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2019年12月25日水曜日

アホウの歌

ジジェクに訊く、2008

――あなたが一番遺憾に思っている自分の特徴は?

 他人の苦境への無関心。
――あなたを落ち込ませることとは?

 アホな連中が幸せそうにしているのを見ること。
――これまでで最悪だった仕事は?

 教師。私は生徒たちが嫌いだ。彼らのほとんどは、(全ての人々がそうであるように)アホだし退屈だ。


■ニーチェに訊く

――あなたを落ち込ませることとは?

 アホな連中に褒められること。

称賛することには、非難すること以上に押しつけがましさがある。Im Lobe ist mehr Zudringlichkeit, als im Tadel.(ニーチェ『善悪の彼岸』 170番)
思い上がった善意というものは、悪意のようにみえるものだ。Es giebt einen Uebermuth der Guete, welcher sich wie Bosheit ausnimmt. (ニーチェ『善悪の彼岸』 184番、1886年)
わたしが共感心(同情)の持ち主たちを非難するのは、彼らが、恥じらいの気持、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心づかいというものを、とかく失いがちであり、共感がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなるからである。Ich werfe den Mitleidigen vor, dass ihnen die Scham, die Ehrfurcht, das Zartgefühl vor Distanzen leicht abhanden kommt, dass Mitleiden im Handumdrehn nach Pöbel riecht und schlechten Manieren zum Verwechseln ähnlich sieht, (ニーチェ『この人を見よ』1888年)

◼️アホウのためのポリコレ
聾者の国 Deaf Nation の事例を取り上げてみよう。 今日、「耳の不自由な」人のための活動家は、耳が不自由であることは傷害ではなく、別の個性 separateness であることを見分ける徴であると主張する。そして彼らは聾者の国をつくり出そうとしつつある。彼らは医療行為を拒絶する、例えば、人工内耳や、耳の不自由な子供が話せるようにする試みを(彼らは侮蔑をこめて口話偏重主義 Oralismと呼ぶ)。そして手話こそが本来の一人前の言語であると主張する。“Deaf”に於ける大文字のDは、聾は文化であり、単に聴覚の喪失ではないという観点をシンボル化している。(Margaret MacMillan, The Uses and Abuses of History, London, 2009)

このようにして、すべてのアカデミックなアイデンティティ・ポリティクス機関が動き始めている。学者は「聾の歴史」にかんする講習を行い、書物を出版する。それが扱うのは、聾者の抑圧と口話偏重主義 Oralism の犠牲者を顕揚することだ。聾者の会議が組織され、言語療法士や補聴器メーカーは非難される、……等々。

この事例を揶揄するのは簡単である。人は数歩先に行くことを想像すればよい。もし聾者の国 Deaf Nation があるなら、どうして盲者の国 Blind Nation が必要ないわけがあろう、視覚偏重主義の圧制と闘うための。どうしてデブの国 Fat Nationが必要でないわけがあろう、健康食品と健康管理圧力団体のテロ行為に対して。どうしてアホウの国 Stupid Nation が必要でないわけがあろう、アカデミックな圧力に残忍に抑圧された者たちの。……(ジジェク, LESS THAN NOTHING, 2012)