均2%台の成長は可能です。そうすれば、税収も増え、10年後には、国税・地方税あわせて20兆円を超える自然増収を実現できます。(「消費税にたよらない別の道」――日本共産党の財源提案、2014年11月26日)
経済改革で、国民の所得を増やせば、それが消費につながり、経済を安定的な成長の軌道に乗せることができます。そうすれば、10年程度先には、国・地方あわせて20兆円前後の税収増が見込めます。(「社会保障・教育の財源は、消費税にたよらずに確保できる」2019年6月)
もちろん「信者」のかたがたにはこういったことが目に入らないのはよく知っている。いわゆる「選択的非注意」である。それはカトリック信者が次のようなことに選択的非注意をしているのと同様である。
■ローマ教皇庁、信者献金で赤字穴埋め 慈善活動分は10% By Francis X. Rocca、2019 年 12 月 12 日
【バチカン市】カトリック教徒は毎年、ローマ教皇に対して巨額の献金を行う。司教たちは「ペテロのペンス」という献金制度を通して弱者や苦しんでいる人を助けるよう、信者に強く勧めている。 だが、事情に詳しい複数の関係者によると、毎年5000万ユーロ(約60億円)以上が集まる献金のほとんどがローマ教皇庁(バチカン)の予算の穴を埋めるのに使われており、慈善活動に直接使用されるのは献金総額の10%にすぎない。 バチカン高官しか知らないこうした献金の用途を巡り、カトリック教会の指導者の間で懸念が高まっている。信者が献金の使い道について欺かれており、フランシスコ教皇の下でバチカンが行う財政管理の信頼性を一段と傷つけることになりかねないためだ。...
法王来日で気づいたが、たぶん大半の日本カトリック教徒にとっては、「祈り」とは自らの制度の悪をみないようにするための至高の方策なのであろう。
--いやあ実に彼らは美しい魂をもっておられる、《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》(ニーチェ『この人を見よ』)