2019年12月9日月曜日

海の百合 Le Lis De Mer

ニーチェの瞑想にとって海の波の風景が重要であったことを思いだしてもいいだろう。on se rappelle, en passant, l'importance du spectacle des vagues de la mer pour la contemplation nietzschéenne (クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)
意志と波 Wille und Welle……

私はお前を知っている、お前の秘密を知っている。お前の起源を知っている! お前と私は実にひとつの起源から生まれたのだ! お前と私は実に同じ秘密をもっている!

ich kenne euch und euer Geheimniss, ich kenne euer Geschlecht! Ihr und ich, wir sind ja aus Einem Geschlecht! — Ihr und ich, wir haben ja Ein Geheimniss! (ニーチェ『悦ばしき知』第310番)




告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ  ich bekenne, dass der tiefste Einwand gegen die »ewige Wiederkunft«, mein eigentlich abgründlicher Gedanke, immer Mutter und Schwester sind.。― (ニーチェ『この人を見よ』--妹エリザベートによる差し替え前の正式版 Friedrich Wilhelm Nietzsche: : Ecce homo - Kapitel 3 、1888年)




沼岸をいく彼女たちのあゆみが、気泡を残しつつゆっくりと水底におりていくサワガニは別として、他の目に見えない住人という住人を騒ぎへと駆り立てていた。さざ波や、はげしいうずが、岸辺から起って水面を走っていく。沼に棲むトリたちも、低く飛び立って、イグサの茂みへと身をすべりこませていった。このあたり、流れとはまったく無縁の、動きのない水には、漠とした腐敗のにおいがあった。そして、日陰の、また日向の緑や黄のコケが、そうした水の豪奢な装飾となり、マツモムシ、タイコウチ、ミズカマキリなどに活動の場を与えていた。たぶん、身の危険となる距離を見はからってだろう、彼女たちが進むにつれて、カエルが熟れた果実のように水に落ちた。ほとんど黒のような、こい灰色の柔らかな地面に、ふたりの足がめりこんでいく。(マンディアルグ『海の百合』Le Lis De Mer)

Comme le fruit se fond en jouissance,
Comme en délice il change son absence
Dans une bouche où sa forme se meurt,
Je hume ici ma future fumée,
Et le ciel chante à l’âme consumée
Le changement des rives en rumeur.

果実が溶けて快楽(けらく)となるように
形の息絶える口の中で
その不在を甘さに変へるやうに、
私はここにわが未来の煙を吸ひ
空は燃え尽きた魂に歌ひかける、
岸辺の変るざわめきを。

――ポール・ヴァレリー「海辺の墓地 Le Cimetière marin」第五節 中井久夫訳


私の目には、海百合が驚異であることに変わりはない。その驚異があらわれるのは、大胆かつ冒険的な、一種のデぺイズマンdépaysementの状態においてである。そしてその驚異は、 この植物が、道理からいってもそれに敵対し、あるいは少なからずそれを排除しようとするはずの環境のなかにあって、異様な存在感を発していることからも生じている。もっともやせた砂丘からしか養分をえることがないにもかかわらず、ほかの植物と同じだけ豊富な樹液をたくわえているという点においても驚異である。花は誇らしげにみずからの美をさらけだし、それを支える緑の輝きは、不毛な地とのコントラストによって、肉厚的なつやつやした光沢をこれ見よがしに浮かび上がらせている。こうしてひとは、(喜びからであれ、羨みからであれ、観る者の性質に応じてであるが)生彩に欠けた土地のなかに豪者なものの芽生えを発見して感動に打たれるのである。(マンデイアルグ, 海の諸百合 Les Lis de mer )



強かろうと弱かろうと、重かろうと軽かろうと、ユリ科植物の香りは、自然の中でもっとも暗示に富み、もっとも心惑わせる。海百合 lis de merと呼ばれるパンクラスから貴重なバラ色のアマリリスまで、池に咲く百合であるヒヤシンスから、インカ百合、聖ヨハネの百合、聖ヤコブの百合、スーラの百合、マルタゴン・リリーそして野生の百合にいたるまで、用心深い人びとは寝室からそれらを遠ざけるが、それらすべては女性に、そして女性の奥深い親密さ l'intimité profonde de la femme に結びつき、どれほどの甘美さを凝集していることか。(マンデイアルグ, Liliacées langoureuses aux parfums d'Arabie : Photographies de Irina Ionesco, préface)



どうやら、ミシュレットは気がふれてしまったみたいだった。髪を水中に浸したまま、両脚を広げて、仰向けに横たわり、膝頭は金網にあたってすりむけ、血をしたたらせ。このあられもない姿勢は、ぼろぼろにちぎれたデシンかレースの布が傷つき汚れた体をまだところどころ装ってはいたものの、素裸の状態よりももっとよく(いや、もっと悪く)私たちの視線の前に彼女をさらけ出すのだった。五匹の蛸は、彼女の上にはりついたまま、もはや身動きもしなかった、その触手を彼女の脇腹や、下腹や、太腿の皮膚の上にぴったりと結わえつけ。もう一匹、なかでもとびきり大きなやつは、彼女の顔の上にやってきてそこにはりつき、ぞっとするほどグロテスクな仮面をかぶせていた。裂けた絹やレース、血潮、生き物の墨、砂、そして汚された水などから成る舞台装置の中で演じられる、軟体頭足動物といとけない肉体とのこのような縺れ合いは、<崇高>という言葉で漠然と言い表されるものをたぶん内にひそめた雄壮な野獣性の度合にまで到達し、私はすっかり正気を奪われてしまった。ヴィオラの体を鷲づかみすると私は、彼女から化粧着を引っぱがし、金網の上へ仰向けに押し倒した。が、他の連中にもこの見世物の効果は現われ、私のほうは玉門へ突っ込んでいるひまがなかった。

「天上天下すべての尻に誓って」とガムーシュの主がわめき立てた。「やっと勃起できそうだぞ!」(マンディアルグ『城の中のイギリス人』)



すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。(夏目漱石『夢十夜』)



菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。……

菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。…

京都の街々、家々を思うと、いかにも底深い腐葉土の上に建てられているという感じがある。いたるところに過去のものがカビ類に洗われて骨格だけをとどめながら埋もれているのは周知のとおりである。菌臭のただようひんやりした露地は、それが地表にたまたま現れたもので、いずれまた地下に沈みこんでゆく運命である。…

菌臭は、単一の匂いではないと思う。カビや茸の種類は多いし、変な物質を作りだすことにかけては第一の生物だから、実にいろいろな物質が混じりあっているのだろう。私は、今までにとおってきたさまざまの、それぞれ独特のなつかしい匂いの中にほとんどすべて何らかの菌臭の混じるのを感じる。幼い日の母の郷里の古い離れ座敷の匂いに、小さな神社に、森の中の池に。日陰ばかりではない。草いきれにむせる夏の休墾地に、登山の途中に谷から上がってくる風に。あるいは夜の川べりに、湖の静かな渚に。…

菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)