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2019年12月26日木曜日

牝鶏の歌



そもそも女というものは、自然がわれわれ男の必要と快楽を満足させるために与えた家畜ではないかね? われわれの家畜飼育場の牝鶏より以上に、彼女たちがわれわれの尊敬を受けねばならぬという、どんな権利があるのだね? この二つのあいだに見られる唯一の違いは、家畜というものが従順なおとなしい性格によって、なんらかの意味でわれわれの寛容なあしらいを受けるに値するのに対し、女は許術、悪意、裏切り、不実といった永遠に根治しない性質によって、過酷と乱暴なあしらいしか受けるに値しない、ということではないかね?(サド『悪徳の栄え』)




――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、意識的であろうと無意識的であろうと、幻想は、愛の対象の選択よりも享楽の場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりする être battue, violée ことを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だ être une autre femme,と想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいない être ailleurs, absente と想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(ジャック=アラン・ミレール On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " ,2010)




古典的に観察される男性の幻想は、性交中に別の女を幻想することである。私が見出した女性の幻想は、もっと複雑で理解し難いものだが、性交中に別の男を幻想することではない。そうではなく、その性交最中の男が彼女自身ではなく別の女とヤッテいることを幻想する。その患者にとって、この幻想がオーガスムに達するために必要不可欠だった。…

この幻想はとても深く隠されている。男・彼女の男・彼女の夫は、それについて何も知らない。彼は毎晩別の女とヤッテいるのを知らない…これがラカンが指摘したヒステリー的無言劇である。その幻想ーー同時にそのように幻想することについて最も隠蔽されている幻想は(女性的)主体のごく普通の態度のなかに観察しうるがーーそれを位置付けるのは容易ではない。(ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm) 









入れたままの一物まだ小さくなる暇なきを幸、そつと下から軽く動して見るに、女は何とも言はず、今方やつと静まりたる息づかひすぐにあらくさせて顔を上げざれば、こりやてつきり二度目を欲する下心と、内心をかしく、暫くして腰を休めて見るに、女は果せる哉、夢中にて上から腰をつかふぞ恐ろしき。 (荷風「四畳半襖の下張」)


原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。

ーー西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より


性交の喜びを10とすれば、男と女との快楽比は1:9である。(ティレシアスの神話)
性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier(ラテン語格言、ギリシャ人医師兼哲学者Galen)
われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは…かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝(ティトゥス・イリウス・プロクルス)とある皇后(クラディウス帝の妃メッサリナ)自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。……以上のことを信じ、かつ、説きながらも、われわれ男性は、純潔を女性にだけ特有な本分として課し、これを犯せば極刑に処すると言うのである。(モンテーニュ『エセー』)



不安セミネール10において、ラカンは言う…「女は何も欠けていない La femme ne manque de rien」、ラカンは強調する、「それは明らかだ 」と。…

最初の転倒がある。

享楽への道 le chemin de la jouissance において、困惑させられるのは男である。男は選別されて去勢に遭遇する。勃起萎縮 détumescenceである。…われわれが性行為のレベルで物事を考えるなら、道具器官の消滅を扱うなら、ラカンが証明していることは、以前の教えとはまったく逆に、欲望と享楽に関して、当惑・困窮するのは男性主体である。

そしてここに始まる、ラカンによる女性性賛歌が。女性の劣等性ではなく優越性である。…享楽に関して、性交の快楽に関して、女性主体は何も喪わない le sujet féminin ne perd rien。…

ラカンはティレシアスの神話に援助を求めている。それは享楽のレベルでの女性に優越性を示している。…

ここに、かてつ分析ドクサだったもの全ての、際立ったどんでん返しがある。喪失するのは男なのである。というのは、性交において、男は器官を持ち出し、去勢を見出すから。男は賭けをする。そして喪うのは男である。…ラカンは、性交によっても、女は無傷のまま、元のままであることを示している。(Jacques-Alain Miller, INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 2004年)