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2019年12月26日木曜日

われわれの敵「左翼」

ジジェクに訊く、2008

――これまでで一番失望したことは?

 アラン・バディウが20世紀の「不明瞭な惨事」と呼んだもの。共産主義の悲劇的な失敗。
――何か一つ秘密を教えてください。

 共産主義は勝利するよ。


コミュニスト仮説 hypothèse communiste
アラン・バディウ)私はコミュニスト仮説 hypothèse communiste への強い意志を持ち続けている。

ローラン・ジョフラン) そんなものはもはや誰も欲していない。
ジョフラン)あなたが考えているコミュニスト社会の原理とは何なのか?

バディウ)これまでに分かっている仕事は、コミュニスト社会の四つの根源的原理だ。

①生産手段における私有財産の廃止。
②労働における分割の終焉。分割すなわち、命令と遂行とのあいだの分割。知的労働と肉体労働とのあいだの分割。
③国民アイデンティティへの強迫観念の終焉。
④これらすべてを集団的討議の賛同のもと国家弱体化によって成就すること。(Alain Badiou debates Laurent Joffrin, a reformist (and editor of Libérationnewspaper), who defends existing social democracy. ,2017)
人間は主人が必要
アラン・バディウは、我々の「民主主義的」神経過敏に対して「新しいタイプのコミュニストの主人(リーダー)」の必要不可欠な役割を強調することを怖れない。「私は確信している。われわれは再建しなくてはならない、どの段階においてもコミュニスト過程におけるリーダーの主要な役割を」(バディウとの個人的対話、2013年4月)

真の主人は統制と禁止のエージェントではない。主人のメッセージは「君たちはしてはいけない!」でも「君たちはしなくてはならない!」でもない。そうではなく「君たちはできる!」と解き放つことだ。ーー何を? 不可能を為すこと。既存配置の座標軸においては不可能にみえることを解き放つのだ。ーーそしてこれはこの現在、まさにぴったりのことを意味する。あなたは、我々の生の究極的枠組みである「資本主義と自由民主主義」の彼方を考えることができる。

主人とは「消えゆく媒介者 vanishing mediator」(Jameson 1973)である。あなたをあなた自身に戻す媒介者である。真のリーダーに聞き入るとき、我々は何を欲しているのかを(いやむしろ、我々が「それを知らないままで」常に既に欲していたことを)見い出す。

人間は主人が必要なのである。というのは、我々は自らの自由に直接的には接近できないから。この接近を獲得するために、我々は外部から押されなければならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できないヘドニズム inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。

ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、可能性という既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016)
マルチチュードの廃棄
私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。

半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ we should stop with this multitudes、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" ― Part II、19.01.2018)
われわれの敵である左翼=人間の顔をした世界資本主義者
われわれの戦いの相手は、現実の堕落した個人ではなく、権力を手にしている人間全般、彼らの権威、グローバルな秩序とそれを維持するイデオロギー的神秘化である。この戦いに携わることは、バディウの定式 「何も起こらないよりは厄災が起きた方がマシ mieux vaut un désastre qu'un désêtre 」を裏付けることを意味する。つまり、たとえそれが大破局に終わろうとも、あれら終わりなき功利-快楽主義的生き残りの無気力な生を生きるよりは、リスクをとって真理=出来事への忠誠に携わったほうがずっとマシだということだ。この功利-快楽主義的生き残りの仕方こそニーチェが「最後の人間(末人)」と呼んだものだ。

したがってバディウが拒絶することは、犠牲モードのリベラルイデオロギーである。あの連中が政治を最悪を避けるためのプログラムに削減するやり方。ポジティブなプロジェクトのすべてを断念し、最低限の悪い選択のみを追求するやり方。これを断固として拒絶することだ。(ジジェク『終焉の時代に生きるLiving in the End Times』 2010年)
左翼はひどく悲劇的状況にある。…彼らは言う、「資本主義は限界だ。われわれは新しい何かを見出さねばならない」と。だがあれら左翼連中はほんとうにオルタナティヴのヴィジョンをもっているのか? 左翼が主として語っていることは、「人間の顔をした世界資本主義 global capitalism with a human face」に過ぎない。…私は左翼を信用していない Idon't trust leftists (Slavoj Žižek interview: “Trump created a crack in the liberal centrist hegemony” 9 JANUARY 2019)


ーー以上、バディウとジジェクは現在に至るまでこの立場をとっているということだ。

日本なら柄谷行人がそうだろう。

柄谷がなんども繰り返して示している基本図はこうだ。




ーーこのDのポジションは、『トランスクリティーク』なら、「可能なるコミュニズム=アソシエーションのアソシエーション」、その後「世界共和国(世界同時革命)」、「帝国の原理」とされている。

とくに最後の「帝国の原理」とはラカン的思考のもとでは、「父の名の使用」に相当する。
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

つまり、かつての支配の論理に陥りがちな「帝国」を迂回して、だが帝国の原理を使用する必要がある、という考え方である。これがジジェク=バディウが上で「人間は主人が必要」と言っている内実である。

柄谷行人は直近のインタヴューでも、「D=共産主義」と言っている。

Dがありうる。マルクスがいう共産主義は、そういうものです。(柄谷行人氏ロングインタビュー 普遍的な世界史の構造を解明するために、2019年3月1日


もちろん柄谷は共産主義という語を口に出すとき、次のことを一瞬たりとも忘れていない。それはバディウやジジェクも同様である。

われわれは二〇世紀にコミュニズムがもたらした悲惨な帰結を忘れてはならないし、その誤謬をたんに偶発的なものと見なすべきではない。われわれはけっしてナイーヴに積極的に理念を語ることを許されていない。それはスターリニズムを否定してきた新左翼についてもあてはまる。しかし、その結果、コミュニズムを嘲笑することが「時代の好尚」となった今日において、別の、同様に「甚だしく独断論的」な思考が栄えている。また、知識人が「道徳性への不信」を表明している間に、世界的に、文字通りさまざまな「宗教」が隆盛し始めた。われわれはそれを嗤うことはできない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


柄谷自身、カントの「物自体=形式=仮象」あるいは「資本=国家=ネーション」などの観点にてラカンにボロメオの環に触れているが、ここではDも含めて、そして上の交換様式の原点図の語彙を使って図示すればこうなる。





この三つの環+Dには、柄谷の思考のもとでは種々の用語を代入しうる。





三つの環をフロイト用語にて示せばこうなる。





実際、柄谷行人は「自我は共同体だ」という意味合いのことを、たしか「探求Ⅰ」か「探求Ⅱ」で言っている。さらにカントの「物自体=形式=仮象」をボロメオの環に当てはめる文脈において(トラクリ)、「形式は言語だ」といっている。


ここで挿入的にいえば、もし最近の柄谷の思考にいくらかの欠陥があるとすれば、憲法超自我論にみられる超自我と自我理想の区別が十分にはできていない点である(フロイトの曖昧さにたいしてラカンは厳密にこのふたつを区別した)。

自我理想(ラカンの父の名)とは、超自我=死の欲動を飼い馴らす審級である。

(参照:簡易版「原抑圧=超自我=死の欲動」


上の二重構造を症状概念語彙で示せば次のようになる。


(参照:症状の二重構造


ラカン派的に言えば、憲法9条とは柄谷のいう超自我ではなく、戦争トラウマ(外傷性戦争神経症)を飼い馴らす自我理想(父の名)である。



我々は I(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、象徴的同一化 identification symbolique におけるI(A)、つまり自我理想idéal du moi は主体と大他者との関係において本質的に平和をもたらす機能 fonction essentiellement pacifiante がある。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 fonction beaucoup plus inquiétante、全く平和的でない機能 pas du tout pacifique がある。そしておそらくこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)
ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)



さて話を戻せば、バディウ、ジジェク、柄谷の三人にとっての戦いは、保守主義者に対してだけではない。「人間の顔をしたグローバル資本主義」=「腰抜け左翼、腰抜けリベラル」 への対抗としての「コミュニズム仮説」的闘争である。


ここで柄谷と2000年前後までとても親密な仲だった岩井克人の資本主義の考え方をいくらか列挙しておこう。岩井の資本主義分析はとても明晰である。ただし中段以降の項「資本主義を抑圧すること=自由を抑圧すること」、「後戻りできないグローバル資本主義」とあるのが、上の三者観点では「腰抜けリベラル」である。



利潤追求システムとしての資本主義
資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985年)
ふたつの資本主義(資本の主義/資本の論理)
じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。

実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。
社会主義の敗北=主義としての資本主義の敗北
そこで、社会主義の敗北によって、主義としての資本主義は勝利したでしょうか? 答えは幸か不幸か(笑)、否です。いや逆に、社会主義の敗北は、そのまま主義としての資本主義の敗北であったんです。なぜかと言ったら、社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならないからです。

と言うのは、主義としての資本主義というのは、アダム・スミスから始まって、古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて前提としている資本主義像のことなんで、先ほどの話を繰り返すと、それは資本主義をひとつの閉じたシステムとみなして、そのなかに単一の「価値」の存在を見いだしているものにほかならないんです。つまり、それは究極的には、「見えざる手」のはたらきによって、資本主義には単一の価値法則が貫徹するという信念です。

社会主義、とくにいわゆる科学的社会主義というのは、この主義としての資本主義の最大の犠牲者であるんだと思います。これは、逆説的に聞えますけれど、けっして逆説ではない。社会主義とは、資本主義における価値法則の貫徹というイデオロギーを、現実の資本家よりも、はるかにまともに受け取ったんですね。資本主義というものは、人間の経済活動を究極的に支配している価値の法則の存在を明らかにしてくれた。ただ、そこではこの法則が、市場の無政府性のもとで盲目的に作用する統計的な平均として実現されるだけなんだという。そこで、今度はその存在すべき価値法則を、市場の無政府性にまかせずに、中央集権的な、より意識的な人間理性のコントロールにまかせるべきだ、というわけです。これが究極的な社会主義のイデオロギーなんだと思うんです。
資本の論理=差異性の論理
……この社会主義、すなわち主義としての資本主義を敗退させたのが、じつは、現実の資本主義、つまり資本の論理にほかならないわけですよ。

それはどういうことかというと、資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。(岩井克人『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集、1990年)
資本主義を抑圧すること=自由を抑圧すること
わたしたちは後戻りすることはできない。共同体的社会も社会主義国も、多くはすでに遠い過去のものとなった。ひとは歴史のなかで、自由なるものを知ってしまったのである。そして、いかに危険に満ちていようとも、ひとが自由をもとめ続けるかぎり、グローバル市場経済は必然である。自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。資本主義を抑圧することは、そのまま自由を抑圧することなのである。そして、資本主義が抑圧されていないかぎり、それはそれまで市場化されていなかった地域を市場化し、それまで分断されていた市場と市場とを統合していく運動をやめることはない。

二十一世紀という世紀において、わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグローバル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そして、この「宿命」を認識しないかぎり、二十一世紀の危機にたいする処方箋も、二十一世紀の繁栄にむけての設計図も書くことは不可能である。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』2000年)
後戻りできないグローバル資本主義
21世紀──言語と法と貨幣が生み出す社会の「危機」はさらに激しさを増すはずです。……おそらく人間は、言語や法や貨幣といった異物の介入を嫌悪し、知り合ったもの同士が身を寄せ合っていた、小さく安定していた共同体的な集団に回帰したい願望を、本能的に持っているはずです。だが、……もはや閉じた小さな社会への後戻りは不可能です。すでに人間は「自由」なるものを知ってしまったからです。

自由への欲望は無限です。人間が自由を求める限り、言語と法と貨幣の媒介が必要になります。自由を知った社会的生物としての人間は、いくら母胎回帰の願望が強くても、見知らぬもの同士が同じ人間として関係し合える「人間社会」の中で生きていかざるをえません。そして、それが、必然的に生み出していく人間社会の「危機」を、その場その場で一つ一つ解決していくよりほかにないのです。(岩井克人『経済学の宇宙』2015年)