2019年12月10日火曜日

「海が好き」と「海を愛している」

極論を言わせてもらえば、「私は海が好き」なら別だけど、「私は海を愛している」ってのは次のどっちかしかないんだよ。

海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。(三好達治「郷愁」)
僕は海にむかって歩いている。僕自身の中の海にむかって歩いている。(中上健次『海へ』)

ようするに母か自分自身か。ほかの愛はすべて妄想だね。

愛は、人間が事物を、このうえなく、ありのままには見ない状態である。甘美ならしめ、変貌せしめる力と同様、迷妄の力 illusorische Kraft がそこでは絶頂に達する。(ニーチェ『反キリスト者』1888年)
ラカンの発言「人はみな狂っている Tout le monde est fou」とは…、各人は性関係の構築をする[chacun a sa construction]。すなわち各人は性的妄想を抱く[chacun a son délire sexuel]ということである。( Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 2008)

ま、妄想がわるいわけじゃないけどさ。

病理的生産物と思われている妄想形成 Wahnbildung は、実際は、回復の試み・再構成である。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察(シュレーバー症例)』 1911年)

「母か自分自身か」ってのをフロイト的に言えばこうだ。


つまりあとはみな代理人だ。

母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

ーー海は原誘惑者だな。

ベースにある原ナルシシズムの対象ってのは、ようするに享楽の対象。

享楽の対象Objet de jouissance …フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは、喪われた対象 objet perdu である。(ラカン, S17, 14 Janvier 1970)
モノLa Choseは享楽の空胞 vacuole de la jouissanceである。(Lacan, S16, 12 Mars 1969)
モノは母(原母)である。das Ding, qui est la mère (ラカン, S7 , 16 Décembre 1959)

ボクに言わせれば例外はないね。

………

※付記


ストゥディウム studiumというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い(I like/ I don’t)の問題である。ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、(プンクトゥムの)愛する(to love)の次元には属さない。ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意志しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。

プンクトゥム(punctum)――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さな染み petite tache、小さな裂け目petite coupureのことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもある。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)
『明るい部屋』のプンクトゥム punctum は、ストゥディウムに染みを作る fait tache dans le studium ものである。私は断言する。これはラカンのセミネール11にダイレクトに啓示を受けていると。ロラン・バルトの天才が、正当的なスタイルでそれを導き出した。…そしてこれは「現実界の効果 l'Effet de réel」と呼ばれるものである。(Miller, L'Être et l'Un - 2/2/2011)