2020年1月14日火曜日

「イマジネールな身体」と「リアルな身体」



ラカンは想像界について1960年に次のように言って、いったんその重要性を捨て去った。

光学的図式(鏡像段階モデル)は、私の教えの準備段階に遡るものであり、分析テクニックにおいて過大に見積もられたこのモデルにおける想像界を取り払うdéblayer l'imaginaire 必要がある。われわれはもはやこの段階にはいない。…

私のモデルは対象aに光を当てることに失敗している。このモデルは、イマージュの戯れjeu d'imagesを表すとき、対象aが象徴界から受け取る機能を描写できていない il ne saurait décrire la fonction que cet objet reçoit du symbolique 。(ラカン、Remarques sur le Rapport de Daniel Lagache、E682 、1960年)

だが1976年に現実界を把握するためには想像界が重要だと言った。いわば想像界の復権である。

人は、現実界のイデアを自ら得るために、想像界を使う On recourt donc à l'imaginaire pour se faire une idée du réel 。あなた方は、« イデアを自ら得る se faire une idée »と書かねばならない。私は、《球面 sphère 》としての想像界と書く。想像界が意味するものを明瞭に理解するためには、こうせねばならない。(ラカン、S24 16 Novembre 1976)

後期ラカンにおいて何よりも重要なのは、ボロメオの環における想像界と現実界の重なり箇所である。この箇所が超自我・原抑圧・享楽の固着のポジションに相当する。




「真の穴 vrai trou」とあるが、これが以下に示す穴としての身体、話す身体(リアルな身体)のポジションでもある。

ラカンが次のように言うときも、それは「話す身体corps parlant」であり、けっしてイマジネールな身体ではない。

私は私の身体で話している。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973)

重要なのは、身体のイマジネールと以下の穴の享楽 jouissance du trou のポジションにある「話す身体」を混同しないことである。





といってもこんなことはラカンオタクでもなければ普通の人はわからなくて当然だから、最低限「言葉のイメージ」に囚われて「なんとなくいいわ」という感じだけでワカッタフリをしないことをオススメする。

穴とは以前になんどか示したが、ゴダール のいう無の相似形であり、ラカン派用語ではブラックホールである。

確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)

ーーこのゴダール は「美は現実界に対する最後の防衛la beauté est la défense dernière contre le réel.」(ミレール、2014)と「ともに」読むことができる。

現実界の中心にある空虚の存在 existence de ce vide au centre de ce réel をモノ la Choseと呼ぶ。この空虚は…無rienである。(ラカン、S7、27 Janvier 1960)

--ラカンは後年、この「無」を「穴=トラウマ」と呼ぶようになるのである。「現実界は穴=トラウマを為す。le Réel[…] fait « troumatisme »」.(ラカン、S21、19 Février 1974)

別の言い方をすれば、「美は恐ろしきものの始まり」(リルケ)、「美の起源は傷」(ジュネ)である。

あるいは、

ベケットがはっきりと口に出してなにかを評価することはめったになかったが、評価を口にするときは必ず美と恐怖の関係への問いが背景に潜んでいた。(アンドレ・ベルノルド『ベケットの友情』)

これは繊細な精神にとっては誰もがわかっているはずのことである、と言っておこう。

もっとも人はみなこう感じるべきだと主張するつもりはない。ニブサというのは、ひょっとして幸福への道かもしれないから。

幸福な凡庸性のうちに生き愛しほめることができたなら。…もう一度やり直す。しかし無駄だろう。やはり今と同じことになってしまうだろう。-すべてはまたこれまでと同じことになってしまうだろう。なぜならある種の人々はどうしたって迷路に踏み込んでしまうからだ。(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』)

さて以下、文献群である。


「イマジネールな身体」と「穴としての身体」
人はわれわれに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なるわれわれの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou。

L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou. (ラカン、ニース会議 Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974)
イマジネールな身体とリアルな身体
イマジネールな身体
リアルな身体
私たちが知っていることは、言語の効果 effets du langage のひとつは、主体を身体から引き離すことである。主体と身体とのあいだの分裂scission・分離séparationの効果は、言語の介入によってのみ可能である。ゆえに身体は構築されなければならない。人はひとつの身体にては生まれない。この意味は、身体は二次的に構築されるということである。すなわち、身体は言葉の効果 effet de la paroleである。

忘れないでおこう、ラカンは鏡像段階の研究を通して、主体は自らを全体として・統合された身体として認識するために、他者が必要だと論証したことを。幼児が自分の身体のイマージュを獲得するのは、他者のイマージュとの同一化 identification à l'image de l'autre を通してのみである。

しかしながら、言語の構造、つまり象徴秩序へのアクセスが、想像的同一化の必要不可欠な条件である。したがって、身体のイマージュの構成は象徴界から来る効果である l'image du corps est donc un effet qui vient du symbolique。(Florencia Farìas, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin, 2010)
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
自ら享楽する身体[corps en tant qu'il se jouit]とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。[le dit de Lacan Il n'y a pas de rapport sexuel ne fait que répercuter ce primat de l'autoérotisme. ](J.-A. MILLER, -L'être et l'un, 30/03/2011 )
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un  、25/05/2011)

固着によって身体の穴を刻印された自ら享楽する身体(リアルな身体)
ラカンが導入した身体は…自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]、つまり自体性愛的身体である。この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。

le corps que Lacan introduit est[…] un corps qui se jouit, c'est-à-dire un corps auto-érotique, un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas, pas plus qu'on n'a chance de faire exister le rapport sexuel. (Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)
固着としてのリアルな症状
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…

現実界の定義のすべては次の通り。常に同じ場 toujours à la même place かつ象徴界外 hors symbolique にあるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため car identique à elle-mêm--であり、反復的 réitérable でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なし sans rapport de chaîne à d'autre Sa のものである。したがってラカンが現実界的無意識 l'inconscinet réel について注釈した二つの定式の結束としてある。すなわち「一のようなものがある y a de l'Un」と「性関係はない "y a pas" du RS」。(コレット・ソレールColette Soler, Avènements du réel, 2017年)
固着としての症状=他の身体の症状
症状は刻印である。現実界の水準における刻印(身体の上への刻印=固着)である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel,(Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 30 nov 1974)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
穴を為すものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)

現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
・ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…
・言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。

・言存在 parlêtre のサントームは、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(ジャック=アラン・ミレール JACQUES-ALAIN MILLER、L'inconscient et le corps parlant、2014)
骨象a=身体の上への刻印=固着
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけ られる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)
固着=原抑圧 ➡︎
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり心的(表象的-)欲動代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
穴、それは非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(S22, 17 Décembre 1974)
・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)



ラカンが「欲動の現実界」(欲動のリアル le réel pulsionnel )というとき、フロイトにおいては例えば次の表現群がそれに相当する。

欲動要求はリアルな何ものかである [Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel](フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)
自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識 eigentliche Unbewußteとしてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
人の発達史と人の心的装置において、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebeと呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)
欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…この異物とは、内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)