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2019年12月27日金曜日

キッチュの歌

(このインターネットの時代)、読むという秘儀がもたらす淫靡な体験が何の羞恥心もなく共有されてしまっているという不吉さ・・・

実際、「読書」とはあくまで変化にむけてのあられもない秘儀にほかならず、読みつつある文章の著者の名前や題名を思わず他人の目から隠さずにはいられない淫靡さを示唆することのない読書など、いくら読もうと人は変化したりはしない。(蓮實重彦『随想』2010年)

新刊書を読んで、「発酵」なしで鳥語感想をして糞屑を生み出しているボウヤやオジョウサンたちは恥を知らなければなりません。「こんな本読んでいるアタシを見て!」なんてフォロワーに見せびらかしてウットリしても何の役にも立ちません。

大切なのは隠すことです。真に惚れた女(あるいは男)がいたら隠すだろ?

ーーいやあ最近の連中はそうじゃなくて見せびらかすのかもしれない。オスキナヨウニ。ただしオツキアイは一切ごめんこうむります。



キッチュと俗物
キッチュな人間のキッチュな欲求。それは、あばたをえくぼと化する虚偽の鏡の覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求である。(クンデラ「七十三語」)

キッチュという言葉は、どんなことをしてでも、大多数の人びとに気に入ってもらいたいと望む者の態度をあらわしています。気に入ってもらうためには、あらゆる人びとが理解したいと望んでいることを確認し、紋切り型の考えに仕えなければなりません。キッチュとは、紋切り型の考えの愚かしさを美しさと情緒の言葉に翻訳することなのです。キッチュは、私たち自身にたいする感動の涙を、私たちが考えたり感じたりする平凡なことにたいする涙を私たちに流させます。

どうしても気に入られ、そうすることによって大多数の人びとの関心を得なければならないという必要を考えてみれば、マス・メディアの美学はキッチュの美学にならざるをえません。マス・メディアが私たちの生活のすべてを包囲し、そこに浸透するにつれて、キッチュは私たちの美学にそして私たちの日常の道徳になっていきます。最近まで、モダニズムは紋切り型の考えとキッチュにたいする非順応的抵抗を意味していました。今日では、モダニティはマス・メディアの途方もない活力と一体になっていますし、モダンであるということは、時代に乗り遅れないようにするためのすさまじい努力、このうえなく型どおりであるよりもさらに型どおりであろうとするためのすさまじい努力を意味しています。モダニティはキッチュというドレスを身にまとったのです。(クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』所収)
キッチュなものは続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ! 

第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と感激を共有できるのは何と素晴らしいんだろう!

この第二の涙こそ、キッチュをキッチュたらしめるものである。

世界のすべての人びとの兄弟愛はただキッチュなものの上にのみ形成できるのである。

世の中に政治家よりこのことをよく理解している人はいない。政治家は身近にカメラがあると、すぐ一番近くの子供に駆け寄り、その子を高く持ち上げて、頬にキスする。キッチュなものはあらゆる政治家、あらゆる政党や運動の美的な理想なのである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)
俗物(philistine)は成熟した大人であって、その関心の内容は物質的かつ常識的であり、その精神状態は彼または彼女の仲間や時代のありふれた思想と月並みな理想にかたちづくられている。(……)「ブルジョア」という言葉を、マルクスではなくフロベールの用例に従って私は用いる。フロベールの意味での「ブルジョア」は一つの精神状態であって、財布の状態ではない。ブルジョアは気取った俗物であり、威厳ある下司である。

順応しよう、帰属しよう、参加しようという衝動にたえず駆り立てられている俗物は、二つの渇望のあいだで引き裂かれている。一つは、みんなのするようにしたい、何百万もの人びとがあの品物を褒め、この品物を使っているから、自分も同じものを褒めたり使ったりしたい、という渇望である。もう一つは排他的な場、何かの組織や、クラブ、ホテルなどの常連、あるいは豪華客船の社交場(白い制服を着た船長や、すばらしい食事)に所属し、一流会社の社長やヨーロッパ の伯爵が隣に座っているのを見て喜びたい、という渇望である。(ナボコフ『ロシア文学講義』)



ーー「キッチュなものは続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ! /第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と感激を共有できるのは何と素晴らしいんだろう!/この第二の涙こそ、キッチュをキッチュたらしめるものである」とありますが、たとえば鳥語装置におけるグレタ・トゥンベリちゃん応援合唱団にこのキッチュの臭いをかがないですませるわけにはいけません。

グレタちゃん自身の問題ではありません。応援団の問題です。ああなんとハズカシイ連中だろう! 

Xについて何か発言すれば、意見を言えば、自分はちゃんとXを意識している、Xについて考えている、他者に向かってそう言いたい人が、ウエブのおかげで増えているのかと思う。行動はしなくても、コトバにすれば免責される、そんな気持ちがひそんでるんじゃないかな。(谷川俊太郎、2015年12月24日

………


欲望の搾取 exploitation du désir、これが資本の言説 discours capitalisteの大いなる発明である。(ラカン、Excursus, 1972)

ーー1970年前後に「主人の言説から資本の言説への移行」があったとするラカンの考え方自体についてはここでは触れない。いくらかの参照としては、「資本の言説の時代における「欲望の搾取」」を見よ。




ここでは、ベルギーゲント大学ーーラカン研究のメッカのひとつーーのまだ若い精神分析家 Stijn Vanheule (といっても1974年生まれだが、わたくしがしばしば引用依拠するポール・バーハウの弟子筋である)の最近の論からのみ引用する。

資本の言説が意味するのは、「市場(S1)」において交換価値に則って商品やサービスを購買する「消費者 ($) 」である。

しかし、いったん消費者が商品やサービスを所有あるいは消費してしまえば、交換価値は使用価値に還元される。

「消費者が所有するS1」は、「彼の世界を構成する他の諸表象(S2)」との対話に至る。

これは快楽や達成感をそれほど生まない。むしろ酔いさましの過程である。結局、消費財は諸々の人工加工物のなかの一つの人工加工物である。諸シニフィアンの中の一つのシニフィアンである。(……)

市場にまだあって購買するときには価値を持っていた何ものかは、消費者が所有したときにはもはや消滅する。商品は望まれた満足を提供しない。

期待された魅惑は喪われる。そのときの「生産物」は屑 aである。

生産されたものは、剰余享楽(残滓a)であり、次の段階で、不快やパニックの火をつける。a から $ への矢印が明瞭化しているのは、対象a が主体を混乱させることである。それは再び $ から S1 への動きを生む。従って、以前の消費がもたらした不満に対する「資本の言説」の応答とは、「もっと消費せよ!」である。

資本の言説において真に消費されるものは、欲望自体である。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis, 2016)


資本の言説についてはいろいろな解釈があり、これはそのうちの一つの解釈にすぎないが、Stijn Vanheuleの解釈を受け入れるなら次のように図示できる。






ここでこの図を使って鳥語装置における消費的読者図を示しておこう。






いやあ、昨今のツイッター現象とピッタンコである。ツイッターは資本の言説装置なのである。資本の言説装置という釈迦の掌の上で資本主義を批判しても、資本主義システムを補完してしまうだけです(最近、マルクスやら左翼ポピュリズムやらと囀っているボウヤ研究者たちが限りなくはしたないのはこのせいです)。

とくにRTやらファヴォやらの「記号の記号」流通システムとしての鳥語装置の醜悪さといったら!

大衆化現象は、まさに、…階層的な秩序から文化を解放したのである。そしてそのとき流通するのは、記号そのものではなく、記号の記号でしかない。(……)読まれる以前にすでに記号の記号として交換されているのである。(……)

問題は、欠落を埋める記号を受けとめ、その中継点となることなのではなく、もはや特定の個人が起源であるとは断定しがたい知を共有しつつあることが求められているのである。新たな何かを知るのではなく、知られている何かのイメージと戯れること、それが大衆化現象を支えている意志にほかならない。それは、知っていることの確認がもたらまがりなす安心感の連帯と呼ぶべきものだ(……)。そこにおいて、まがりなりにも芸術的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない、ともにその名を目にしてうなずきあえる記号であれば充分なのである。だから、それを解読の対象なのだと思ってはならない。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)

ーーここでの文脈では、「まがりなりにも芸術的とみなされる記号」は、「まがりなりにも知的とみなされる記号」としてください。事実、柄谷行人は『凡庸な芸術家の肖像』の書評で、「凡庸な知識人の肖像」と読み替えうると言っています。

なにはともあれみなさん、はやいところ聖人となって笑いましょう。

聖人となればなるほど、ひとはよく笑う Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本主義の言説 discours capitalisteからの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない。(ラカン、TÉLÉVISION、AE520, 1973年12月)

冒頭の蓮實文に戻ってこういっておきましょう。

人はデカルトのいうような20年かかった本を「ひそかに」読むのが理想ですが、10年に妥協しておきましょう。

人が二十年もかかって考えたことのすべてを、それについて二つ三つのことばを聞くだけで、一日でわかると思いこむ人々、しかも鋭くすばやい人であればあるほど誤りやすく、真理をとらえそこねることが多いと思われる。(デカルト『方法序説』)

そして読んだら最低3年ぐらいかけて「発酵」しましょう。それが本を読むということです。すくなくとももしあなたがたが消費者的読者から脱却したいなら。

なにはともあれーー「なにはともあれ」とくりかえしますがこの言い方よりほかに思いつきませんーー世界はとっても進歩したようです。旧世代のボクにはまったくついていけません。

フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあれば、またもっとも絶句せざるをえないことは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさもまた進歩する! ということです。(クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』所収)

「愚かさもまた進歩する!」を別の言い方をすればこうです。

もはやどんな恥もない Il n'y a plus de honte …

下品であればあるほど巧くいくよ plus vous serez ignoble mieux ça ira (Lacan, S17, 17 Juin 1970)

みなさん、すこしでも上品になるためには、まずは「蚊居肢」なんていうトッテモ下品なブログを一切読まないことです。このブログはエロ画像のようにしてエロ事師たちの文章群を貼り付けているだけなのですから。

だいたいこの程度の記事なら5分程度でいっちょうあがりで、最近エロgifを貼り付けることを重ねましたが、あっちのほうは10分ぐらいかかりますから、下品度はいくらか低いです。