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2019年12月8日日曜日

ダ・ヴィンチ手記における「自己破壊欲動」

半年ほど前、青空文庫に「入庫」されていることに気づいた芥川龍之介の『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』の抄訳の一部を引用した。

我等の故郷に歸らんとする、我等の往時の状態に還らんとする、希望と欲望とを見よ。如何にそれが、光に於ける蛾に似てゐるか。絶えざる憧憬を以て、常に、新なる春と新なる夏と、新なる月と新なる年とを、悦び望み、その憧憬する物の餘りに遲く來るのを歎ずる者は、實は彼自身己の滅亡を憧憬しつつあると云ふ事も、認めずにしまふ。しかし、この憧憬こそは、五元の精髓であり精神である。それは肉體の生活の中に幽閉せられながら、しかも猶、その源に歸る事を望んでやまない。自分は、諸君にかう云ふ事を知つて貰ひたいと思ふ。この同じ憧憬が、自然の中に生來存してゐる精髓だと云ふ事を。さうして、人間は世界の一タイプだと云ふ事を。(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』芥川龍之介訳(抄譯)大正3年頃)

ーー大正3年頃とあり、芥川は、22歳前後である。

これを引用した当時は、「光に於ける蛾」ばかりに注目した。萩原朔太郎にも同じ表現があり、かつまたラカン派で欲動の有様を言うとき、「光に於ける蛾」の類似表現はしばしば使われる。

ところで「彼自身己の滅亡を憧憬しつつある」ともあり、これはフロイトの原マゾヒズム(ラカンの享楽)の定義でもありうる。

以下の文章群はこのところり返している内容なので、すでに頭に入っている方はすっとばして頂いてよいが、確認のため再掲しておく。


自己破壊欲動=死の欲動=原マゾヒズム =享楽
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
われわれにとって唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。(ラカン、S13、June 8, 1966)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…

享楽の対象Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)



こういったことは臨床的にはフロイトが見出した時点では新しかったのだろうが、(一部の天才たちにとっては)人間の本質としてむかしから「詩的に或いは哲学的に」掴まれていたことなのだろう。

わたくしは『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』の英訳を拾ってみて、はじめてダ・ヴインチの自己破壊への指摘に明瞭に気づいた。

Now you see that the hope and the desire of returning home and to one's former state is like the moth to the light, and that the man who with constant longing awaits with joy each new spring time, each new summer, each new month and new year--deeming that the things he longs for are ever too late in coming--does not perceive that he is longing for his own destruction. But this desire is the very quintessence, the spirit of the elements, which finding itself imprisoned with the soul is ever longing to return from the human body to its giver. And you must know that this same longing is that quintessence, inseparable from nature, and that man is the image of the world.


伊原文はネット上でなかなか探し出せなかったが、一時間ぐらいかかってようやく見出した。

Or vedi la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume, dell'uomo che con continui desideri sempre con festa aspetta la nuova primavera, sempre la nuova state, sempre e' nuovi mesi, e' nuovi anni, parendogli che le desiderate cose venendo sieno troppe tarde, e non s'avede che desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi, che trovandosi rinchiusa pro anima dello umano corpo desidera sempre ritornare al suo mandatario. E vo' che s'apichi questo medesimo desiderio en quella quintaessenza compagnia della natura, e l'uomo è modello dello mondo.(Codice Leonardo da Vinci)


いま黒字強調をした部分の前後を直訳風にすればほぼこうなるのだろう。

我々の原カオス回帰への希望と欲望は、蛾が光に駆り立てられるのと同様である。…人は自己破壊憧憬をもっており、これこそ我々の本源的憧憬である。

la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume[…]desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi,

ーー「原カオスへのリトルネロ ritornare nel primo chaos」!

リロルネロ ritournelle は三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスchaosが巨大なブラックホール trou noir となり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この外観に逃げ道échappéeを接ぎ木greffe して、ブラックホールの外 hors du trou noir にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

ーーもっともDGのカオスは直接的にはレオナルドのカオスではないだろう。

ダ・ヴィンチの使う「カオス」という語は、現在使われるカオスという語からはいくらか奇妙だが、これは古代ギリシアで使われたカオスに相当するはずである。

わたくしはこのあたりにひどく疎いが、wikiのカオスの項にはこうある。

カオス(古希: Χάος, Chaos)とは、ギリシア神話に登場する原初神である。「大口を開けた」「空(から)の空間」の意。オルフェウスによれば、このカオスは有限なる存在全てを超越する無限を象徴しているという。
ヘーシオドスの『神統記』に従うと世界の始まりにあって存在した原初の神である。世界(宇宙)が始まるとき、事物が存在を確保できる場所(コーラー)が必要であり、何もない「場」すなわち空隙として最初にカオスが存在し、そのなかにあって、例えば大地(ガイア)などが存在を現した。また、ヘーシオドスはカオスのことをカズム(裂け目)とも呼んでいる。『神統記』によれば、カオスの生成に続いてガイア(大地)が生まれ、次に暗冥の地下の奥底であるタルタロスが生まれた。また、いとも美しきエロース(原愛)が生まれた。しかし、これらの原初の神々はカオスの子とはされていない。カオスの子カオスより生まれたものは、エレボス(幽冥)と暗きニュクス(夜)である。更に、ニュクスよりアイテール(高天の気)とヘーメレー(ヘーメラー・昼光)が生まれた。世界はこのようにして始まったと、ヘーシオドスはうたっている。

ーーコーラーとあるが、プラトンは『ティマイオス』冒頭で、「コーラ chola は母である」としつつ、こうもある。

およそ生成する限りのすべてのものにその座を提供し、しかし自分自身は、一種のまがいの推理とでもいうようなものによって、感覚には頼らずに捉えられるもの。(プラトン『ティマイオス』)

「コーラ、すなわち母胎(マトリックス)である」としてよいだろう。

ここでフロイトを引用しよう、ダ・ヴィンチとともに読むために。

ーー「我々の原カオス回帰(コーラ回帰)への希望と欲望は、蛾が光に駆り立てられるのと同様である。…人は自己破壊憧憬をもっており、これこそ我々の本源的憧憬である」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)





ところで原マゾヒズムである自己破壊欲動=死の欲動は、フロイトは最後まで曖昧なままだったが、ラカン派を通してフロイトを真に読み深めれば、実際は「愛の欲動 Liebestriebe 」のことでもある。

すなわち、死の欲動=愛の欲動である。

これもこのところ繰り返している内容だが、以下にそのうちのいくつかを簡潔に示しておく。


Libido = Lust = Liebestriebe = jouissance
人間や動物にみられる性的欲求 geschlechtlicher Bedürfnisseの事実は、生物学では「性欲動 Geschlechtstriebes」という仮定によって表される。この場合、栄養摂取の欲動Trieb nach Nahrungsaufnahme、すなわち飢えの事例にならっているわけである。しかし、「飢えHunger」という言葉に対応する名称が日常語のなかにはない。学問的には、この意味ではリビドーLibido という言葉を用いている。(フロイト『性欲論』1905年)
リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。…哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…

この愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
性欲論1910年注:ドイツ語の「Lust」という語がただ一つ適切なものではあるが、残念なことに多義的であって、欲求Bedürfnissesの感覚と同時に満足Befriedigungの感覚を呼ぶのにもこれが用いられる。
すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
我々は、フロイトがLustと呼んだものを享楽と翻訳する。ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance. (Jacques-Alain Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)



これはレオナルドの記述に思いを馳せればーーすなわち自己破壊憧憬=コーラへの回帰憧憬とするならーー、死=究極の愛であることは何の奇妙さもない。ニーチェの永遠回帰の究極の思考もここにあるとわたくしは考えている。→「永遠の生(不死の生)は個体の死
ことである