2019年12月11日水曜日

たがいに異なる遠くの離れたもの

私は地中海をこよなく愛した。たぶん他の多くの人と同じように、また多くの先達に続いて北の出身であるためだろう。長い歳月にわたってーー私にとっては青春時代を過ぎてまでもーー地中海に研究を捧げることは喜びであった。私の青春の代償として、この研究の喜びの一部と地中海の多くの光りが本書のそれぞれのページを照らし出してくれるものと期待している。……(フェルナン・ブローデル『地中海』序文(初版)浜名優美訳)
ヴェネツィアを想起するにあたって、私の心はなによりもまず、はじめてこの町に近づく無垢な旅人に向けられる。それは、一種の迂回路であるとはいえ、自分自身をふたたび見出す方法、他者に高い価値を与えるという好都合な口実のもとに、自分自身に特権を与える方法なのではないだろうか? 青春の戸口にあった自分自身の姿をふたたび目にすると同時に、常軌を逸した形で膨張し、広がってはならないはずのところまで広がりながら、そこでもやはり繁栄し、私たちの喜びのために今なお生き続けているこの町にはじめて面と向かったときの自分に再会する……。「内心を打ち明ける女友達(とも)として、私はヴェネチアを選んだ。」ポール・モーランは最近そう書いた。「(……)私は他のどこよりもヴェネチアでこそ、よりよく自分の人生を考える。「レヴィの家」のヴェネローゼのように、画面の片隅にちらっと鼻先を見せるようなことになっても、それは仕方がない。」ヴェネツィアを語ろうとする時、人はたちまち自分の鼻先を見せてしまう。押し寄せる思い出の群を抑えるすべはない。そんなことのできる人がいるだろうか? 本当の話をしよう!(フェルナン・ブローデル『都市ヴェネツィア』岩崎力訳)


たとえば私はバッハのマタイ受難曲をこよなく愛している。マタイを愛している人に出会えば共感する。けれども話しているうちに真に愛している箇所が違うことが判明する。私が心から愛している箇所は最初の合唱でも最後の合唱でもない。武満徹がおそらく最も愛したアリア「憐れみたまえ Erbarme dich」でさえない。もっと別の細部だ。

同じマタイを愛してそのことが判るといくらか失望する。これは何も音楽だけの話ではない。私は幼年期から思春期、青年期を通して、伊古部から西に伸びて伊良湖岬にいたる海岸を愛した。その先にある神島ーー三島由紀夫の『潮騒』における歌島ーーも愛した。たとえば神島を愛している人がいれば共感する。けれども異なったものを愛しているのはすぐ判る。

ジュネはこう言っている。

美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (Jean Genet, L’atelier d’Alberto Giacometti)

美は、あるいは愛は、おのれのうちに保持し保存している固有の傷にかかわる。それぞれの人間によってたがいに異なる遠くの離れたものは共有できない。

音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。(……)

だが、なぜ一緒に聞くことができないのだろう。なぜ音楽は孤独で身動きできない状態にあるときのわたしたちをとらえるのか。一緒に聞けば、他人の目の前で、そして他人とともにいながら、自己をあくまでも自分ひとりきりのものでしかない状態に投げ出してしまうことになるからなのか。それぞれの人間によってたがいに異なるはずの遠くの離れたものを共有することになるからなのか。子供時代も死も共有できはしないからなのか。

音楽、それは身体と身体のぶつかりあいであり、孤独と孤独のぶつかりあいであり、交換すべきものがなにもないような場での交換である。ときにそれは愛だと思われもしよう。演奏する者の身体と聴く者の身体がすっかり肉を失い、たがいに遠く離れ、ほとんどふたつの石、ふたつの問い、ふたりの天使を思わせるものとなって、どこまでも悲しい狂おしさを抱いて顔を向き合わせたりしないならば。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PAINO SOLO』)

もしあの伊古部から伊良湖岬にいたるエリアを今後訪れることがあっても、必ず独りで行くだろう。他人には邪魔されたくない。

というのは、彼といっしょにしゃべっているとーーほかの誰といっしょでもおそらくおなじであっただろうがーー自分ひとりで相手をもたずにいるときにかえって強く感じられるあの幸福を、すこしもおぼえないからであった。ひとりでいると、ときどき、なんともいえないやすらかなたのしい気持に私をさそうあの印象のあるものが、私の心の底からあふれあがるのを感じるのであった。ところが、誰かといっしょになったり、友人に話しかけたりすると、すぐ私の精神はくるりと向きを変え、思考の方向は、私自身にではなく、その話相手に移ってしまうので、思考がそんな反対の道をたどっているときは、私にはどんな快楽もえられないのであった。ひとたびサン=ルーのそばを離れると、言葉のたすけを借りて、彼といっしょに過ごした混乱の時間にたいする一種の整理をおこない、私は自分の心にささやくのだ、ぼくはいい友達をもっている、いい友達はまたとえられない、と。そして、そんなえがたい宝ものにとりまかれていることを感じるとき、私が味わうのは、自分にとって本然のものである快感とは正反対のもの、自分の薄くらがりにかくれている何かを自分自身からひきだしてそれをあかるみにひきだしたというあの快感とは正反対のものなのであった。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに』)

もっともおそらくもう行かない。海外住まいをするようになってからも帰郷のたびに何度も訪れた。だがあの少年時代の感激はもはやまったくないのだから。ブローデルのいうように「青春の戸口にあった自分自身の姿をふたたび目にする」ということはあった。だがあれらは結局、センチメンタルジャーニーにすぎなかった。

ようするに、「愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime」(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1970年)

もう騙されたくなかった。おとし物の問題なんだ


かなしみ 谷川俊太郎

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

→「女というおとしモノ




なんどもくりかえしてきたことなんだけど、まだわかってもらえないのだよな。わからないふりをしているのだろうか?

私はつぎのことを知っていたからだ、――バルベックの美 la beauté de Balbec は、一度その土地に行くともう私には見出されなかった、またそのバルベックが私に残した回想の美も、もはやそれは二度目の逗留で私が見出した美ではなかった、ということを。私はあまりにも多く経験したのだった、私自身の奥底にあるものに、現実のなかで到達するのが不可能なことを。また、失われた時を私が見出すであろうのは、バルベックへの二度の旅でもなければ、タンソンヴィルに帰ってジルベルトに会うことでもないのと同様に、もはやサン・マルコの広場の上ではないということを。また、それらの古い印象が、私自身のそとに、ある広場の一角に、存在している、という錯覚をもう一度私の起こさせるにすぎないような旅は、私が求めている方法ではありえない、ということを。

またしてもまんまとだまされたくはなかった Je ne voulais pas me laisser leurrer une fois de plus、なぜなら、いまの私にとって重大な問題は、これまで土地や人間をまえにしてつねに失望してきたために(ただ一度、ヴァントゥイユの、演奏会用の作品は、それとは逆のことを私に告げたように思われたが)、とうてい現実化することが不可能だと思いこんでいたものにほんとうに自分は到達できるのかどうか、それをついに知ることであったからだ。…

未知の表徴 signes inconnus(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴 signes en relief)、そんな未知の表徴をもった内的な書物といえば、それらの表徴を読みとることにかけては、誰も、どんな規定〔ルール〕も、私をたすけることができなかった、それらを読みとることは、どこまでも一種の創造的行為であった、その行為ではわれわれは誰にも代わってもらうことができない、いや協力してもらうことさえできないのである。(プルースト「見出された時」)